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誰もあなたの献身に報いないのだとしたら

休みをとっているはずの上司が職場にいた。ええ……

この人はちゃんと休めているのだろうか。以前も休日出勤していた気がするが。というか、退勤後に残って何かしているところもたびたび見かける。

「さっさと帰って寝てくれ」と言いたいところだが、おそらくそうもいかないのだろう。気の毒に。全くもって労働社会はクソである。働かせすぎなんだよバカ。

仮に「歴史上のどんな人物でも一人だけ抹殺できる能力」を手に入れたとしたら、私は迷いなくカルヴァンに使うだろう。
もちろん、歴史は偉人のように特異な人物によって大局を変えられるのではない。特異な人物とは、あくまでも時代の趨勢から生まれてくるからだ。結局、カルヴァンという独一個人がいなくたって、プロテスタンティズムの倫理は生まれてくる宿命にあったのかもしれない。移ろいゆく時代の当然の帰結として。
でもやっぱカルヴィニズムってダメだわ。ダンクシュートでくたばりやがれ! 悪霊退散!!

ともかく私だったら、休日出勤なんてコーヒーの一杯でも奢ってもらわないとやってらんないね。
そんなことを考えているうち、ふとこんな風に思った。「上司もそうなのでは?」と。

こういうわけで、上司にコーヒーを差し入れることにした。
そっとデスクに置くつもりだったのだが力加減を誤り、バゴンッッみたいな爆音を響かせてしまう。「……差し上げます」。気の利いた一言もいえない。悲しきモンスターかな。
上司は困惑しているように見えた。喜んでいたかは知らない。人の心の機微など私には分からないのだから、考えるだけ無駄なことなのだろう。

そもそも私がコーヒーを差し入れたのだって「上司の心中」を推し量ったからではない。「私だったら」コーヒーが飲みたいから、上司にもコーヒーをあげよう、という実に子どもじみた理屈のゆえにである。
上司がコーヒーを飲みたがっていたかなんて知らん。上司の考えていることとかよくわかんねーし……あんまり興味もないし……

とはいえ、そこの自覚はあったのだ。自分の行動原理が子どもじみているという自覚は。
ではなぜ自覚の上で行動に移したのかといえば、これは説明するのが少し難しい。一言で表すなら「そうすべきだと思ったから」だろうか。

順を追って話すとしよう。

人はささやかであっても、自分の献身に報いてほしいと思うものだ。

そしてこの「報い」というのは、一般に考えられているものとは少し異なるように思われる。
報いというのは、金ではない。更にいえば、数値化できるものではありえないのだ。

考えてもみてほしい。「休日出勤したから、給料を割増しておくね」──それだけで満足か? 給料が出ないのは論外としても、給料さえ出れば幸せでいられるのか?
せっかくの休みを、自分の自由な時間を、家族なり友人なりと過ごす時間を犠牲にして、尊厳を削ってクソ上司だのクソ客だのにへいこらしながら働いて、その結果銀行の残高──数字がいくらか増える。

なんか虚しくならないか?
「たかが数字、たかが虚構フィクション──たかが金を増やすために、私は色々なかけがえのないものを犠牲にしたのか」って思わないか?

この点で「会社」が「従業員」に与える報いは、全くもって不十分である。
従業員に給料を支払うのと、車にガソリンを入れるのとは同義だ。それは所詮「機械」のメンテナンスなのであって、「人」の献身への報いではない。
こんなもん私じゃなくて、マルセル・モースとかがとっくに指摘していることである。

そう思うと、資本主義の精神には進歩がなくてまったく困る。も〜〜すっとろいんだから。
……ま、しょうがないか! ヴェーバーの言うように資本主義の精神が「予定説に貫かれた結果生まれる、全生涯をくまなく照らす強迫観念的な勤勉」の亡霊なのだとすれば、宗教心なき資本主義とはすでにゾンビなのだから。
ゾンビに成長とか進歩とか求めたってしゃーないわな、ガハハ! 笑いごとじゃねぇ!!!!

兎にも角にも、人は献身に報いてほしいのに、会社は報いてくれないわけだ。
では誰が報いてくれるのだろうか? 「あなたはよく頑張っている。私はその頑張りを知っている」と承認してくれるのだろう? そんな存在はいるのか? ──いるとすれば、家族や友人など、身近な人たちである。
もっともそんな身近な人たちでさえ、報いてくれるのかは怪しいものだが。

パートナーは休日出勤をねぎらうどころか「あなたが働いている間、家のことは誰がやると思っているのだ!」と眉間に皺を寄せる。
逆もまた然りだ。こっちは毎日必死に家のことをやっているというのにパートナーは気にする様子もなく、休日にさえ職場へ出かけてゆく。おかげで気の休まるヒマがない。
そんな話は掃いて捨てるほどあるだろう。

つまるところ、献身へのほんのささやかな報いでさえ、必ず得られるものではないのである。

もし、上司がそうだったとすれば?

私は上司の心境やプライベートなど知らないし、詮索する気もない。
でもって、上司が家だかなんだかで十分に承認と報いを受けられているのであれば、私の出る幕などなかったということになる。それが一番だ。

だが、もしそうでなかったとしたら?
誰も「休日出勤」というこの人の献身に報いないのだと、「ありがとう」や「頑張っているね」を言わないのだとしたら?

怖いと思ったのである。承認の恒常的な欠乏は、いともたやすく人を衰弱死させると私は知っているつもりだ。うちのじーさんはそれで死んでんだよ!!
誰もあなたを承認せず、あなたの献身に報いないのだとしたら、誰があなたの命を守れるだろうか。救えるだろうか。

ならばささやかなりとも、私があなたの献身に報いるものになろう。私にはそれができる意思があるのだから、きっとそうすべきだと思ったのだ。
なに、「あなたに報いる人がいないかもしれない」という私の懸念が杞憂なら、それでいいのである。

ってか、私だって承認されたいわ。だから、情けは人のためならずっていうのかな。
いや、されたいだろ承認。褒められたいだろ百歳まで。大人になるほど褒められなくなっていく社会、なんかのバグでは? 嫌すぎる。
もっと私を褒めてくれ! ばぶーーーーおんぎゃあぁあああ!! こちとら赤ちゃんやぞ!!!

こういう経緯から、上司にコーヒーをあげた。
つまるところ、相手に「承認」という印象さえ与えられるのであれば、手段なんて何でもよかったのである。
でもって、自分がコーヒーを飲みたかったから、コーヒーを選んだというわけだ。まあ、ねぎらいというメッセージくらいは伝わっただろう。

……ってかちょっと待て、他人事じゃねぇ! 出世したらあんな働かされるのかよ!!
いやだ、働きたくないでござる!! 働きたくないでござる!!!!!!

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