【蒼雑記】ある「服のはなし」から考えた、僕にとっての創作のはなし。
今日は「きっと忘れたくないこと」のためにつらつらと書くよ。
書きながら考えるから、まとまらないよ。
とりあえずこれ読んでネ。
読んだ?じゃ、続き書くね。
人の心は触れること能わず
この「おはなし」で語られたように、結局人の心はその人のものなんだよね。良くも悪くも。
僕は色々とこじらせたし、そのたびにいろんな人に手を差し伸べてもらったけど、その誰かの手だけで立ち直ることはなかった、と思う。結局「その手伝い」はできたところで、最初の一歩と最後の一歩は本人次第なんだよな。そういう実感がある。
逆も然りだ。苦境に立ったことがあるならば優しくなれる、なんてきれいごとを標榜する気はないけれど、僕だって自分以外の、自分以上のつらい人に何らかのアクションをしようと思ったことはある。烏滸がましくも、救おうと思ったことも。
でもねぇ、うまくいくわけがないんだよね。だってそれは「元気であってほしい」っていう僕の願望の押し付けだからね。それは、その人が倒れるまでにもきっと投げかけられてた「ちゃんとしなくてはならない」とか「何かをしなくてはならない」と本質的には同じなんだよ。
結局、人の心は、魂は、どこまで言っても最後には本人のものなのだ。
創作は何のために。
であれば、本当にそうであれば、創作に意味はない。それでも僕は書く、語る、夢を見る。
なんでだろうねェ。
ののやまさんのように「その人を守れる服」とか、切実な何かを、明確に抱くことはできていない。
けど、うーん、幸福な夢を見たいと思うし、出来ればほかの誰かと同じ夢を見ていたい。
これが「何か」なのかな。
現実を見て夢を見る
残念だけど、「世界をどうこうする力」なんて、今の俺には/僕には、無い。商業的な成功どころか、同人的な名声以前に、この小さな小さなnote界隈、あるいは二次創作の仲間内でさえ「そこそこ」くらいなもんである。
現実は厳しいし、夢はもっと厳しい。
それでも夢を見ていたいと思うから夢を見る。創作は魂の発露だ。
前も書いたけど、もう僕は「想い綴り語り夢見ることこそが人類の誉れ」って定義しちゃってるんだからこれは譲れない。
すがすがしいくらい自分に都合のいい定義だなぁ。でもこう見えて、自分に厳しい部分でもある。
鬼滅の作者の吾峠呼世晴先生も言ってるけどさ、「漫画(創作物)なんて生きるのに必須じゃない」んだよ。そんな生きることのオプションをこそ人類として…自分としての至上命題にする、って、よく考えりゃすごく高すぎる。「飯を食ってこそ人」って定義したら一日三食食べたら満足なのにねぇ!
現実以上を常に思え、でなくばそこに人間としての意味はない――というのは、流石にしんどい。
まもるための服、――ための創作
「服を着ることで心を守れたら」、つまりはなんだろう、少しでも着て、模様や色…メッセージを纏って、心にエンチャント出来たら、ってことになるのかな。たとえば好きなものを食べて、歌って、読んで、好きな人と話して元気を出すように、好きな色、マーク、などなどを纏うことで心を守ることが「まもるための服」。
じゃ、創作は?
そういう意味なら、商業的な大成功じゃなくても、僕が信じるちっぽけでもきれいななにかを綴れたら、それは「大切な創作」になるのかな。
ちょっと、肩の力抜いてそういうものも考えてみようか。
商業的な、あるいは同人的な、大きな野心はまだまだ捨てられそうにないけれど。そのために大切なものを喪っちゃいかんわよね。
おまけ:ののやまあきさんって誰?
いろんな衣装を創ってる人。僕にとっての認識は「8beatstory♪のライブ衣装創ってる人』だ。純粋な可愛さ・カッコよさ・お洒落さの中に作品としての文脈が入り混じる衣装センスは最高だぞ。