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デフォルメとカリカチュア

他者の「〇〇さんって✗✗だよね」という言葉は、往々にして的外れか、私という人間を100%表していないように感じられる。

(私はこれが人類普遍の感覚であると信じているのだが、どうだろうか?)

しかし、それも当たり前といえば当たり前の話だ。
なぜかといえば、

  1. 私たちはあらゆる事物を、理性を介してデフォルメされた状態で理解しているから

  2. 私たち自身、他者の前に立つときにはいつだって自分をカリカチュアとして演出するから

……である。

まあ、これだけ言われてもなんのこっちゃ分からないので、今から説明する。


デフォルメ

これは前に別のnote↓でも書いたことだが、私たちは物事を抽象化された状態で捉えている節がある。

例えば、こんな会話があったとしよう。

A「紅茶が好きなんだ」
B「そうなんだ、ダージリンとか?」
A「うーん、ダージリンみたいなストレート向けの茶葉よりも、ミルクティーの方が好きかも」
B「へぇ、例えば?」
A「有名なのだとアッサムとかね。メレン農園のセカンドフラッシュが特に好きだな。あとはサバラガムワもいい。カフェオレみたいに濃厚なミルクティーが淹れられるよ。でも、日常使いに向いているのはディンブラだと思う」
B「なるほどー」

(Aさんめっちゃオタク特有の早口になってもーた)

さて、この会話を経てBさんがAさんに対して抱いた印象は、良くて

  • ミルクティーが好き

  • ストレートティーはそこまで好きじゃない

くらいのものだろう。
何なら、更に細部が捨象されて

  • 紅茶が好き

程度の情報しか頭に残っていないかもしれない。

少なくとも、Bさんの記憶力がよほど良くない限り、「アッサム」「サバラガムワ」「ディンブラ」といったキーワードは頭からすっぽ抜けていると思われる。

しかし、ここで誤解してはならないのは、Bさんは別に、話を聞いていないわけでも、バカというわけでもないということである。

むしろ、かなりちゃんと話を聞いている。
話を聞いて、理解した上で、記憶力に負荷を強いるような情報(茶葉の名前、紅茶の飲み方…)を捨象しているのだ。

そして、このような捨象の結果、Aさんに対して「ミルクティーが好き」「紅茶が好き」という一段抽象化された印象を抱いている。

これが「理性によるデフォルメ」だ。
記憶力やメモの有無によって多少その程度に変動はあるにせよ、私たちは何かを理解するとき、必ず細部を捨象した抽象的情報として対象を捉えている。

そして、この抽象化の度合いが大きければ大きいほど、私たちは対象を単純に見てしまうのである。
最たるものは、ある人を一面的にしか捉えない場合だろう。

「あの人は勉強熱心で有能だから、真面目なんだろう」

こんな風に考えるとき、私たちはその「真面目な人」が家でくだらないYouTubeを見てゲラゲラ笑っている可能性を忘れている。

何なら、本人が過去に「私、家では結構だらけちゃうタイプなんですよ」とか言っていても忘れている。

「真面目な人」という「本筋」からすれば、「家ではだらけがち」という情報は捨象しても問題ないからだ。
理性(とそれが作り出した偏見)が、勝手にそう判断してしまうのである。

以上が「私たちは理性によって、対象を抽象化・単純化して一面的に捉えがち」の説明である。

カリカチュア

さて、先程まで話していたのは「受け手側」の視点だった。
一方、これから説明するカリカチュアは「発信側」の視点である。

まあ、そんなに複雑な話ではない。

私たちは誰かの前に立つとき、意識的に「自分をどのように見せるか」を考えている。
完全に「本来の自分」と乖離したキャラクターを演じることは少ないにせよ、多かれ少なかれ「自分のとある側面」を強調して見せているのだ。

「等身大の私」には、真面目なところも、不真面目なところもある。
素直なところも、ひねくれたところもある。
男性的なところも、女性的なところもある。
保守的なところも、革新的なところもある。
楽観的なところも、悲観的なところもある。
そして、分かりやすいところも、分かりにくいところもある。

しかし、これらがありのままの姿で他人の前に呈示されることはない。
私は多かれ少なかれ「相手に見せたいと思う私」「相手にウケそうな私」を演じることとなる。

学力を重んじるグループでは「真面目」を演じ、面白さを重んじるグループでは「不真面目」を演じるように。

結果的に、私は前者のグループでは「真面目さだけ」と思われ、後者のグループでは「不真面目さだけ」と思われるのである。

(もちろん、ある人の一面しか見ていなくとも、「人間は多面的な存在だから、この人にも他の面があるのかもしれない」と想像することはできるだろうけど)

こうして「演じられた私」は、「等身大の私」と比べて、ある一側面が実際以上に強調されたカリカチュア的な外観をしている。

そして、他者はこのカリカチュアだけを見て、「私」がどのような姿をしているか想像せざるを得ないのだ。

まとめ

人とコミュニケーションをとるとき、私たちは

  • 「一部分が強調された、相手が見せたい相手の姿」しか見えない

  • その姿を、更に自分の頭の中で抽象化=単純化して理解してしまう

という、二重の無理解の困難にさらされている。

自分の発信したカリカチュアは相手に受け取られ、更に一部分が肥大化したカリカチュアとなる。逆も然りだ。

そして私は、自分もこの「無理解の構造」の片棒を担いでいるにもかかわらず、「〇〇さんって✗✗だよね」という言葉に違和感を覚えてしまう。

…人間ってままならないね。
でも、だからこそ、コミュニケーションは面白いのかもしれない。

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