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ケレン味(+布教)
はったりやごまかしとは違う気もするが、俗っぽくてユーモラスで毒がある──ケレン味たっぷりの文章が好きだ。
しかし私のいう「ケレン味」とは型なしの奇抜さではない。何か芯の通った深い思索のあとに「それでもなお」筆者が低俗さをまとわせると決めた、その意志のことである。
……くだくだ書いていても伝わらないだろうから、引用することにする。
大人になるにつれて、ぼーっと映画を観ることができなくなった。映画を鑑賞している間、いつも僕の脳内には邪念が渦巻いているのだ。(中略)
「これは鋭い批評を書けそうだ・・・」という下心で知的陰茎を勃起させながら、僕は映画館に向かった。
この記事を書くに至った直接的なきっかけは、上記のnoteを読んだことだった。
「下心で知的陰茎を勃起させながら」のくだりがたまらない。痛快だ。
私が(おそらくは多くの人も)インテリ気取りを見たときに感じる、うっすらとした気持ちの悪さと鼻息の荒さを、こんなにもうまく揶揄してくれた表現は他に知らない。
この人はずっと、こういう広い意味での「下心」や欲望について思案を巡らせてきたのだろう。
「下心」とは、必ずしも性欲や金銭欲に限られるわけではない。
それと同時に、性欲や金銭欲とて必ずしも純粋な意味で「下心」であるとは限らない。
そういえば、私はこの文章もすごく好きだったんだ。
残念ながら一般的な用法の本音には建前が潜んでいる。金が欲しくて女の子をファックしたいという建前だ。普段はそういう欲求を隠していながら礼儀正しく振る舞っているけれど、酒を飲めば欲望を丸出しにする‥そんな建前だ。
欲望とは、実のところ何か。他方社会の中で、それはどのようなものとみなされているのか。
「欲望とはこういうものである」というイメージを生み出し、維持するメカニズムとは何だったのか。実情とイメージのギャップから、いかに巨大な弊害が生まれてしまったのか。
それを解消するためにはどうすればよいのか。何に挑まなければならないのか。
おそらく上記の文章の根底には、こういう巨大な思索と知識が渦巻いているのだろう。それは単なる考えではなく、軸を持った思想である。
土壌に蓄えられた水がじわじわと地表に染み出してくるように、大量の思考と情報の中からひとつの輪郭が浮上して、やがて言葉として現れる。
だがそれは所詮言葉である。言葉以外で思想は語りえないし、考えられない。しかし言葉は、渦巻く無数の思考を表現しつくすことができない。言葉は思考を加工し、パッケージングし、ラベルを貼って売り出すための道具であり、完成品だ。
つまるところ、自分の思考をひとつの思想として外に出すというのは、己の思考をいかに加工し売り出すのかを決定するということでもある。意識的にであれ無意識的にであれ。
自分の思考にどのような外形を与えるのか、自分が決める。そうして実際に、形を作っていく。挑む相手が大きいほど軽やかに。
同じく千里を行くのなら、下を向いて歩くよりは上を向いて歩いたほうがいい。道半ばで死ぬかもしれないなら、悔いながら死ぬよりは笑って死にたい。いや、しらんけど。
とかくこういうわけで、私は言葉という嘘(=それが実際の思考とは異なるものだと知ったうえで、実際の思考と同じということにする擬制)を用いて人間がなしうる仕事の中で、ケレン味のあるものこそえてして高潔だと思うのだ。
はったり、ごまかし、傾奇者──だからどうした? 炎上上等、俗受け万歳! 大義に死すより泥吸って生きろ。道化にでも何にでもなってやれ。
そういう高潔さだ。露悪的で下品だからこそ、かえってそこに品位が宿る。伝わるかな?
だいたい、ケレン味のない文章はつまんねーーんだよ!!
文章は文章である時点で作為だろうが! カマトトぶってんじゃねえ!!
言葉とは人工物だ。然らば文章もまた、人工的に捏造された産物にすぎない。
だというのにケレン味のない文章を「素直で自然だ」と称賛するたァ、どういう魂胆だ?
文章という体裁に整えられている時点で、心の奥底から溢れ出してきた衝動そのものとは絶対、別物になっているのにな。衝迫はまともな言葉の形をとらないし、人様に見せられるようなものじゃねーんだからよ。
「素直で自然」な文章とは、畢竟、素直で自然に見えるように作られた文章を意味するわけだ。
「ケレン味のない文章」は、作り込まれた「ナチュラルメイク」と同じだ。そして、ケレン味のない文章を賛美するのは、「ナチュラルメイク」を称賛することと同じである。
わかってやってんなら外野がとやかく言うことじゃないが、そうでないなら、童貞くさいことこの上ない。異性に夢を見すぎるあまり、ナチュラルに傲慢になっているタイプの。
知的童貞はさっさと卒業しろ。自分でも文章書いてみろ!!
そこにあるのは純度100%のケレン味だ。作為だ。
ときとして自分自身にすら「ありのままの思いの丈を綴れた!」と錯覚させるほどの、完璧なはったりなのである。
言語化とは、自分ごと世界を騙したいという途方もない下心だ。
そうと知りながら、この下心をあっけらかんと肯定するような精神が、私は大好きなのである。もうほんと、痺れるほどに。
私はあなたに騙されたい。なあ、騙してくれよ。