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【東日本大震災】二十代半ば、大分に帰ると決めた日。防災知識ゼロで迎えた大災害の中で見たもの。


3月11日、大きく揺れた。震度5だった。


あの日、私は新宿の某百貨店の1階で接客をしていた。
大きな地震が来た。
叫んで座り込む人、出入り口方面へふらつきながら逃げようとする人。
一階の玄関近くはパニックだった。
館の訓練通り、誘導係としてお客様に落ち着くよう声掛けをしながら、しゃがんだ姿勢で通路の真ん中、一番障害のない場所へお客様を集めた。

一旦は地震が落ち着いた後、隣の売り場の店長が教えてくれた。
街は停電し、電車が動かないこと、
新宿の周辺のビジホはもう予約が取れないこと、
ネカフェに問い合わせてはどうかと。
口々に帰れないね、どうしようという会話が耳に入り、
新宿周辺在住の従業員は、さぞ仮宿で大変だっただろう。

そして百貨店の上階は天井が崩れ大変な被害にあっていた。
のちのちお客様から多くのクレームがあり、建物の耐震性について報道もあったくらいだ。
従業員用階段の壁に、数メートルの大きな亀裂が走って今にも崩れそうだったのは、さらに恐怖を煽った。

帰宅の準備をしていると、館の社員がやってきて、皆に説明をし始めた。
一人ではなく、グループで帰宅をしてください。
誘拐・性被害など、TVの向こうでしか聞かないおどおどしい言葉が並んだ。
この状況で、そんなこと考えるアホが発生する街なんだと。

当時大塚に住んでいた私は、比較的新宿から近い方だった。
そして帰りの道をぼんやり覚えていたので、館を出て一人で歩き始めた。
同じ方面に帰宅する知り合いなんていなかったし、泊まりにおいでというほど仲良しな人もいなかった。

ネオンの街、新宿が、人の声だけで静まり返っていた。
車の渋滞のランプだけが輝く。
新宿出てすぐ、小さな鳥居の神社がある。
恐怖のあまり、見ることができなかった。

一緒に住んでいるパートナーとは電話が繋がらない。
唯一LINEだけがしっかり働いていた。
パートナーは職場の片付けをして、新宿方面にバイクで迎えに来るという。
通常なら30分かからない道のりも、4時間、ヒールで待った。
少しづつ歩いて、その時にはすでに高田馬場についていた。
人の大きな流れは、枝のように増えては消えを繰り返していた。
異常なこと、現実的ではないことが起きているのはわかった。

アパートの近くのコンビニからは商品が消え、食事は家にあるインスタントでしのいだ。
家の中は被害はほぼなく、お皿が数枚割れた程度だった。

数日後、百貨店に出勤した。
従業員用の休憩室のテレビは、連日津波の映像が流れた。
皆見入っていた、そして少しづつ心を蝕んでいった。
地震のトラウマで、誰々が辞めたという声も何度か聞いた。
その後、私もその一人となる。

どうせ死ぬなら大分で、家族のそばで死にたい。
そう思ってすぐに退職し帰郷した。

大分に帰って変わったこと。


大分に戻って、穏やかな日々を送っている。
防災グッズは備えたし、年に一度はリュックの中身の見直しもする。
キャンプ道具は災害時に使えるものを基準に選んだ。
賃貸を借りるときは海抜何メートルか確認するようになった。
子供には災害時の避難場所、どのように迎えに行くか叩き込んだ。
高齢の親には、生きてたら会おうとだけ伝えてある。
南海トラフ関係のニュースや記事、Youtubeなんかも、ことあるたびに読み漁った。
震度5レベルの地震が来れば、子供を叩き起こして屋外に出る習慣がついている。
周辺の人が寝静まっていてもだ。

大分で震度5なんて、数日話題に上がる程度。
大袈裟だと笑われることもあるだろう。
でもどうしても逃げられないのだ、自然災害からは。
だから何をするか、どう生き抜くかを考えるのだ。

怖いのは自然災害だけじゃないことも分かった。
人を押し退けて、自分だけ助かろうとする人もいる。
だから防災グッズ以外のことも考えなきゃいけない。

アウトドアスキルは役に立つ。
子供たちがたとえ覚えなくても、
経験してたら安心してアクションできることもあるだろう。

3月11日は、
東日本大震災で感じたこと・起きたことを
家族に伝える大事な日になった。

最後に伝えたいこと。


人並みな意見だが、
人間なんて非力、今ある電気や水は頼れない。
だから備えて、そして子供や大切な人に伝えて。
地震に恐れ慄くのは、起こってからでいい。
でも予備知識があれば状況は大きく違うと思う。
災害は思考を停止させる。

近日中に、住んでいる地域の避難場所を確認してください。
想定されるリスク。
それを家族全員にリマインドすること。
私からのお願いです。







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