"持つ方"と"ある方"
目次
- はじめに
- 気にし続けている「障害を持つ方(かた)」という表現
-「持つ」から「ある」となった根拠はどこか
-さいごに
はじめに
今日は神戸で、年に一度の「アクセシビリティの祭典」が開催される。
アクセシビリティの祭典は2015年から始まったもので、Webを含めたデジタルアクセシビリティ技術の紹介が1日中されるというアクセシビリティに関わるものにとっては見逃せないイベントだ‥と言いつつ、これまで行く機会がなく今回初参加だったりする。楽しみ。
さてプログラムを見ていて気になったことがひとつある。
「○○障害を持つ方(かた)」という表記だ。
(決して言葉遊びや揚げ足をとる意図ではないことを、最初に断っておく。)
気にし続けている「障害を持つ方」という表現
以前のnote『メルカリの障害者雇用(2018年4月28日)』の最後にも書いたのだけど、ある失敗以来私自身は「障害を持つ方」という表現は避けている。(もしお時間が許せば、リンク先のその部分だけでもご覧いただけると嬉しい。)
この時ご指摘をしてくださったのは、官公庁の障がい者施策担当の方だ。
内閣府が毎年発行している障害者白書を見ると確かに「障害のある人」という表記に統一している。例えば
第1章 障害のある人に対する理解を深めるための基盤づくり
1.広報・啓発等
「障害者基本計画(第3次)」(平成25年9月閣議決定)の掲げる共生社会の実現を図るため、その理念の普及を図るとともに、障害及び障害のある人に関する国民の理解を促進し、併せて、障害のある人への配慮等について国民の協力を得るため、幅広い国民の参加による広報・啓発活動を推進することとしている。
— 平成29年版 障害者白書(概要) 第3編 障害者施策の実施状況 第1章より
余談だが「障害者」「障がい者」、ここにはないが「障碍者」という複数の表記がある。元の文章で使用されているものは置き換えず、そのまま引用している。私自身は今のところ、人は「障がい者」、差しさわりのある原因は「障害」、法令用語は「障害者」、そして引用元に準ずるようにしている。
なお、障がい者制度改革推進会議でこの表記について検討しているので併せて紹介しておく。
【PDF文書】「障害」の表記に関する検討結果について-内閣府 障がい者制度改革推進会議 「障害」の表記に関する作業チーム(平成22年11月22日)
また各都道府県で「がい」の表記について取り決めているところもある。
【PDF文書】「障害」に係る「がい」の字に対する取扱い(表記を改めている都道府県・指定都市)内閣府 障害者政策委員会による一覧
「持つ」と「ある」の根拠はどこか
「障害を持つ方」という言い方に戻ろう。
障害が「ある」のか、障害を「持つ」のか。【表記のちがいを考える】という"教員ステーション"での記事が、検索すると出てきた。
この中で共同通信社が出版している『記者ハンドブック』でのガイドラインに触れている。紹介されているのは2008年の第11版とのことだが、入手できた2012年のもので調べてみた。
差別語、不快用語
性別、職業、身分、地位、境遇、信条、人種、民族、地域、心身の状態、病気、身体的な特徴などについて差別の観念を表す言葉、言い回しは当事者にとって重大な侮辱、精神的な苦痛、あるいは差別、いじめにつながるので使用しない。
例えば「障害を持つ(人・子ども)という表現も、障害のある人が自分から障害を持ったわけではないので「障害の(が)ある ( 人・子ども )」と表現する配慮が必要だ。
— 共同通信社「記者ハンドブック 第12版」P.519
この記者ハンドブックでは「しょうがい」という言葉を引くと、そちらにも言葉の説明や使い方に続けて[注]として以下のように明記されている。
[注]「障害を持つ」は「障害が(の)ある」に言い換える。
一方で、アメリカで1990年7月に成立したアメリカ障害者法、The Americans with Disabilities Act(略称ADA)は直訳で「障害を持つアメリカ人法」と訳されている。
これに関連して、アメリカンセンターJAPANで一昨年(2016年)に行われたアメリカ大使館主催のADA法に関する講演のタイトルを見ると
障害のあるアメリカ人法 (ADA) 26周年:その功績とこれからの課題
となっている。推測だが、先の記者ハンドブック等に倣った上で「障害のあるアメリカ人法」と日本語訳したのだろうか。
先のADA法に関する講演でも紹介されていた、障害者に関わる施策の調査研究や障害者に関わる施策の普及啓発をされているNPO法人ディーピーアイ日本会議のウェブサイトをみると大きく
「障害のある人もない人も同じように暮らせる社会へ」
とある。
さいごに
声高にかつ強硬に「言い換えましょう!」と叫ぶつもりは自分自身にはない。
今回の「持つ」or「ある」に限らず、表記を変えたところで、例えそれが動機づけになったとしても根底にある意識が急に大きく変わるわけではないからだ。
それに、その言い方をされると嫌だ、と感じるか否かは人それぞれというところもあって難しい。また、法令等に関する表記を変えることは、なかなか厳しそうだ。
しかし気にしている人、傷ついている人、またそれについての議論や配慮がなされていることに気がつくのがまず一歩。
言葉は移ろうものである。
故 金田一春彦先生も「言葉は生き物」と言っておられる。
何かを契機に、何気なく使っている言葉が今の時代に合うかどうか見直してみる価値はきっとあると思うのだが、いかがだろう。
最後に、共同通信社「記者ハンドブック 第12版」の「差別語、不快用語」の章の言葉を引用して今日のnoteを終える。
言い換えの例示をしているが、単純に言葉を言い換えればいいということではない。原則は「使われた側の立場になって考える」ことが肝要である。
基本的人権を守り、あらゆる差別をなくすために努力することは、報道に携わる者の重要な責務だからだ。
— 共同通信社「記者ハンドブック 第12版」P.519 差別語、不快用語の章
(了)
ヘッダー写真 撮影地 ニュージーランド モエラキ・ボルダーズ ©moya