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ボンドルド

ボンドルドはヤンデレ描写のお手本だと思う。話が通じないくせに、相手のすべてを肯定的に捉えているからだ。
相手が自分に対して本気の殺意を向けているにもかかわらず、「おやおや」「自分で考えたのですか、素晴らしい」といった反応をする点にこれが表れている。

(というか、殺意を向けられて「なんでそんなことするの? 〇〇はそんなことしない!」みたいな反応を返すキャラはヤンデレではない。メンヘラだ)

それと興味深いのは、ボンドルドがスラージョに向かって「蛮勇ですね」と言ったことである。そんなこと言うのか!
ボンドルドのことはよくわからない。自分と何らかのつながりを持ち、探究に役立つものすべてを己の一部とみなす、群体?リゾーム?のような自我を持っているのではないかと思う。自己の範囲を薄く引き延ばしているというか。人格を分裂・複製しているわけだし。
リコたち一行以外の探窟家に対してわりあい皮肉っぽいのは、リコたちが子どもだからか、彼女ら以外の探窟家がボンドルドとのつながりを持たないからなのか。

さて、ボンドルドは自己毀損に躊躇がないし、レグのようなアビスの未知を解体することにも躊躇がない。自己も他者も探窟のための手段とみなすが、憧れの対象=アビスにメスを入れることをも厭わない。
ボンドルドはアビスに憧れ、リコたち一行に憧れたが、その「憧れ」とは信仰ではない。対象に触れることを畏れる信仰とは異なり、彼の憧れは探究心と呼ぶにふさわしい。すなわち対象を容赦なく解剖し、骨肉の一片に至るまで白日の下にさらしたいという科学者らしい情熱だ。

それにしても、ボンドルドのモチーフが「祈り」であるのは興味深い。
白笛は祈るように組まれた手の形だし、探窟隊の名前も「祈手アンブラハンズ」である。戦闘員は「死装束シュラウド」だったか。

だが、ボンドルドに未知への畏怖という意味での信仰心はないだろう。
「生物ではない」と判定されるレベルまで人格を変形し、「ボンドルド」を肉体というハードウェア上で任意に起動できるソフトウェアとして扱っている辺り、精神性を神聖視しているとも思えない。

では、ボンドルドは何に祈っているのか。さっぱりわからない。しいて言うなら「いつか終わるが、まだ終わっていない未来」にでも祈っているんじゃなかろうか。
アビスの未知はいつか解明されるべきだ。リコたちの旅路も、ボンドルドの憧れもいつかは終わる。未知を解明したいという渇望が叶った瞬間にだ。それは飽くなき探究心によって駆動する「ボンドルド」の寿命でもあるだろう。だが、今ではない。
果てなき未来に、たどり着くと同時に自分が死ぬ未来に向けて、ボンドルドは祈っているのかもしれない。死装束で最前線に立ち、障害は焼き払い、犠牲にできるものすべてを捧げながら。しらんけど。

ともかく、呪いと祝福に満ちた深淵に「挑み」そして「自分の意志で終わらせる」ことが、ボンドルドの中で重要な位置を占めているのだろう。「旅路の果てに何を選び取り終わるのか。それを決められるのは挑むものだけです」とか言っているし。

そういえば、なんでボンドルドの白笛って同じ手を組んだものなんだ?
自分の手と他者の手を組んで祈っているということなのか? 自分だけでは祈るのに足らない? ともに祈る行為はボンドルドにとって、夢の具象化だったのだろうか? 白笛じぶんの新たな形になるほどに。
あるいは、誰かの手を引っ掴んでいるのか? 例えば、自分の右手で正面にいる人の右手を握ろうと思ったら、傍目にはすれ違いざまに手を引っ掴むような格好となるだろうから。
それとも、彼の祈りの形は歪でアンバランスということだろうか? わからん。

さて、祈り以外のボンドルドのモチーフとしては、天体とりわけ夜明けの光がある。彼の二つ名は「黎明卿」だし、娘の名前も「プルシュカ夜明けの花」、武装の名前も星や光にちなんだものが多い。
シンプルに解釈するのならば、技術等の進歩的な意味での「夜明け」をもたらし、また待ち焦がれるキャラクターでもあるからだろう。

だが無理に「祈り」のところで書いた解釈にこじつけるのなら、ボンドルドにとっての「夜明け」とは夜の終わり、すなわち未知の終わりともいえそうだ。そして、夜が明けて朝の光を浴びる瞬間は、おそらくボンドルドの存在意義がなくなる瞬間でもある。それでも彼は天体に手を伸ばすわけだ。
個人的に面白いと思うのが、ボンドルドの装備において「天に昇る」系の名称が多い点である。「明星へ登るギャングウェイ」然り「月に触れるファーカレス」然り「暁に至る天蓋」然り。実際にボンドルドがやっているのはその逆で、地底に潜っていくことであるにもかかわらず。

ここには何らかの価値の反転があるのだろうか?

