黒のネクタイ
忘却の果てに、人生は続く。
電車は都心から東、千葉方面へ向かっている。窓ガラスを通した真夏の日差しが首の後ろを強く押えつけるように照らす。車内の客は午前中の下りということもあって多くなかった。右向こうに、盛り上がった腹でシャツボタンがちぎれそうなサラリーマン、左の乗車口横の優先席に手にした新聞の切り抜きに目を落とす白髪の老婆、右横にはスマホに自分を映し鏡代わりにしながらしきりに前髪をいじり何とかいい収まりどころを探る水色のワンピースの女。皆それぞれ空きが十分の座席の横にバッグや荷物を置いて座っていた。
向かいの席に座っている見たところ三、四歳の男の子は、何が面白くないのかさっきから横に座る父親の太腿にまとわりつき、黄色のTシャツを思い切りずり上げお腹や背中を出しながら愚図っていた。窓外を見た父親が、ほらスカイツリーだよといって指を差し、愚図る子どもの目を向けようとした。子どもはその指先を見ることは見たが何の興味も示さず、座席をずるずると落ちようとする。たしかに、と自分も思った。スカイツリーはただ高さがあるというだけの塔で味も素っ気もなく、何か人の気を惹き付けるような雰囲気、魅力というものが感じられない。子どもの満たされない気分は、あんなものでは何ともならない。
母親が亡くなったという連絡が携帯に入ったのは昨夜だった。母親は介護付きの老人ホームに入所していた。
いつものように食堂で夕食を取った後部屋に戻ったが、ハンカチを床に落としていたのを職員が見つけ部屋に届けにいったところ、ベッドで横になっていた。声を掛けたが返事が返ってこないので、気になって顔をのぞくと息がなく、心臓が止まっていた。
そう状況の説明をした女性のホーム長の声はとても落ち着いていた。自分もいきなり死を知らされた驚きや訳が分からない動揺といったものは起きなかった。詳しいことはこちらにいらしてからと話は続いたが、そこに弁解めいたところも感じられなかったので、ホーム側の対処に判断ミスや過失はなかったかとか死に至るまでの何か隠された真実があるのではないかなどという類いの疑いや勘ぐりも過ることはなく、こちらから何か問うことの一つもないまま、ただ、はい、はい、とだけ返事をしていた。その間自分の頭に浮かんできたのは妙に客観的な考えで、ホームは老い先短い老人たちの住むところで死は日常的でありその扱いに慣れているのも当然で、どのような“お迎え”のパターンであってもすべては抜かりなくプロの仕事として的確に処理されているのだろうというものだった。
電話を受けてすぐにでもホームに行こうと思えば行けたのだが、当人はすでに死んでいるのに慌てて駆けつけても瞬き一つしないのだからしょうがないし、こちらは定食屋で夕食を注文してビールを飲んでいたこともあって腰を上げるのをやめた。
それで今日自分は、まったくもって暑い夏の最中に電車内のあまりにも効き過ぎている冷房に閉口しながら、体温そのものを失って冷たくなった遺体が置かれている病院へ向かっている。
死んで良かった。正直にそう思った。母親幸恵は認知症だった。兆候があらわれたのは三年ほど前からで、病院に行った時には症状が相当に悪くなっていた。母親の昔の記憶は頭の中に虫食い穴が開いたように点々と消えてなくなっていて、そこを埋めるようにして過去の事実は簡単に曲げられたり違う事実が展開したりした。昔隣に住んでいて引っ越していなくなった人とさっき道端で会ったとか、テレビで今の首相の顔を見ながら、この人は首相にはなれないとつぶやいた。さらに母親は少し前に自分で話したことの覚えも無くなっていった。一月前に食材を配達してくれていた青年が結婚したことを話していながら、後にその青年はいつ結婚するのかと言い出し、調子が悪いと言って買い替えたばかりの電子レンジを、調子が悪いからそろそろ買い替えないと駄目ともう一度ぼやいたりした。
そうしてついに買い物先から自分の家に帰ることが出来なくなって人に迷惑をかけた一件が起こった。もう一人での生活が難しいと感じた一年半ほど前、知り合いに介護関係の人がいるという母親と一緒に働いていた友人の申し出があって、その人に相談をしたところ施設の紹介から入所の便宜までも図ってもらうことができ、母親はこの老人ホームで毎日の生活をおくれるようになった。
