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人畜

人間の両性がうっすらと感じている苦しみを、もっとも極端な形で可視化したのが家畜の生涯だと思う。

まずオスは、産まれることや生きることをそこまで望まれていない。子どもや卵を産むことができないからである。
だから雄牛は雌牛と比べてすぐに出荷されるし、ひよこのオスに至っては雌雄鑑別のあとすぐに殺処分されてしまうわけだ。おまけに牛や豚の場合、肉質もメスの方が美味しいと評される。
家畜においては、種付けのために必要な一部の選ばれた存在を除いて、オスは基本望まれていないのである。だからすぐに殺される。命や肉の価値も高いとみなされない。家畜のオスとは、人にとっての有用性がないからすぐに殺される存在だ。

一方のメスはといえば、生殖能力と肉体の価値を徹底的に搾取されている。
一部の比較的幸福な家畜を除いて、ほとんどのメスは狭く不潔な畜舎に閉じ込められ、振り返ることも許されず、生殖能力が衰えるそのときまで妊娠と出産をくり返すことになる。やがて衰えが見えると、自身も肉として出荷されてその生涯を終える。
確かにメスは、オスに比べれば長生きだろう。だからといって幸福というわけでは決してないが。「生きているんだから、死ぬよりは幸せでしょ」というのは生きていることを至上とする人間のエゴにすぎない。家畜のメスとは、有用性を持つがゆえに一生をかけて搾取され、惨めな生を送ることになる存在なのだ。

そして家畜のオスとメスの悲惨は、多かれ少なかれ人間の男女にも当てはまる。

男性の悲惨は根本的に「生殖に比較的寄与しないがゆえに、命と肉体の価値が低いとみなされること」に淵源を持つように思う。
確かに男性は筋力に優れる傾向にあるが、それとても「使い捨ての兵士」としての性能に由来している。彼らの膂力はおそらく、相手を死に至らしめるまで闘争するためにあったのだ。
だから男性はすぐに死んでしまうし、殺されてしまう。それを可哀想だとも思われない。なぜなら誰もが──男性自身さえも──男性の命をどこかで「使い捨て」だとみなしているからだ。現代に至ってすら、その呪いは解かれていない。

一方の女性の悲惨は主として「生殖に果たす役割が大きいがゆえに有用性を持つとみなされた命と肉体を、徹底的に搾取されること」に原因がある。
確かに女性は男性に比べれば「死なない」だろうが、それだけで幸福なわけがない。彼女たちの苦しみは、己の価値を己のものとして使えないところにある。
高温のものから低温のものへと熱が移るように、高いところから低いところへとものが落ちるように、生殖という価値は、女性から男性へと一方通行で流れていく。そして、価値を略奪されるしかないがゆえに女性は「弱い」とみなされ、軽んじられてきたのだ。しらんけど。

さて、女性の地位はずいぶんと「向上」してきた。それはおそらく、人類が生殖と疎遠になりつつあることと無関係ではないだろう。言うまでもなく、少子高齢化はもはや先進国だけの問題ではない。
「子孫を残す」ということを度外視すれば、肉体の価値は男女で変わらない。「仕事」には男も女もない。生殖から離れた有用性ビジネスの世界では、全ての命が使い捨てであり、全ての命が無価値だ。

それは確かに「平等」である。命の価値を「低い方=男性」に合わせる方向での平等だが。
だから男性は相変わらず死んでしまうのだろう。命の価値を「高い方=女性」に合わせる方向の平等ではないからだ。
今はまだ過渡期だが、現在の方向性の平等が完成した暁には、女性もすぐに死ぬようになっているんだろうな。嫌な話だ。どっかで軌道修正しなよ。

まあ、それもこれも有用性の論理が幅をきかせすぎたせいだろう。そして、有用な命の極北とは家畜なのである。
人間は自分を家畜にしすぎたのかもしれない。すぐに殺されるか、惨めったらしく生きるかの二択から逃れられないほどに。そして互いのことを「生きてるだけマシだろ!」「惨めじゃないだけマシでしょ!」と罵り合っている。

気の毒だ。私はなるべく多くの生命に幸せでいてほしい。男性であれ女性であれ。メスであれオスであれ。

それにしても、なぜ有用性の論理はそこまで力を得たのだろうか? 何の根拠もない憶測だが、有用性の論理は原初、男性の命を守るためのものだったのだと思う。
生き物としての身体性に照らせば、オスの命は基本的に無価値とみなされてしまう。それこそ家畜であれば、生まれた瞬間殺されるほどに。
しかしこの論理に沿って考えれば、役に立ちさえするなら生きていてもよいということになる。これは条件つきではあるが、男性の命を守るうえで重要な教義だっただろう。

論理とは女性よりも、男性を守るために必要なものだった。男性を「引き上げる」ためのものだった。だからこそ、論理の世界は長らく男尊女卑だったのである。すでに生殖力という価値を持っていた女性は、わざわざ引き上げてやる必要もなかったのだろう。
そして有用性の論理は、ある時点で「有用な男性ならば、生きていてもよい」から「男性が生きているならば、その人は有用ということだ」へと転換したのではないか。結果として、生きている男性は全て有用ということになった。

女性から価値を搾取するシステムはその動力源だろう。「価値を奪える=持ってこられる」ということは、言うまでもなく有能さ=有用性の証明になるからだ。かくて男性は、ようやく自分が生きていてよいという確信を得ることに成功した。
だからといって男は恵まれている、というのでもない。結局のところ、価値を略奪するためには勝利しなければならないからだ。その過程で死ぬことも当然のようにある。限りある価値を奪い合う競争とは、どこまでも過酷になる運命なのである。ブルシットジョバーが過労死するように。

兎角この論理は、とうとう有用性に還元されえない世界をも侵食し、今に至る。
まあ、全ては私の妄想なのだが。とはいえ事実だとすれば皮肉な話である。命を守るために生まれたであろう論理が、今となってはもっとも多くの命を奪っているのだから。
今生きている人々の命を仕事や戦争で奪い、将来生まれるはずだった命を生まれなくすることで間接的に奪う。ひとえに「成果を出して、有用性を証明しなければ生きることを許されない」という妄執のゆえに。

ね〜〜もうやめようよ。そんなことよりたけのこ食おうぜ。それだけでいいのにさ。

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