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小説を読まなくなった、そして再び④森鴎外
『蛇』 森鴎外 著
(本書より一部紹介)
夏目漱石同様、有名なので作者紹介は省略。…本篇は「中央公論」明治四十四年(1911年)一月号に掲載されたもの。人間の怨念が生じる惻々(そくそく)として迫る傑作である。この時期の作品としては、他に「心中」「鼠坂」なども、怪奇幻想の名品として知られる。
(あらすじ)
長野県にある穂積(ほづみ)という豪家(ごうか)で起きた出来事。
県庁からの指示で東京にやってきた学者(本篇の語り部)が、その家に滞在した際に女のヒステリックな声を聞いた。
その理由を穂積家に仕える清吉じいさんに尋ねた。穂積家の周囲では、下働きの者たちが「奥さんが病気になったのは、ご隠居を疎々しくなされた罰だ」と囁き合っていた。
そこで学者は原因となった蛇を退治して魚籠(びく)に入れ、「これほど大家(たいか)のことであるから、ぜひ東京から専門家を呼んで診せるがいい」と薦める。
(感想)
とても読みやすかった。蛇というのは、怪奇小説では題材にしやすいようだ。
蛇は毒を持っているし、世界中にいるからかもしれない。たいてい怪奇小説に登場する蛇は、人間社会の影の部分を表している気がする。その影の部分を、霊魂だとか、負の感情だとか、消化しきれていない残留物とか、そういう意味合いとして私は解釈している。
この小説に限らず、身内というくくりの中で生活する者たちは、下手すると血縁という狭い関係性に捕まり、問題が起きるとにっちもさっちもいかず、ただただ時間だけが過ぎていき、硬直状態がずっと続くものだとつくづく思う。で、その状態がだんだん腐敗して病院行きや不幸の見本のようになっていく。
そういった現状を打破できるのは、違う世界に住む者(他者)の存在しかない。
SF小説ふうに言えば、異次元からの介入ということである。バレエ歌劇『クルミ割り人形』でも、人形の国とネズミの国との争いで膠着(こうちゃく)状態が続き、どうにもならなくなったので、人形の国の使者が人間の子どもの力を借りて現状を打破するという話だし。
本篇の語り部である主人公がまさに、現状を打破するきっかけとして、穂積家に呼ばれた他者であった。穂積家に仕える清吉じいさんが望んだことだった。
やたら我の強い嫁が、やさしいご隠居(姑)を無口にさせて、穂積家を沈黙の家にしてしまった。
こういう場合、真ん中に挟まれた男(息子)
が調停役を務めなければならないのに、それをしないでほったらかし。ご隠居が亡くなった後、嫁は初七日に線香を上げた部屋に入ったときに、とぐろを巻いた大きな蛇がじっと嫁を見ていた。嫁は倒れその後、気が触れた。
若主人は、意志薄弱で生活全般を人任せにして生きてる。穂積家の運営は清吉じいさんに任せっぱなし。年老いた母親を寂しい思いをさせて死なせ、妻も制御できないという人形のような男である。文句や嘆きはするけれど、自分ではなにも行動しない。
こうしてみると、現代でも十分通じる内容であり、現在でもめずらしくない家族模様である。やっぱりこういう事は、日本では明治時代から始まったと思う。
ご隠居は夫婦のみだった時は、ご主人にも大事にされて良い結婚生活をしていた。どういうわけか子ができなかった。
で、40歳で子どもを頑張って産むことができた。…本当は運命的に子はいらなかったのではないかと思う。子がいなくても財産持ちの優しいご主人と二人で仲良く暮らして、清吉じいさんを雇っているだけで十分だったのかもしれない。
ご隠居が50歳になっても、まだ息子が中学卒業もしていないというのはちょっと困るだろうなあ…。さらにご主人は65歳の時にあの世へ行ってしまった。若かった清吉じいさんは、そのために穂積家に呼び戻される羽目になった。
……やっぱり息子も嫁も、ご隠居の人生にとって本当は余計だったのでは。
現在の社会でも、「子が恵まれない」という言い方は、まるで無いものねだりをしているように聞こえる。そのうえ、周囲は無責任にも子を持つことを焚きつけるし。やっとできた子が親の幸せの素(もと)にならない場合も十分あるというのに。
