新大宮アルキ
人工衛星は暗闇の中 孤独を泳ぐ
絵画よりも広いこの世の 爆発は
祈り
カネコアヤノの「よすが」を買って、古いパソコンに苦労して取り込み、それをスマホにこれまた苦労して移して、タダで貰ったワイヤレスイヤホンで、ききながら、
ボクの頭の中では爆発が続いていた。
何かやらなくちゃ、という焦りはないが、若い頃よりも複雑なボク自身の、なにか言葉にするだけでも、あまりに錯綜してまとまらないのだった。それは、
昔から、若い頃こそ、そうだったのかもしれない。
しかしでも、若い頃のほうが、論理を信頼していたからかどうか、わからないが、とにかく今よりも、それが偽りの統一だったにせよ、まとまりのある、整合性のある日記を書いていたのだ。
だが今はそれができず誤魔化しなのかなんなのか、詩…めいた言語で以て文章を書き散らすばかり。書き、散らさなければ、なにかじぶんのこころもちに沿わないようで、まともなような文章を書いていたらしまいにゃコチラのあたまが錯乱してきてしまう、のを、なんとか抑えるために、詩…のようなことばを、書き、散らすこと以外にはなにも書けなくなってしまった、というか、書いてすらいない。それは、ほとんど、
スマホのメモ帳に殴り書きした、
単なるメモに過ぎないのですから。
他人の目、を気にする自意識、からもしかしたら倫理が生まれたのではないか、と考えて、煩悩即菩提、迷いなくして悟りはないのですから、自意識がなければそこからの離脱もない。なにかを離れることが救いなら、そのなにかがなければ救いすら無い。その無いこそがボクの欲しいものなので。
自己肯定こそが救い、と考えたこともあった。それは、どんな理屈にせよ、真に自己がこころの底から自己を肯定するとき、そこに自意識もなければ、妙な虚栄も、葛藤もない。自己欺瞞、自己満足、と言われようが、そんな世間の声すら届かないからこそ救いなのではないか?
宗教とはほんとうに個人的なものだと思う。つまり、自分がそう思えば、そうなのだ。唯識、、心理主義だ。
外の世界に触れたとき、つまり主客分離してそこにはじめて争いということが起こる。不統一がおこり、悩み、葛藤が出てくる。
匿れて生きよ、そう言った快楽主義者があった。ボクもできるなら匿れて生きたい。倫理も税金もないところ。年金制度もマイナンバー制度も届かない、この世の果てへ。
この世の果てはこの世ではないのか? この世を吹き飛ばす、爆発物をつくることだけ、考えて生きている、と言えば大袈裟だ、日々の食事、仕事のこと、など、考えて生きている。
日日是好日。日日はニチニチと読むが、これは、ニチ、ニチ、と、ひとつずつなので、日々ではない。
日々では、日が続いているのである。ニチニチだと、日と日は独立して、独立しながら、やはり続いていく。
これは散歩の歩き方である。一歩一歩、あるいていくので、なにか目的地へ向けての歩行とはちがう。歩行は目指すものがあり、それまでの過程であるが、ニチニチは、それ自体が、自然の時間の流れと同一で、永遠なのである。
この世の時間を吹き飛ばす爆弾を、キラークイーンでなくとも作らなければならない。それは、梶井基次郎が京都丸善に積み上げた本の頂点に置いた檸檬である。
檸檬は爆発し、丸善もろともこの世を吹き飛ばした。そして現に今も、爆発している。
ボクはトゥウィッターに書いた、永遠に爆発する爆弾こそ本物なので、この世の事象をぐちゃぐちゃにし、混乱をもたらすような爆弾は、出来の悪い爆弾だと。
ボクは本物の爆弾を作りたいので、チカゴロはダダイズムなどまた漁り始めている。
今も宇宙は爆発しているのだと思うと、居ても立っても居られなくなって、外に出た。電車に乗ってゴヒャクエン。これはボクのだいじな財産だが、宇宙が爆発しているのに、何が財産だ。
電車のなかでフカザワシチロウを読んだ。新大宮で降りて、歩いた。左手首に、コンパス。靴はレッドウイングのベックマン。
単焦点レンズをふたつ。マイクロフォーサーズの20mmと42.5mm。このふたつの目が、今日のボクの焦点距離。これでいい、これだけでいい。
コンパスは結局見ることはなかった。できれば迷子になりたかったし、方角なんかは知りたくなった。靴は途中で、アスファルトの割れ目に右足がひっかかり、かかと部分の皮革がえぐれた。ああ〜、やっちゃった、ショックだなあ〜、とか思いながら、そんなに気にしてない?
42.5mmのレンズも、一度も使わなくて、ボクの目はもともと広角寄りなので、20mmでも狭いのだ。
ぶっこふで、赤瀬川原平の本を買って。
佐保川沿いを歩いたのがたのしかった。ああいう川はいい。トゥウィッターで知って、好きになったひとの影響で、ガードレールを撮った。きみもひとりなのかい?ガードレールはひとりじゃないだろう。
昔、詩を書いたが、その中でボクは金属の玉なのだった。その感覚は今もあって、金属の玉は、海の底で窒息しかけている。
無機質なもの、しかしちょっと「壊れ」てるもの、そんなものが慰みに、つまりトモダチに、なるのだ。
なぜならボクは、もう大して何にも価値を感じないからなのだ。辻潤の書いてたことに深く共感するのだが、何にも興味をひかれない。たのしいのは、じぶんがほんとうに孤独になれたときだけだ。
それは、壊れた機械であって、無機質な、無用な、人工物である。街を歩くのも、そんなトモダチに逢いたいからかもしれない。
そこで彼らは、この世の果てへ爆発している。それは、吹き飛ばすからだ、ボクの、生体情報を。
もう、生きていることのよろこびとか、あたたかさとかは、いらないんだ。そういうものは結局は煩わしいし、馴染めない。
ボクはそうは思わないが、これを異邦人と呼んでもいいんだろう。故郷は、ボクにとって血でも情でもない。土であるにしても、その土は国土ではもちろんないし、社会的なこととはなんら関係のない土だ。
知らない街を歩くのは、それが余所の土だからで、自分とはなんの関係もないから、ボクは傍観者になって、生きずに済むので、スクラップが歩いている。
スクラップ同士は別に、磁石のようにひかれあったりはしない。これは無に取り憑かれた人間である。
そいで、暗くなっても歩いて、このままどこまでもアルケル、永遠に、どこまでも行ってしまって、そのまま消えていく、と本当に思えることは、あんまりない。時々ある。リアリティのない現実が濃くなってきて、それが退屈を助長して、ボクはこどもに戻りたい、夢の中でなら、新鮮な驚きをもって、現実を経験できるだろうに。