生活環境が変わって絶えず周りの人と顔を合わせる状況に母親は身を置いたわけだが、特に大きな問題も起すことなく穏やかに過ごしていて職員の手を煩わせるようなことはなかった。当初の不安は払われたが、もし母親のわがままが酷かったり他人に対して強い感情を露わにして揉め事を起したりするような手に負えない札付きの入所者だったとしても、自分にはどうすることもできなかった。
それからというもの自分が母の顔を見にホームに寄るのは、ホーム長から少なくとも月に一度は来訪をと言われていたが、それも最初の一、二か月だけで、後は三か月に一度くらいのものになった。
その随分と間を置いた三回目の面会に、母はこの顔を見て、とてもやさしい目をして、お父さん、と呼んだ。以来もう息子の淳と言うこの自分の名前を口にすることはなかった。
お父さんと呼ぶ母の夫、つまり自分の父親は、自分が小学校六年の時に家を出て姿を消していた。母子にとって一家の柱だったその大きな存在は、まるで人の形にぽっかりと空いた穴となった。以来その不在の穴は日一日と輪郭を薄くし、いつのまにか三十年という長い年月のうちに母子の前から跡形もなく消えてなくなっていた。
駅に電車が止まると開いたドアから、もわっとした熱気が入ってきた。向いの席の父親は子どもの両脇を抱えて床に立たせ、小さな手を握って出ていった。
自分の目指す駅はまだまだ先で、まずは千葉駅、そして内房線に乗り換えていくのだが、携帯の時刻表示を見てもこれからまだ一時間近くはかかる。携帯をポケットにしまい軽く息をふうとつき、首を右左にゆっくり倒す。体の左の席にはスーツを入れた二つ折りのカバーとショルダーバッグを置いていた。このバッグのサイドポケットには、先週の葬式で使った黒のネクタイが入ったままになっている。その葬式は、昔自分の前からいなくなった父親が、この世からほんとうにいなくなった葬式だった。
先週自分はまだ一度も乗ったことがない那須塩原行き東北新幹線とローカルの電車を乗り継いで、まだ一度も行ったことがない栃木県のある街へ向かった。それは携帯に残っていた着信履歴に電話を掛けてみたことで起こった、まったく思いもかけない事の展開による行動だった。
いったい誰か分からない相手に何故自分はあえて電話を掛けてみる気になったのだろう。何かの勧誘かとも思ったが、自分でも本当に分からない何か勘のようなものが働き、とにかくその見覚えのない数字の並びをした番号を選択し通話キーを押した。数回のコールの後聞こえてきたのは女性の声だった。高木と申しますがと名乗りながら、相手が誰だかわからないぎくしゃくした問い掛けをすると、女性はすでに分かっていた様子で、突然の電話ですみませんでした、間宮と申します、と抑揚を押さえた静かな声で非礼を詫びながら名乗った。営業の電話ではありません。お伝えしたいことがあって、少しお時間いただいてもよろしいですか、と丁寧な伺いをしてきたので、はい、とひと言だけ返事をした。間宮という女性はとても澄んだ声でゆっくりと話を始めた。
だが話はやはり何かの間違いかと思えた。それは、今から三十年前に母親と自分の前から姿を消した父親高木敏雄が、昨日死んだということを知らせるものだった。父親が死んだ・・・。
自分が社会に出て大人になってから、父親のことを思い出すことなどほとんどなかった。その父親の名前が、唐突に電話の向こうから聞こえてきて、それはまるで深い眠りについていた真夜中に突然ドアをノックされて何事か分からず目が覚めて狼狽えるようなもので、頭の奥深くに押し込められていた父親の記憶は、全く不意に思い起こされた。そして頭の中にやっとあらわれたその父親が、昨日、死んだという・・・。
間宮という女性は、私は父敏雄とその妻涼子の娘です、と言った。父親は栃木のある街で女と所帯を持ち子どももいて暮らしていたらしい。頭がすぐに回らなかったが、つまりこの女性は自分とは異母兄妹、腹違いの妹ということになる。そうだとしても女性の間宮という名字はどうなのだろう。女性は父親の名字を三十年前と変わらない、この自分の名字でもある高木と言った。ふと気づいた。そうか、女性は結婚しているのだろう。それで名字が夫方の名字、間宮に変わったのではないか。では戸籍の方はどうなっているのだろう・・・。そう思い始めてすぐに、それよりも自分には先に聞かなければいけないことがあると思い直した。
どうしてこちらのことが分かったのかと聞くと、写真があって、と女性が言った。
