ジャンピングジョーカーフラッシュは最強!
ジャンピングジョーカーフラッシュ、めっちゃ良いってこと。
ただ可愛い子がニコニコノリノリで歌って踊っているから最高!ってだけじゃあない。
秋元康が「ジャンピングジョーカーフラッシュ」とかいうインフルの時の夢にしか出てこなさそうな単語を思いつき、それをノリノリな歌詞とリズムに乗せて可愛い子に表現させているという事実が良い。
(ここまでただの早口オタク)
ジャンピングジョーカーフラッシュの何がこんなにも私を惹きつけるのか、その理由(わけ)を紐解いていきたい。
シンプルに歌詞がいいので、そこから良いポイントを抽出してみた。
それでは早速見ていこう。
「大人に反抗する思春期」がもろ見えなのはここ4年間の秋元康の流行りなので置いておいて、
『どうだっていいじゃないか 天国行きのバス』
ここには常に序列において上を目指すというある意味近視的な行為は無意味だ、といっているように感じられる。
なにかに追われるように受験に勤しむ人、タワマンに住んで何かと戦っている人、といった東京の街全体に対する批判なのかもしれない。
ひいては、神に救われて天国への昇天を目指すキリスト教や輪廻からの解脱を是とする仏教をも批判することになるのではないか?
時代が時代だと異端児として処刑されかねない主張ではあるが、現代社会で良かった。
『騒ごうぜ 立ち上がって とりあえず声を出せ!』
天国行きのバスを目指す行為ががストイックな姿勢だとすれば、とりあえず声を出すという行為は楽しみ・快を享受する姿勢だと考えられるだろうか。
キリスト教ではプロテスタンティズムが発展したことを考えると、この歌詞ではその反対の教えに従えという主張をしていると捉えられる。
その考えでいくと、秋元康は快楽主義者なのだろうか?
神から与えられる天国行きのバスなどという不透明なものに人生を捧げるのではなく、今ここにある自分だけで心の安寧を保とうとするその考えはエピクロスの考えに近しい部分がある。
一番のAメロからこんなに重たい哲学的問題提起をしてしまうのか…と恐ろしくなりながらも、まだまだ歌は続くので、Bメロへと移ろう。
正直この部分は、私には深いことはわからない。
ただ、Aメロの後半部の主張を補強するように、
『難しく考えないでくれ~踊ろうぜ』
という歌詞がある。秋元康の立場がよりはっきりと浮かび上がってきた。
それではついに、サビに移ろう。
初聴、初見の人は思わず「!!?!?!?」となってしまうサビの入りである。
本当に聞いたことのない単語が何度も連呼される。
しかし、秋元康はプロテスタンティズムを『天国行きのバス』と喩える表現者である。このジャンピングジョーカーフラッシュも冷静に分析をすればその思考の端緒が見えてくるはずである。焦らずに、順に歌詞を追っていこう。
『ジャンピングジョーカーフラッシュでGO! GO!』
とあるからには、ジャンピングジョーカーフラッシュとは乗り物なのだろうか?
『ジャンピングジョーカーフラッシュが最高!』
とあるから、ジャンピングジョーカーフラッシュは『とりあえず声を出』すことや『(頭揺らして)踊』ることを是とする人たちも好む存在であるとわかる。今風にいうと「バイブスが上がる」ものだと言えるだろう。
さて、上の引用を見てもらえばわかる通り、この先の歌詞の展開がまた難しいのである。ジャンピングジョーカーフラッシュについて考え始めた視聴者を差し置いて、いきなりジャンピングジョーカーフラッシュ以外の話の展開を始める。
しかし、それが秋元康の考えである。この展開の中でジャンピングジョーカーフラッシュの具体的説明に入っても視聴者にその真髄は伝わらないということだろうか。とりあえず一度ジャンピングジョーカーフラッシュは頭の隅に追いやり、次の主張の理解を試みる必要がある。
『おれたちの世界で 意味あるものって何だろう?』
先の問題提起をより明確に突き付けてくる部分である。単純明快に「私たちの人生において(最も)大切なものは何か」という疑問を投げかけたのである。
『理屈だけ並べたって 愛を感じやしない』
ここが肝要である。
前者の「理屈」とは理性や官僚的社会構造と同じ立場の語である。これはここまでの歌詞と同じだが、後者の「愛」は本歌において初出の概念である。これまで具体的語を並べることで自身の立場をほのめかしていた秋元康が初めて抽象的な、より包括的な概念を提示した。それが「愛」である。
『腕を振り上げるだけで 熱く伝わるものがある』
それが「愛」である。
そしてついに、サビもおわりを迎える。
『何が一番大切なのかって
ジャンジャン ジャンピングジョーカーフラッシュ』
秋元康は端的に答えを示してくれた。一番大切な物、『おれたちの世界で 意味あるもの』とは、ジャンピングジョーカーフラッシュであったのだ。
ジャンピングジョーカーフラッシュ=愛、なのである。
理性的思考では正しいとされるものとは少し異質な存在としての愛。
心の底から突き上げる衝動に任せて行動をすること、その衝動に身を任せること、そうしたもの全てが「ジャンピングジョーカーフラッシュ」なのではなかろうか。
こう考えると、現代社会で大切とされる「理性」と伍する唯一の存在としての「愛」の重要性を秋元康は伝えようとしていることがわかる。
しかし、ここで考えたいのはAメロで少し紹介した「エピクロス主義」との考えの違いである。プロテスタンティズムの対としてよく考えられるものは享楽主義であり、その享楽主義をより倫理的に高めまとめたものがエピクロス主義である。だとすると「プロテスタンティズム vs エピクロス主義・秋元康」という簡略化した構図が考えられる。
だが、エピクロスと秋元康には異なる点が存在するため、この違いをより明確にすることで秋元康の考えをより深く理解できる可能性がある。
そのための、最後の試みが以下である。
秋元康の述べる愛は衝動的で、激しさを伴うもののように感じられる。
神の存在の否定や人間の序列のような究極的に空疎な論理を重視しないという考えは同じだが、エピクロスは快を退けて簡素な生活のなかに魂の平静を求めるという点は決定的に異なると考えられよう。
だが、ここで捉えなおしたいのは、「魂の平静を得るためには、感情を揺さぶられるほどの衝動を退ける必要があるのか」という疑問である。つまり、「アタラクシア」は本当に理想の状態なのか、ということである。
私の提示する答えは「否」である。
「ジャンピングジョーカーフラッシュ」によって得られる快は一瞬のものでしかないかもしれないし、そもそも快を得られず不快な状況になる可能性もある。
だが、一時の快・不快に晒されても、自己の限りジャンピングジョーカーフラッシュをした記憶は自身の中に経験として蓄積されていく。そして、ジャンピングジョーカーフラッシュ自体に「愛」が内包されているが故に、いつか自身の過去のジャンピングジョーカーフラッシュを振り返った時、成功した経験も失敗した経験も全てがいとおしく思えるのではなかろうか。古語の「かわゆし」のように、面映ゆい経験もいつかは可愛く感じるのだ、と。
ましてや、こんなに可愛い子たちがジャンピングジョーカーフラッシュをしていた時間は、プライスレスで色あせない経験なのである。
私も、ジャンピングジョーカーフラッシュをいっぱいしていきたいと思う。
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