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NY Life あの頃のニュージャージー

大学生活を終え、日本への帰国準備に入る頃のお話です。

大学4年の秋、日本での就職企業も決まり、卒業をするために私は最後のセメスターに全力投球していました。成績によっては大学を卒業できるかわからない状態でしたが、卒業を想定し、東京での就職に向けアメリカ生活を終える準備をはじめたのでした。

勉強の合間に時間を見つけては、アメリカ留学生活で溜め込んだモノの処分を行いました。どうしても捨てることのできないモノは、日本に送らなければならず、運送会社を探すことにしました。

私の住むニュージャージー州フォートリーという町の近くには日本人駐在員向けに日本通運の支店があることを知り、そこを訪れ相談することに。
日通ニュージャージー支店は、普通の一軒家でした。玄関が店舗の接客場所になっていて、簡易のカウンターが設置されていました。受付には40代前半と思われる綺麗な女性がいて、日本語で対応してくれました。私は発送料金を確認し、日本に送るダンボールをいくつか購入しました。

そこに少年が小学校から帰ってきました。
おそらくこの建物は、この女性の職場兼ご家族の住居になっているのだろうと察しました。

90年代のニュージャージー

ダンボールは引っ越しまでには6個くらいになると予想した私は、アメリカではもう使わないモノから徐々に日本に発送していこうと考えました。まずは2個のダンボール箱を車に詰めて、日通へ。
この時もオフィスには女性と男の子がいました。2人の話からこの家には2人で暮らしていることがわかりました。どういう事情かわかりませんが、母が働いて息子さんを育てているのでしょう。私の預ける重い箱は、この女性がどこかに運ぶのでしょうか。ちょっと申し訳ない気持ちになりました。

こんな感じの町に日通ニュージャージ支店はありました

次にオフィスに訪れると道端に日通のマークのついたトラックがとまっていました。トラックからは野球選手のような体型の30代前半に見える男性が降りてきたのです。彼はJFK空港支店のスタッフで荷物を回収に来たのかな、と思ったのですが違いました。
私がダンボール2箱を車から下ろし、オフィスに持っていくと、男性が書類の準備をしてくれ、細かな手配をしてくれました。この時は、いつもの女性はおらず、少年が学校から帰ってきました。ただ、子供は男性とは話さず、男性が「お帰りなさい」と話しかけていました。

あれ、旦那さんがいたんだ、と思いつつ、女性より10歳は若い男性、そして男性と少年は似ておらず、どういうことなのか?と思いました。

日通のトラック

大学卒業が決まり、学校関係の捨てられない書類をダンボール1箱にまとめ、再びオフィスを訪れました。この時は子供はいませんでしたが、女性と男性がいました。2人の会話を聞いていると、女性がこの店舗の店長さん、男性は雇われているスタッフだということがわかりました。2人は、お互いに丁寧な敬語を使って話していました。ただ、私はなんだかこの2人に暖かい雰囲気を感じたのです。

この辺りにオフィスがありました

年末、大学を卒業して帰国する日が決まりました。私の部屋はベッドとダンボール箱ひとつ以外すべて処分済みです。日通から残りの荷物を送れば、帰国前日にベッドを処分し空港に向かいます。
ついに最後のダンボール箱をオフィスに持ち込むことにしました。私の興味は、あの不思議な関係の3人です。

オフィスの前の道ではあの男性と少年がキャッチボールをしていました。
オフィスに入ると女性が明るい顔で対応してくれました。今日だけ見ると、幸せな家族に見えます。私のダンボール箱は男性が運んでくれました。女性と男性は、敬語で話していました。
店長さんと、雇われの男性、そして店長さんの子供。どういう関係なのか最後まで真相はわかりませんでしたが、なんだかこの3人の日本人がニュージャージーの郊外の街でひっそりと幸せに暮らしている姿が印象に残りました。
私の勝手な妄想では、この3人は今後家族となって過ごしていくのだなあと思いました。

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時が経ち、10年後に仕事でニュージャージーに行くことがありました。休日に私はレンタカーを借り、懐かしいフォートリーを訪れてみました。
あの日通の家族はどうしているのでしょう。車でオフィスに行くことにしました。

私が卒業前に何度も荷物を運んだ日通オフィスは、なくなっていました。
日通は日本からの駐在員が減ったことで、オフィスをクローズしてしまったようです。
あの3人は、どこでどうしているんだろう。

私は車を降りて、かつてあったオフィスの前でしばらくたたずみました。

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