嫌いなものの話でもするか:嘘松認定厨+α
⚠️後半は口が悪い⚠️
正直なところ、最近はツイフェミよりもツイフェミアンチを、嘘松よりも嘘松認定厨を鬱陶しく感じることが多い。
それは決して、私が「ツイフェミ」や「嘘松」の側に与しているからではない。
むしろ、断片的に流れてくる彼ら彼女らの言動には、かなりウンザリさせられている。
では、なぜ私は、ツイフェミアンチや嘘松認定厨の方を鬱陶しく感じているのだろうか?
それはおそらく、私の観測範囲が偏っているためであろう。
私はTwitterを見ない。
Twitterを見ないから、当然「ツイ」フェミに出くわすこともない。
「嘘松」とやらもほとんど見かけない。
結果として私の目につくのは、Twitterの外側に書き込まれたアンチツイフェミ発言やアンチ嘘松発言だけ……ということになるのだ。
つまり、「私の」視点に立つと、よく知らないものに関するアンチ発言だけが存在する、といった感じなのである。
まあ、いい気分はしない。
それは単に、こちらの観測範囲が著しく偏っているからにすぎないのだろうが。
だから、これはツイフェミアンチや嘘松アンチにとって、ある意味「理不尽に」向けられたヘイトであるといえるだろう。
しかし、こういうことはよくあるのではないか、とも思う。
すなわち「その人の観測範囲の偏りが、その人の意見の形成に大きな影響をもたらす」ということだ。
何なら最近は「意見の内容そのものよりも、その意見が、誰によってどこでどのように語られるのかといったことの方が重要なのかもしれない」とすら思っている。
不合理といえば不合理だ。
本質以外の部分で好悪のベクトルが決まってしまうのだから。
とはいえ、この不合理さが避けがたいものであることも事実だろう。
全く偏ることなく情報を摂取している人間など存在しない。
情報の氾濫する現代社会においてはなおさらである。
まあ、自分の偏りを自覚した上で、自分とは異なる他者への理解(≠同意)と不干渉ができるのであれば、及第点ということで良いだろう……たぶん。
とりあえず私は、自分の観測範囲と意見が偏っていることを自覚し、この意見を読んでいる貴方に押しつけないと約束した上で、こう言いたいのだ。
うぜぇんだよ、特に嘘松認定厨!! つまんねぇ冷笑主義を気取りやがって!!!
ネット上のくせー話に「嘘松乙」とか言うだけなら、小学生でもできるわ! くせー話は確かにくせーが、んなもん見かけてもほっときゃいいだろ。反応がなければ、自然に消滅していくだけなんだから。
大体「嘘松」という言葉で揶揄することの許される「嘘」なんて、そもそも事実かどうかなんざどうでもいいもんだけだろ。
周囲に迷惑がかかったり、特定個人を中傷するような「嘘」を糾弾したいのならば、すでに「名誉毀損」なり「偽計業務妨害」なり「風説の流布」なりの表現があるんだわ。そういう「嘘」を「嘘松」という言葉で茶化すべきではない。
でもって、これらに該当せず「嘘松」という言葉で茶化すことの許される些細な「嘘」の真偽なんて、ほとんどの人間にとってはどうでもいい。面白ければいい。それを、わざわざ「嘘松」とかいう言葉でしらけさせてくれるな。だるいわ。
というか、紋切り型の冷笑主義ほどつまらないものもない。蔓延る「お決まりの」嘘を暴いて嘲笑いたいのに、嘘松という「お決まりの」表現で決めつけるのはナンセンスだろ。
機械的で形式的な懐疑。バカバカしい。それで「自分は嘘を見破れる」とか「その話の真偽や面白さをジャッジする側にいる」とか思ってんのか? 茶化すにしても、もっと面白く茶化せよ。つまんねーんだよ。
ふぅ、スッキリ。
これが言いたかったんだよね、ここ数年間。