「子ができない」「縁がない」などという責めている言い方ではなく、「必要がない」と言い換えた方がよっぽど現実的だ。
理性と感情はどちらが勝(まさ)るのだろう。現代においても、私たちは感情の取り扱いを疎かにしてきたのではないかと思う。
人間が内包する感情の質には、幅があり範囲は広い。脊椎動物全般が保有している喜怒哀楽以上のもの、生命に繋がるほどのパワーが秘められているのが人間が持っている感情でもある。
勘定ができれば、感情を抑えることは可能だと著者は言うけれど。
消化されない感情や思いは置き去りにされ、やがて溜まりに溜まった人間の情が、いつしか地を這う大蛇のようになったら、いったいどうやってこういった負を昇華すればいいのか。
それにはやっぱり、他者の力が必要になってくると思う。
この小説は、(特に近代からの)自我がポイントになっている話で、嫁はムダに余計に我を張ったので、気が狂ったのである。
男性性もなにか屈折してしまったように感じるし、気の毒にもご隠居は寂しさの内に亡くなってしまった。
祖先との繋がりも人間同士の助け合いも叩き斬り、私たちを巧妙に孤独に追いやったのが近代の自我だと思う。それは欧州、特にイギリス発のキリスト教プロテスタントからきたものだ。理屈っぽさは天下一品で、人々をひどい孤独に追いやって資本主義を確立していき、怪奇小説やスピリチュアルや精神医療などで誤魔化し、それらをあだ花として咲かせた近代から現代にかけた文化だったと思う。
近代から始まった自我というのは、本当に人間社会を細切れにしてしまった。そこには、悲しみしかないような…。
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(おまけ:本文より一部抜き出し/意味など)
・若主人:「…(略)どうも今の女学校を出た女は、皆無政府主義や社会主義を見たような思想を持っているようだと、そう云うのです。其(その)時わたくしもこの男は随分思い切った事を云うと思って聞いていましたが、好く考えてみると、わたくしの妻(さい)などもオオソロチイは認めません。事によると、今の女は丸で動物のように、生存競争の為(た)めには、あらゆるものと戦うようになっているのではないでしょうか。」
学者(本篇の語り部)「打遣(うっちゃ)って置けば、そうなるのです。赤ん坊は生れながらのegoisteですからね。」
若主人「併しどうして男とは違うのでしょう。」
学者「それはなんと云っても、男の方は理性が勝っているのでしょう。君はさっき人生観を持っていないと云われたが、持っていないと云っても、社会に立っての利害関係は知っている。利己主義ばかりで推して行けば、自分の立場がなくなるということは知っている。dogma(ドグマ)は承認しない。
勿(なか)れ勿れの教(おしえ)には服せない。併し、利害の打算上から、無茶なことはしない。女だって理性の勝っている女は同じ事でしょう。只そんな女は少いのです。
人間は利害関係丈(だけ)でも本当に分かっていれば、無茶な事はできない。基督(キリスト)の山の説教なんぞを高尚なように云うが、あれも利害に愬(うったえ)ているのですからねえ。」
若主人「なる程(ほど)そうです。赤ん坊は赤い物に目を刺戟(しげき)せられれば、火をでも攫(つか)む。それと同じように、女は我欲を張り通して、自分が破滅するのですね。」
学者:「まあ、そんな物でしょう。だから、赤ん坊を泣かせて、火を攫ませないようにする。赤ん坊を大人といっしょに扱わない。無政府主義者でも、社会主義者でも、下(げ)の下までの人間を理性ある人間と同一に扱おうとしているから間違っているのです。一般選挙の問題でからがそうです。多数政治なんというのも、将来これに代わるべき、何等(なんら)かの好い方法が立てば、棄てられてしまうかもしれません。詰まりegalite(エガリテエ)という思想が根本から間違っているのですね。女だって遠くがよく見えない為(た)めに、自分の破滅を招くような事をすれば、暴力で留めなくてはならないでしょう。」
*オオソロチイ:たぶん「オーソリティー」のことかも。意味合いは「権威」「権力」「専門に通じた実力者」「その道の第一人者」など。