そこに写っているのは、千葉の民宿の前に立つ三人で、それは若い日の父と奥様、そちらのお母様、そしてその二人の前にいる小学生の男の子、それが息子のあなただと、父から教えてもらった。
女性は澄んだ声でその昔の写真のことを話した。
民宿の玄関前で、家族三人で写っている写真。その写真は見た記憶があった。首に手ぬぐいを掛けたランニング姿の父親、白い前掛けをした母親、そしてその前にランニングと短パンの小学五、六年の自分・・・。その写真は父親が客を撮った写真を後日送るようにとりあえず入れていた茶封筒の中にあったか、それとも表紙が緑色のアルバムの中に貼ってあったか。それにしてもよくいきなり昔の写真のそれも随分細かいところまで思い出せるものだと我ながら思った。
父親敏雄は三十年前に、房総内房の中ほどの海を望む街で、旅館と呼ぶには小さ過ぎる民宿を妻の幸恵とともにやっていて、二人の間に生まれた一人息子、この自分と暮らしていた。当時は釣り人や海水浴の客の入りもまずまずあり民宿の経営は安定していたようで、家が貧乏だったという記憶はない。ただ生活は普通の家のリズムと違い、父親は釣り客と海にいるか夜の酒の場にいるのが常で、母親はといえばこれも朝から夜中まで宿内のすべての仕度と後片付け、掃除洗濯飯炊きお風呂と働き詰めの毎日だった。そうやって二人とも忙しかったので、夫婦仲は悪くなる暇もなかったのではないか。
しかしある日、父親は突然いなくなった。自分が小学校六年の冬だった。母親は動揺していたがとにかく自分にだけは心配させないように、お父さんは仕事で地方に出かけてしばらく戻れないと嘘の理由を作ってこの事態を説明していた。そこへ電話を掛けようと自分は言ったが、母は三か月のうちに戻ってくるからと言った。しかし父親は半年経っても一年経っても戻ってこなかった。それからさらに三年経っても五年が過ぎても、父親は戻って来なかった。その不在は、中学から高校と多感な思春期をおくった自分の心の真ん中に大きな穴を開けた。
いなくなってすぐに父から連絡があったという当時の話を母親から聞いたのは、それから三年経った、自分が中学を卒業する間近だった。その最初の電話は、お客さんにトラブルがあってその処理の手伝いに行くというものだった。その後、その件がまだ片付かず手間取っている、と伝えてきたらしい。それから、問題がこじれて時間がかかると言って二か月三か月が経ち次第に電話は来なくなり、最後は探さないでくれという手紙が来てそれ切りになったと、母親はその経緯を淡々と話した。
自分と母親の前から姿をくらまし二度と帰ってこなくなった父親を、自分は最低最悪の嘘つき野郎といって思い切り憎んだ。しかし毎日淡々と過ぎ去っていく時の流れは、自分の心の裡の激しく尖った感情をゆっくりと萎えさせ、大学に入った頃には心に開いた大きな不在の穴もほとんど消えて、跡形のないものになっていた。
二十歳を過ぎた自分は大学を出て人並みに就職した。就職先は機械部品の小さなメーカーで、業績もそれなりにあった会社だった。そこで自分は二十年働き、会社も市場の荒波に何度も襲われながらその度踏ん張ってきたが、先の世界不況ではついに持ち堪えられず会社更生法の対象となった。リストラは当然自分にも及んで退社を余儀なくされた。
それ以降再就職活動を同じ業界から始め、異業種にも幅を広げていったが不況の影響はどこまでも及んでいた。ハローワークで仕事を探しとにかく送った履歴書は即返送で面接にすら至らず、そうしているうちに少々の退職金もすぐに食いつぶした。そうして気づけば自分の身分はサラリーマン社会のレールから外れたままの失業者になっていて、何でもいいから働く時間を持つために今は通販の商品を梱包する作業のアルバイトをしている。
だがこのレールから外れることは当初思っていたような人としての誇りを失うことでも人生の落伍者となってしまうことでもなく、この世の中で会社を成り立たせていくことつまりは売り上げ業績だけに腐心し会社に生活をさせてもらうという実は変に偏った安定指向をやめてしまえば、人一人が食べていくのはそう難しいことでもないということが分かった。もちろんカネもなければ確かな保証もなく先々不安ではあるが、気は以外と楽だった。傲慢尊大なお得意にへこへこと頭を下げなくていい。到底無理な売り上げを上げるノルマがない。心底嫌いな上司の顔色を毎日伺わなくていい。今まで会社員の使命として必死にやってきたことの多くが、あまりにも馬鹿げた事だったと思えるようになった。