アビスに魅入られたものは、もう二度と地上に帰ることができない。それはラストダイブのためかもしれないし、ボンドルドのように奈落の怪物になってしまうからかもしれない。
それでも絶望せずに冒険が続けられるのは、価値がひっくり返っているからではないか。つまり「二度と戻れない死出の旅」は「魂の故郷への旅」へ、「闇すらも及ばぬ深淵への降下」は「目もくらむ光輝への飛翔」へ、「呪われた成れ果て」は「祝福の子」へと。

そしてボンドルドにとっての愛は、この反転を媒介するものなのではないか。媒介物である愛は形而下特有の質量を持たない。それはそれ自体何物でもない。だからこそ、この愛は道徳的判断を伴わないのだ。しらんけど。
こうしてボンドルドは、真の愛情を注ぎながら非人道的な実験に手を染める。愛され、愛した子どもたちは、ときに二重の呪いを受けながら完全な不死となり、ときに使い捨てのカートリッジにされながら白笛となる。極度の悲惨が、強い愛によって価値に反転するわけだ。

そもそも精神隷属機ゾアホリックによって一種の情報生命体となったボンドルドは、半ば形而上の存在である。彼にとって形而下の事象──例えば、肉体とそれに付随する生命、血縁、遺物──は、いかに希少であろうと本質的な価値を持たないのだろう。だからこそ、ボンドルドは良心の呵責なく己の生命を投げ出し、子どもの肉体を加工し、奈落の至宝オーバードと評されるレグのことを解体したのだ。
ボンドルドはアビスへの探究心に取り憑かれた怪物だが、そのアビスの事物でさえ、彼にとって畏怖の対象ではない。祝福を受けた身体が吹き飛ばされたときも惜しむ様子がなかったのは、「祝福を受けた身体」であっても所詮物体だったからではないか?

ボンドルドが持つのは、精神を形而下の世界に具現させる技術である。それはアビス踏破の夢を白笛に、子どもの思慕をカートリッジに、ミーティの愛をナナチへの祝福に変える。
その逆ではない──ボンドルドは物体よりも精神性に価値を感じているだろうに、実際やっていることは精神性の物体への置換なのである。その点、彼は完璧に倒錯している。

自己が到達不可能な夜明けに祈り、科学者として冷徹に解剖する。
純粋な愛を、純粋であるがゆえに重みのないものとして加害に利用する(もっとも、ボンドルドに相手を攻撃しようという意図はないのだろうが)。
精神という価値を物体という無価値に転化し、自分を消費しながら、それでも最前線を切り開く。

だから度し難い。そして魅力的なのだ。


追記1:「愛が重くないヤンデレ」という離れ業

愛=探究心なのではないか? ボンドルドの愛は、価値の反転をも可能にする深淵の神秘──その秘密を暴いた瞬間に「ボンドルド」の存在理由が終わるような神秘──に向けられている。
子どもたちへの愛も「触れることのできない人の精神」という神秘への愛として解釈可能かもしれない(精神隷属器を使えば触れられるだろうが、そうして触れた精神はもはや「生物でない」ものへと変質してしまうのだから意味がない)。

そして(人が自分の死を知覚できないように)神秘へ決してたどり着けないからこそ、対象不在の彼の愛には、形而下の世界に特有の重みがなくなるのだ。
しかし「重みがない」というのは単に現実味がないということであって、この愛が偽物という意味ではない。

重みのある愛は、時間の経過という現実的制約を受ける。愛する人への気持ちが時とともに移ろうように。花が枯れるように。果物が腐るように。
他方、対象が不在で現実味のない愛情は、形而下の腐食を受けない。だからボンドルドの愛は「軽い」にもかかわらず、肉体が死んでも精神が分裂しても時を経ても決して朽ちることのない凄みがあるのだと思う。精神的で抽象的で非物質的だからこそ、かえって不滅であるというか。


追記2:正体不明

ボンドルドのよいところは、露出度0なところである。
露出がまったくないと「ワンチャン、服の下には人間の真似事をする化け物が潜んでいるのでは?」という妄想ができる。
服が破けたら、中からショゴスみたいなのがデロっと出てくるんじゃなかろうか……へへ。

その点、仮面が壊れたときに中から不気味な遺物の目が覗いたのは最高だった。
ありがとう、つくし卿。

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