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「実るほど頭を垂れる稲穂かな」?
そもそもの話、「有能→謙虚」という命題が仮に真だったとしても、「謙虚→有能」という命題も真であるとは限らない。
「謙虚になれば有能になれる」のであれば、いくらでも謙虚になれば良いのだが、実際問題そうではないだろう。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という文句は、結局のところ「謙虚さは有能さの証である」という褒賞でもって「謙虚」という美徳を推進しようとしているだけのような気もする。
だが実際、謙虚に振る舞っているということしか分からないような人を見て「ああ、この人は有能なんだな」と思うだろうか?
…いや、きっと思わないだろう。せいぜい「優しい人」という評価に落ち着くくらいだ。
であるならば、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の文句は、人が謙虚という美徳を身につけるに足る十分な褒賞を用意できていないような気もするのだ。
でもって、謙虚になることそれ自体に旨味がないのだとしたら、どうして謙虚に振る舞う必要があるのだろう?
それが美徳だから?
個人的に、何の見返りもない美徳を体現できるほど、人間は大層なものじゃないと思っている。
実際、声のでかい人間の方が得をする場面は多々あるのだ。
それを見た「謙虚」な人が「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言ってみたとて、自分が「損をしている」と思ってしまう程度には実っていないのに、無理に頭を垂れさせられていることに対する負け惜しみにしか聞こえなくないか?
じゃあ、垂れたくもない頭なんて垂れなくていいよ。まだそのときじゃないんだ。
遠慮せず、でかい声で「くたばれバカヤロー!!」って叫べばいいよ。
つまるところ、謙虚になるのなんて有能になってからで十分なのである。
めっちゃ有能というわけでもないのに、必要以上に「謙虚たれ」と言われるのは、稼いでもいないのに重税を支払わされるようなものだろう。
……とまあ、そんな風に思わなくもない。
実ってもいない稲穂が頭を垂れたとしたら、その稲は多分いもち病か何かだ。
頭を垂れるのは、十分な水分と栄養素と日照時間を得て、健やかに実ってからで十分なんじゃないの。しらんけど。
だから、程々に尊大になろう。自信過剰になろう。
青々として天を仰ごう。
大丈夫大丈夫、どうせ誰も私たちのことなんか気にしないよ。
まだ実っていない稲穂のことを気にするのなんて、せいぜい農家くらいしかいないんだから。