職場で出会った女性と結婚を考えたこともあったが、その女性の笑い方の癖があまり好きではないと感じていたことで、些末と思いながらその時最後に踏み切ることができなかったおかげで、身軽な独り身が続いていることも良かった。家族、家庭を作り子どもを育て生活を維持していくという大変さがなくなれば、応じて人生上の悩みがほんとうに少なくなる。もちろん、その大変さとともにある何ものにも代え難い幸せや歓びも、得ることができないのだが。
しかし、こんな思いもよらなかった人生に、さらにこんな思いがけない波風がよく立つものだ。自分はそう自分のことを思うことから、たぶん、いやきっと、また自分とは全然違う思いがけない人生をおくった父親のことをあらためて思った。
あの時、父親に一体何があったのだろう。自分も家を出た時の父親と同じような年齢になり、男が仕事を捨て妻と子どもを捨てまでいなくなる理由。友人が抱えてしまったトラブルの処理。あの時母親にあった連絡だが、いったいそれはどんなトラブルだったのか。そもそもそれを処理してやらなければいけない友人とは誰のことか。トラブルといえばありきたりだがやはり金か女のことで、時間をかけてもなかなか解決が難しいとなればヤクザがらみしかないとも思うのだが、そんな筋の関係は父親に限っては一切無かったと母親は言っていた。ではその友人の関係か。それにしても、いつも口元に笑みを浮かべていた父親のあの柔らかい表情が浮かぶにつけ、そんな危ない筋とつながるような客がいた事実も噂もなかったし、裏に誰も知らない違う顔が隠されていたとは、やはりどうしても思えなかった。ましてそれがこれから行く栃木のもう一つの家族につながっているとは・・・。
主のいなくなった民宿を母親は一人で切り盛りしていたが、それはやはり大変なことだった。馴染みの客に夫のことを尋ねられるのも相当なストレスだったに違いない。母は首尾一貫して、主人は友人の仕事の手伝いでしばらくここを離れていると言った。
そうして一年後、母親は仕事の支えになる人を探した。夫をあきらめたわけではなかった。逆に仕事をきちんとやって客をつなぎとめ、夫の帰りを待つという思いだった。
やがてパートとして雇った女性がとてもよく働く人で頭が良く、何より人柄が誠実だった。女性は夫と農業をやっていたが、半年前その夫に先立たれていた。母親はその女性に二人で民宿を共同経営していかないかと持ちかけた。女性は当初固辞していたが母親の熱心な説得に折れ手を取り合った。そうしてそれから二十余年、二人はともに支え合い地道に着実に民宿をやってきたが、母親はそのこととはまったく関係のないところで、認知症になってしまった。女性はそんな母親を見捨てることなく民宿を閉める決断をした上で、この施設を探し母親を入れてくれたのだった。
電車を降りて改札を出る。高いビルがない駅前はただがらんとしていて一面灰色の曇って覆われた空が広がっていた。風はなくすぐに湿気を含んだ空気がじっとりと肌にまとわりついてきた。二台しか止まっていないタクシーの前の一台に乗り、公民館へと運転手に告げた。
タクシーは街中の道路を走った。街中と言ってもどこといって何があるわけでもない隙間の空いた低いビルが続く風景を目にしながら思った。何故自分は父親の葬式に出ることにしたのか・・・。まだ生きているのなら話もできる。あの時、あんたは何故出ていったのか。妻や子どもを捨てたことをどう思っていたのか。その後いったいあんたはどんな人生をおくったのか・・・。しかしそんなことも死人に口なしで、一切聞くことができない。では自分は、父親がどんな顔をして死んでいるのか見たくなったか。刻まれた皺と白く細くなった髪、あれから三十年の歳月を経て老いた顔を見届けて捨て台詞の一つでも吐いてやろうと思ったか。しかしこれもどんなに大声で罵倒しようが、つばを吐きかけ侮蔑しようが、当の本人は目を開けることもなく何も感じない。
何故自分はここに来たのか、考えが散らかるだけでどうにも分からないままタクシーは10分もかからず葬式会場の公民館の前に着いた。
