『バーチャル・アイドル物語 蟲毒転生』2話
私は「アイナ・アイリス」なのだろうか。
ポスターを前にして、つるりとした白い床にペタリと座り込んでしまった。
そこでようやく気づいたのは、自分の“身体”がやけに軽いということ。床に腰を下ろす時の感覚も、いつもよりずっと華奢で頼りない。筋肉が抜け落ちたかのような——というのは言い過ぎだけど、私でありながら私ではない、その違和感がとても強い。
無限に続くかのようなこの白い空間では、自分の思考が声になって外に漏れてしまいそうな恐怖がある。
だけど何かを発しないと不安がどんどん膨らんで、ついには押しつぶされそうだ。だから私は、目の前のポスターを睨みながら声を出してみた。
「ミラージュ・ディバイド……。これが私の、いわゆる“デビュー曲”?」
自分のものとは思えない涼やかな声が響く。どことなくアイドルっぽい通る声だけど、違和感がハンパない。
まるで他人の声帯を借りて喋っているみたい——実際、今の私の姿は“他人”なのだけれど。
でも、考えても埒があかない。もっとわけがわからなくなるだけだ。
覚悟をキメて立ち上がり、ポスターの細かい部分を改めて確認しようとしたそのとき、突然あたりの光が歪んだように見えた。
「ちょ、ちょっと待って!」
動揺して声を上げると、白い空間を満たしていたあの硬質的な“静謐さ”が崩れ出す。サラサラと壁が剥げ落ちるように、白い“何か”が粒子となって舞い散り、そこから視界が大きく切り替わった。
まばゆいスポットライトが、今度は私を包んでいた。
そこはさっきまでの無機質な空間とは打って変わって、ステージを思わせるような派手でキラキラとした空間だった。大きなライブホールのセットのようでもあるし、テーマパークのステージのようにも見える。だけど客席にあたる場所は暗く、誰もいない。
自分の足元に目をやると、まるでファッションショーかライブステージの花道のように、薄いパネル状の床が光を帯びて輝いている。
そのまま奥へと続いていて、一体どこまで行けばいいのかわからない。
「えっと、ここは……?」
言葉が出るたびにステージ照明が強くなったり弱くなったり、妙に私の声に反応しているように感じる。アイドルにふさわしい“舞台装置”としてはアリだけれど、肝心の観客がいない。ステージで歌うとか踊るとか、そういった具体的な“指示”も聞こえてこない。てか、こういうのガチで無理なんですけど。
その時、ふっと何かが頭に入り込むように響いた。
声というか、意志というか——風のように耳元をかすめる、不思議な“メッセージ”。
え、いま何か聞こえた?
舞台袖から声がしたわけでもなく、頭の奥に直接飛び込んでくるような感覚。その奇妙な感覚に目を見開いてフリーズしていた。
名乗れと言われても、いったい何を?
私は多喜川まひる。少なくとも、17年間はそうだった。ところがいまこの瞬間の私は、鏡の中に映ったあの金髪の美少女の姿。それが“アイナ・アイリス”であるという事実だけが、頭の中でリフレインしていた。
「私は……」
声が震える。
私は何者なのか。さっきまで確かに「まひる」だったが、いまのこの身体も声も「まひる」ではない。おそらく「アイナ・アイリス」というのがその名前のはずだけど、それは私ではない——。
でも、このまま黙っていても先に進めない気がした。強い衝動が身体を駆け巡り、胸の奥を締め付けるように熱くなる。
(名乗らなきゃいけない。……そう言われているような気がする。)
口を開きかけたそのとき、不意にあたりの照明が一斉に変化した。ステージの花道を縁取る光がさらに鮮やかに、そして客席と思われる暗がりの奥でも、わずかに明滅する光が見えるようになった。
「……誰かいるの……?」
そうつぶやいてみるが、返事はない。けれど、暗がりの中で確かに何かが揺らめく気配を感じる。その瞬間、一瞬だけ気のせいか“誰かがこちらを見ている”ような視線にゾクリとした。
目を凝らしてみても、人影は見当たらない。なんだろう、まるで自分と同じような“何か”がひそんでいるような——根拠のない予感が脳裏をかすめる。
だけど、それ以上を追及する暇もなく、私は再び頭の中で響く声に意識を奪われた。
その言葉には、強烈な圧力のようなものが宿っている。
名乗ること、それ自体が“契約”に近い行為なのだと、本能が訴えていた。
逃げるべきか、それとも受け入れるべきか。躊躇する私の胸に、あのポスターに記された「デビュー」という言葉がチラつく。
(もう、どうすることもできない。だったら……)
ぎゅっと目を閉じ、深呼吸をする。意を決して、ありったけの声を振り絞った。
「わ、わたしは……アイナ・アイリス、です……!」
言い終えた瞬間、眩しいほどのスポットライトが私に集中し、ステージの床がパッと虹色に煌めいた。それに合わせるように、どこからともなくかすかな歓声が聞こえる。いや、歓声と言うよりは、耳鳴りのような低い振動音——けれど不思議と嫌な感じはしない。
じわりと胸の奥に広がっていく熱。それが“推される”感覚、なのだろうか。ステージ上の私は、まるで自分が自分じゃないみたいに、意外なほど冷静だった。
「アイナ・アイリス……」
改めてそう口にしてみる。自分でありながら、自分ではない名前。
だけど、ここでそう名乗らない限り、先に進めないと知っていた。本能がそう警告していた。
視線を上げると、先ほど暗がりに溶け込んでいた何かが、ほんのわずかに揺れて消えたように見えた——まるで「同じ名前を持つ存在が、ほかにもいる」と言わんばかりに。
ひゅっと息をのみ、思わず背筋が震える。でももう後戻りはできない。名乗ってしまったのだから。
私はこのステージの上で“アイナ・アイリス”として推され、生きていくしかない。
その事実を受け入れかけた次の瞬間、ステージ床のライトが一斉に明滅を始める。突然の激しい光と音に、思わず耳を塞いだ。
(な、なに……?)
まるでステージ全体が祝福しているようでもあり、同時に罠に掛かった獲物を嘲笑しているようでもある。
眩しさの先で聞こえる歓声——それは祝福なのか、それとも破滅へのカウントダウンなのか。
私はわずかに開いた目で、しかし絶対に見逃せない何かを見た気がした。ステージの先に続く暗闇の奥、私と同じ姿をした影たちが……ほんの一瞬だけ、こちらに視線を送っていた——そう、まるでこのステージに集う同胞のように。
けれど、スポットライトが強くなった瞬間、それは一瞬でかき消された。
「……“アイナ・アイリス”……か」
その名を呟くと、舞台の歓声は一層大きくなり、私はさらなる光の洪水の中へと包まれていった。もう、後には戻れない。名乗ってしまったのだから。
こうして私は、「アイナ・アイリス」として生きる道を選んだ。
たぶん。私だけが「アイナ・アイリス」ではないなんて、このときはホント知る由もなかった。
先に言ってくれって。ガチで…。
3話につづく