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国家と金

だいぶ前に政治思想診断を受けたら「リバタリアン社会主義」というトンデモな結果が出た。私は政治的にはリバタリアンだし、経済的には社会主義者らしい。しらんけど。正確にはちょっと違う気もする。

だが個人的に、根底にある考えは一貫している。私は、人間に自由でいてほしいのだ。
お上のトンチキな妄執から自由でいてほしくて「リバタリアン」だし、金とかいう前時代の遺物から自由でいてほしくて「社会主義者」なのである。

そもそも人は愚かではない。明らかに。

よくある言説に「他人はあなたが思っているほどバカじゃないし、あなたはあなたが思っているほど賢くない」みたいなのがある。前半には賛成だが、後半には反対だ。大いに他人を尊重し、同時に大いに自信家であれよ。自信なんか持つだけ得だぞ、だって誰も持ってないからな!
個人的に、この手の言説は説教臭いからいけ好かない。「他人はあなたが思っているほどバカじゃないし〜」みたいな言い回しをするヤツは絶対「他人の傲慢さをたしなめつつも、謙虚さを忘れない俺/私」に酔ってんだよ。ブーメラン刺さってんだよバーカ!!

ふぅ、やっぱり人の悪口はスッキリするな! 話を戻そう。お上は「伝統を守るため〜」とかなんとかいうが──人間はバカじゃねぇんだから、自由にさせたところで、守りたいと思うような良い伝統は守り続けるに決まっているのだ。
自分が守るべきと感じているものをぶち壊すバカがどこにいるんだよ、え? もしかして人間のことを「オデ、アソビタカッタダケ……」とか言いながら無邪気に色々壊しちゃうタイプの悲しき化け物だと思っていらっしゃる?

仮に人々を自由にした結果消えていくものがあるのだとすれば、それは元々消える定めにあったのである。権力によって無理に延命されていただけで。
たとえ消えていくものがあったとして、それの何が悪い? 所詮その程度だった、人々に愛され必要とされていなかった、というだけのことだろう? 必要ならば、完全な自由のもとでも誰かが残す。

だいたい、トップダウンで意志を押しつけられることほどクソ不愉快なものはない。
人間にとって最も容易なのは、学生であれば学校と先公の、労働者であれば会社と上司の悪口を言うことである。え、ニート? 社会の悪口でも言っとけ。

面従腹背。トップダウン型組織の内部にいる人間の態度はそれに尽きる。そしてトップダウン型組織の中でおそらく最大規模のものが、国家なのである。
骨抜きにしてぇな……だから法律なんてシンプルであればあるほどいい。

基本的に、私は国家に対して「国家風情がごちゃごちゃ口出してきやがって。この程度も自分では考えられないバカだと思ってんだろうな。舐めやがってよ」と思っている。
というと誤解を招きそうだが、「日本が嫌い」なのではない。そうではなくて「近代国民国家」という枠組みそのものがうっすら嫌いなのだ。「なくなれ」とまでは言わないが、「黙ってろ」とはよく思う。

そして、その装置としての金にも同じようなことを思っている。私は今のところ労働者なのだが、金にはほとほと愛想が尽きた。
なんでたかが金のために、やりたくもね〜〜仕事を一日8時間もやんなきゃいけないんだよ! ふざけやがって!!
それに毎日毎日、売上だの荒利だのROAだの回転差資金だのつまらん話を聞かせやがって! ど〜〜でもいーだろそんなん!! たかが数字に一喜一憂して、抜本的解決になっているとも思えん儀式にいちいち時間を使わせやがって、金に振り回されている時間に一番金がかかってるんじゃねぇの? 他にもっとやることあるだろ。子どもにメシ食わせたり、ゲームしたりとかさあ。

だったら金を無意味な数字にしてしまえばいい。すぐさま「撲殺」しろとはいわないが、時間をかけてじわじわと「毒殺」するんだよ。金が世界の中で持つ価値を、相対的に少しずつ低減させていくんだ。
なんでそんなことするのかって? 人間を人間に戻すためだ。「労働力商品・・」じゃなくてな。私、みんなに楽しく生きていてほしいのよ。

おそらく、人間を人間に戻す(=自由にする)ためには二通りの方法があったのだ。
一つは、人をモノ・金の世界の外に連れ出すこと。そしてもう一つは──意外に思うかもしれないが──人を完璧にモノ・金の世界に取り込みきってしまうことだ。

前者は分かりやすいね。人間を商品扱いする世界の論理から、人を解放するのだ。
ただ、後者は少し分かりづらい。これはつまり「人間とは、人の意志で自由に処分できるモノである」というところから「私とは、私の意志で自由に処分できるモノである」へと移行した結果起こることである……合ってるよね? 私は『呪われた部分』のマルクス主義の説明のことを思い浮かべながらこの文章を書いています、バタイユが好きなので。

いずれにせよ、ダメなのはどっちつかずな態度だ。どっちつかずだと、どちらの極北にもたどり着けない。モノの世界から逃れる自由も、モノの世界を完璧に掌握する自由も手に入らなくなってしまう。そのくせ、中途半端さはどちらの「自由」も併せ持つから、傍目にはあらゆる意味で豊かであるように見えてしまうわけだ。
ごちそうを頬張る腹の出た中年(別に少年でもいいのだが)と、「どうせやるなら楽しもう」とか言って仕事をエンジョイする意識高い系──彼らはそれぞれ、この中途半端な自由の世界の体現者だ。両方が同時に存在していられることが、この中途半端な世界において、自由の持つ多様さ・豊かさの象徴とみなされてしまうのである。

ああプラトン。私は、あんたが民主制をして「多様で美しいが、二番目に堕落した国制」と評したのが分かるよ。
だが私は、堕落の果てに救済があると信じている。形而下の世界には形而下の世界の正義があるのだ、それを突き詰めようとするものがいないだけで。

形而上の真理は人の目を焼く。あんた言ったろ? 洞窟から引っ張り出されたばかりの囚人は目が光に慣れておらず、ものが見えないって。
そして、本当はわかってるんだろ? 生まれついて日の光のもとで暮らしている我々でさえ、太陽を直視することはできないのだと。
純熟すれば真理=太陽を見ることができるだなんて、真っ赤な嘘だね。真理の光輝はいつだって、人の視界を真っ暗にする。

太陽を見れば盲いる。上にのぼれば落ちるしかない。真善美への上昇の最果てに待ち受けるのはそういう「必然」だ。上り詰めた人間は死ぬしかない。
つまるところ、それは懲罰であり栄光だ。だからこそ、恐ろしい死が必要なのさ。愚かな好奇を忘れるようなね。

今のはちょけた。が、おおむねそんな感じだ。
尖塔を上り詰め、見上げた太陽に美しい死の真理があるように、広大無辺の大地には、血にまみれた醜い真理がある。それを真理っていうのかはしらんけど。

だから地べたを転げ回って、ありったけの堕落をしよう。生きながらにしてたどり着ける真理は地上にしかない。どこまでも自由になりたいぜ。
あっしは俗物でさあ。イデアなんか見るより夢を見ていたいのよ。酔生夢死、何よりも美しい言葉だ。「くだらない一生」の澱こそが世界だ。

それで今、酒を飲んでいるんだ。君も飲むか?

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