トイレに入り鏡の前で黒のネクタイを締める。最近ネクタイなど締めることもなかったが、ワイシャツの襟を立てネクタイを回し前と後ろの剣の長さをいいところに決めると、手は勝手に動きだしすぐに結び目を作った。その結び目と剣を整えながら、クールビズとやらでネクタイを締めなくなったのはいつ頃からだったかと、サラリーマン時代をふと思い出す。
気づくと鏡には黒いスーツに黒いネクタイをした地味な中年男が、何の表情も見せずにただそこに突っ立っていた。
会場入り口前に立つと奥に遺影、父親の写真が掲げられているのが見えた。白髪にはなっていたがその顔は三十年前の父親と何も変わっていなかった。あの時と同じ、口元に笑みを浮かべた柔らかい表情をしているのが離れていてもすぐに分かった。
黒いワンピースの女性が、入り口に立っているこちらに気づき、近づいてきた。
「お電話では失礼しました。間宮茜です。」
電話で聞いた澄んだ声だった。女性はその電話で名乗った間宮という名字と、茜という初めて聞く名前を名乗り、深々と頭を下げた。後ろで結んだ髪を揺らしながら上げた顔は小さく、切れ長で黒目がちの目でこちらを真っ直ぐ見た。美人とまでは言えないが整った顔立ちをしている。歳は三十くらいで、喪服ということもあるのだろうか、落ち着いた雰囲気がある。すぐに自分は彼女の顔に父親の面影を探した。しかし彼女が父親に似ている印象はどこにも見受けられなかった。
「始まりますので、どうぞ」
彼女は並べられたパイプ椅子の方に手を向け着席を促した。座るとすぐに太くつやのある独特の声で坊主のお経が場に響いた。
見回すと参列者もみな白髪か禿げているか年がいっているような人ばかりで、男が十数人、女が三人しかいない。彼女は一人で座っていて側には親族らしき人もいない。お経の最中の焼香もこの人数なのですぐに終わった。
やがてお経も終わり遺影の下に置かれていた棺が前の方に出され、みな棺の周りに集まった。自分も棺に近づき中をのぞく。そこには目を瞑り口を閉じた、三十年前とそう変わらない写真の人物、父親の笑みのない顔があった。しかしその顔を間近に見ても、自分の胸には何の感情も湧いてこなかった。
棺から離れた自分の横に彼女が並んで立った。
「肝臓ガンでした。この一年前に診てもらって、もう」
彼女が澄んだ声で話し出す。
「父はこの街の駅前で母と一緒に小さな居酒屋をやっていましたが」
居酒屋。その仕事に何の驚きもなかった。民宿とそう変わりはないと思った。それより、やっていましたが、という後にどんな言葉が続くのかを待った。
「母は、十年前に心筋梗塞で亡くなりました。私が高校二年の時でした。その後は父一人で店をやっていました」
彼女の話すことは言葉では分かったが、それがどういう意味をあらわすのか頭を巡らせなければならなかった。母親が亡くなった後、彼女は父と二人で生きてきたということになる。高校二年は十六、七歳、すると今の歳は二十六、七歳。進学、就職をして、人と出会い結婚を・・・、したのかもしれない。そんな様々な経験をする十代後半からの二十代後半の十年間を、彼女はこの父親と二人でどんな人生をおくってきたのだろう。ただ、今彼女の側には、夫や子ども、親族らしき人は一人もいない・・・。
「いい父でした。私にとっては」
棺の方を見たまま彼女が言った。一瞬、胸の奥で何かの感情が小さく動いた。その感情は自分でもよく分からないものだった。自分は彼女の言った言葉の意味をすぐに頭で理解しようとした。そちらにとってはどういう人だったか分かりませんが、という意味合いを含んだ言葉かとも思ったが、棺の方を見ている彼女の横顔は、そういうことを伝えようとしているものには見えなかった。続く言葉はなく、彼女は黙ったままそこに立っていた。
しかし確かにあの父親が、あなたにとってどういう父だったかと問われれば、父はいなかった、としか答えようがなかった。いた当時の思い出を言おうとしても、後の不在が昔を覆い尽くし何も言うことが出来なくなっているし、たとえ言えたとしても、それがどういう父だったということをあらわすことにはならないだろう。では突然いなくなったことについてと問えば、それはとにかく憎むべきことだが、悪い父でした、と言うのは違う気がする。まさか自分は、いい父だったと言えた彼女にほんの束の間でも、嫉妬したのだろうか。
突然、伏せられていたカードをめくるように思いが及ぶ。間宮茜にとってのいい父とは、どんな父だったのか。
