見出し画像

23.06.08 "自分の意思"に従って動く時間

・ある日の親子体験の沢登りイベント
未就学児の参加が多かった
危ないので手はつながないでくださいとお願いしたが、ほとんどの親子が最初から最後まで手をつないでいた
主導権は完全に親
転ばないように上に引っ張られるあまり、あやつり人形のようになっている子もいた
地面に足の裏を付けることすらせず、甲や側面を使ってふわふわ漂うように歩いていた

「ここに足をかけたらいいよ」「あそこは深くなってるからこっちを通ろうね」と常にしゃべっている親や、「ここは抱っこしてあげるね」と難所は自動でスキップさせる親もいた

親はよかれと思っての言動だろう
でも、せめて子どもが「どう通ればいいんだろう」と立ち止まるまで、「通れないからどうにかして」と自分から助けを求めるまでは、黙って待っていてほしかったなぁと思う

・あるとき、公園でのイベントで私が泥団子を作っていると、小学生と幼稚園児の兄妹が一緒になって作り始めた
小一時間没頭して、とてもいい時間を過ごした
兄が「泥団子なんて作ったの久しぶり」と言うので、なかなか作る機会ないよね〜なんて話していたら、妹が「泥団子はね、年長さんで作るんだよ〜」と言った

あ、泥団子って今どきは、自由遊びの中で作るものじゃないのね
先生がみんなの前に立って「今日は泥団子を作りましょう」と言って作るものなのね
その感覚にびっくりした

幼稚園や保育園や学童保育は本来遊び=自分のやりたいことをやる場だと思うのだけど、最近はそういった場所までも学校化、習い事化が進んでいる
その方が親受けがいいし、スタッフも管理が楽なのだろう

・私が子どものころは、習い事なんて週1の30分だけだった
幼稚園の活動も、自由遊びがほとんどだった気がする
小学校の放課後も、学童保育に行く子は少なく、子どもだけで遊んでいた
場の主導権は当然子どもだ
生活の中に、何をするか(あるいは何もしないか)を自分で決められる時間が十分にあった

でも、今の子どもたちの多くは幼児期から大人が用意した遊びをこなし、学校に上がれば先生の指示に従ってカリキュラムを履修し、放課後や休みの日も塾や習い事に行って先生の言うことを聞く
人生のほとんどが、大人の用意したプログラムを受講する時間だ
大人が「子どものために」と思えば思うほど、その時間は増えていくけれど
こうさせたい、こうなってほしいという大人の意思に沿って過ごすばかりの環境は、はたして本当に子どものためになるのだろうか

・学校や習い事へ行かせて「きちんとさせる」のがよいという意識の大人は多い
でも、本当はやる内容そのものよりも、「自分のやりたいことをやれた」という実感の方が大事なんじゃないだろうか

しょうもなくても役に立たなくても、非効率でも、大人には意味がわからなくても
水たまりダイブでもダンゴムシ集めでも、何の実用性もない謎のオブジェを作ってもいい
せっかく沢登りに来たのに石を拾って立ち止まってばかりでもいいのだ
用意されたプログラムじゃない、自分の心から湧き出るものに従って、やってみること、達成感を感じること
それが何よりも大事なのだと私は思う

その積み重ねによって考える力が育ち、自分を信じる力がつき、自分も人も大事にする力が根付いていくのだと思う

・"大人の意思"で手出し口出しせずに、子どもが自分で考えるのを待つ
子どもが自分で決めるまで、自分で言ってくるまで待つ

これやりたい!楽しそう!
やりたくない、何もしたくない
そんな"自分の意思"に従って行動できる時間を、子どもたちに保障する
(というか、大人にだって必要だ)

私はそういう大人でいたいなぁと思う

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?