彼女は父親に、もう一つの家族がいる、という霹靂の事実を死ぬ間際に明かされている。その時、彼女は何を思ったのだろう。その家族の写真があるといわれ、父とともにそこに写っている先の妻と、その息子を見た瞬間がある。その時、彼女は何を感じたのだろう。そして今初めて写真の息子、腹違いの兄本人を目の前にして、彼女はいったい何を、どう思っているのだろう・・・。
「今日はありがとうございました」
しばらくの沈黙から、彼女がこちらを向いて礼を言った。そのひと言が、巡らせていた考えを瞬時に消した。自分は、いえ、と小さく首を振った。何も言うことはなかった。彼女も、何も聞いてこなかった。三十年前のことも。今までのことも。そしてこれからのことも、何一つ。
最後に彼女間宮茜は、私は父の実の子ではありません、と言った。
棺が黒い車に乗せられた。父親の遺影を持った間宮茜が礼をした。自分も礼をして、少し間を置き背中を起して顔を上げると、彼女は車に乗り込んだ。
千葉へ向かう車内の冷房の効き過ぎに大きくため息をつきながら、体の横に置いたショルダーバッグを寄せ肘を乗せる。バッグのサイドポケットには、先週、父親の葬式にした黒のネクタイが、帰りのタクシーの中で外して突っ込んだまま入っている。今週はこの黒のネクタイを母親の葬式に取り出して使う。そんな有り得ないようなことが、こうして現実にある。
ふと、三十年前の民宿前で撮った三人の写真を思い出した。ランニング姿の父親。前掛けをした母親。父親と同じくランニングに短パンの自分・・・。この三人にカメラを向けて笑顔の瞬間にシャッターを押したのは誰だったのだろう。近所の親しい人だったのか。常連客の誰かだったのか。思い出そうとしたが誰も浮かんでこない。もう一度写真を思い出す。その写真は整理されていない他の写真と一緒に茶封筒の中に入っていたか。それとも緑の表紙のアルバムの中に貼ってあったか・・・。
思いもしなかったことが頭を過った。自分が思い出した写真は、本当は存在しないのかもしれない・・・。間宮茜が電話で何を言っていたかを思い返す。あの澄んだ声が頭の中に聞こえてくる。
・・・そこに写っているのは、民宿の前に立つ三人です。それは若い日の父と奥様、そちらのお母様です。そしてその二人の前にいる小学生の男の子・・・。
彼女は、写真に写っている三人がどんな姿だったかは言っていなかった。だからその写真に写っているのは、父親は背広で、母親はワンピースを着ていたのかもしれない。だとしたら・・・。
よく分からないが、写真があって、と言い出した彼女の一言が、自分の脳裡に当時の記憶を瞬間的に呼び起こさせ、いつも首に手ぬぐいを掛けたランニング姿の父親と白い前掛けを外すことのなかった母親、そしてその前に当時の小さな自分が立っているというイメージ像を作り、一枚の写真として頭の中に映し出したのではないか。
写真がどんなものだったかは間宮茜に聞けば分かることだが、そうすることは、もう、ない。そんな写真があると、最後に父親が彼女に伝えたことをあらためて思った。
三十年間、父親は母親と自分の前から姿を消していた。あの時父親にどんなことがありそしてどんな決断をしたのか。とにかく父親はそれまでの人生を捨て、まったく違う人生を選びそのままずっと生きてきた。そして今父親は、この世から本当にいなくなった。
三十年間、母親は夫のいない人生を過ごした。その間夫に対する様々な思いを胸の奥にしまい込み、決して弱音を吐かず仕事に子育てにと頑張ってきた。挙句、そんなことをすべて忘れ去ってしまおうとしたのか母親は認知症になり、頭の中から息子の存在は消え、あの時の夫が戻ってきた。そして今母親自身が、この世から本当にいなくなった。
窓の向こうに河川敷のグラウンドが見えてきた。電車がごんごんと音を立てて鉄橋を渡る。振り向いた肩越しに、真夏の陽の光を映す大きな川を見た。川の水は絶え間なく流れ続け海に出て行く。自分もこの川のように、途切れることのない毎日をおくってきた。何が起きても、どうにか続いてきたこの人生を。
電車が鉄橋を過ぎ、川が見えなくなった。外の景色はまた密集した住宅が続く。
今、自分はこの世で本当に一人になった。そしてこれからも自分は一人で生きていく。どんなことが起きても続いていく人生を、この世からいなくなるその日まで。
そう思いながら自分は、車内の効き過ぎている冷房にすっかり冷たくなった左右の腕を何度も何度もさすった。
(終)