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ダブリンの鐘つきカビ人間の感想・生まれた疑問及び考察②

(筆者の言い訳)
ずっと書こう書こうと思っていたのになかなか筆が進まず(大枠は大千穐楽から1週間のうちにできていたが)大千穐楽から2ヶ月かかってようやく書き上げる気になりました。
未だに劇中歌を口ずさめるくらいには森に取り残された亡霊なのですが、しめちゃんも新しいお仕事が決まったことですし、そろそろ森から抜け出そうと思います。

初めに…。
東京公演3公演見させていただいて、一度考察を上げたのだが、大阪公演再び見させていただいたことで、改めて感じたことや、気になった点が何ヶ所かあったので、その点を考察したいと思う。
何公演か入らせていただいたおかげで、歌の歌詞や台詞を覚えている部分も増えたので、細かい部分に関して触れていきたい。(毎公演幕間や公演後に必死にメモを取ったのもいい思い出である)

改めて自己紹介をさせていただこう。
筆者である私は1995年震災の年の神戸生まれの七五三掛担である。私は高校生の頃から理系人間であるため、少し固い文章になること、少し理屈っぽくなるところがある。私は感情が薄い人間で、語彙力も持ち合わせていない。様々なことに理由を求めてしまう悪い癖がある。そういう人間であることを理解していただいた上でこの文章を読んでいただけると幸いである。

話の流れに関しては東京公演後にあげたものに記載しているのでそちらをご覧いただきたい。

気になった歌詞や、気になったシーン、引っ掛かっている台詞、好きなシーンについて色々言及していこう。(物語の真ん中部分については前のブログでだいぶ触れたので、今回は序盤と終盤についての考察が中心となる。)

[M01預言歌]
るららるららるーるー
遠くどこかからやってきた
るららるららるーるー
悲しみ喜びやってきた
言葉は逆さまお姫様
手を触れるば腐らせる王子様
囀る雲雀天使の歌声目玉のオヤジ亀甲羅
虫の知らせ皆死んでゆく
見たぞ見たぞカビ人間が火つけた僕らの教会火つけたカビ人間が火つけた
見たぞ見たぞ紙人形が見つけた僕らの教会見つけた紙人形が見つけた

物語冒頭で歌われる曲である。
私がこの歌詞で引っ掛かっているのが"皆死んでいく"という歌詞だ。
言葉は逆さまお姫様〜虫の知らせまではそれぞれ、おさえ・カビ人間・止まり木・天使・目玉オヤジ・ウミガメ・親衛隊長の奇病を指している。
市長は死んでいないので、この歌詞には当てはまらない。市長以外の皆が死んでしまっているので、この"皆"を死んでいった市民とすることもできるのかもしれないが、この曲を歌っているのは市長ではない。どの目線での"皆死んでいく"なのであろうか。
そもそも何故ダブリンの街は荒地となってしまったのだろうか?昔この街には"女がいて、男がいて、子供がいて"と市長は語っているのに、この街が衰退した理由がわからないのだ。
また、「見たぞ見たぞ〜」の部分、森から聞こえてくる2回し目は歌詞が変わっている。なぜ歌詞が変わるのであろうか。(前回も書いたが)私はここはカビ人間の冤罪の名誉を回復するために変えられてあるのではないかと考えている。さらに疑問であるのが、真奈美が老人の家で歌う間違った歌詞の預言歌にポーグマホーンが赤く光り反応する。何故正しくない歌詞に反応するのであろうか?恐らくあの時ポーグマホーンが赤く光らなければ、聡はポーグマホーンに気づくことはない。あの歌は森に迷い込んだ人々に何か危険を伝える歌なのであろうか。

[冒頭と末尾の預言歌のシーンの違い]
冒頭の預言歌のシーン住民は全て奇病にかかっているし、カビ人間もジジイから貸してもらったジャケットを着ている。
末尾の預言歌のシーンでも住民は全て奇病にかかっているし、カビ人間のジャケットもある。
1つだけ違うのが、カビ人間のハットについている"おさえからもらった花"だ。冒頭ではこの花はついていないが末尾のシーンではついている。ここの違いだけ気になるのだ。何か意味があるのだろうか?おさえとカビ人間が幸せに天国で幸せに一緒になった証であるのだろうか?

[M02ダブリンの鐘つきカビ人間のテーマ]
ずっと鳴り続けるんだ
誰が誰がついてるんだ
鐘 ここにかつてあった大きな鐘
その鐘は人々に時を伝える

生と死を伝える おそれを 悲しみを
鐘 ding dong ding dong ding dong聞こえるか

森の奥にある この街の名はダブリン
あのダブリンとは違う
壁に囲まれた 小さな街ダブリン
このダブリンは普通
美しい街 森と水 それだけで ダブリン

老人の家で突然聞こえる鐘。廃墟となったダブリンには、鐘もない、つく人間もいない、なのに聞こえてくる鐘の音。この歌が歌われる直前、聡と真奈美が迷い込んだとき老人の家で聞いた鐘の音は明らかにお昼10分前の鐘ではない。あの鐘の音は森に迷い込んだ人がダブリンの街に導かれるトリガーとなっているような気もする。この鐘の音は時を知らせるものであるはずなのに、「生と死を伝える おそれを 悲しみを」と歌われているので、ダブリンの街に導かれるトリガーとなっていることがこの歌詞を表現しているのではないかと思っている。

[ラストの鐘つき塔でのシーン]
この作品で私が最も印象に残っているシーンがポーグマホーンを持ったおさえが鐘つき塔にやってくるシーンである。
ここで歌われる"たった一つの願い〜運命を愛せよ"の歌詞を以下に記す。
あくまで私のメモなので、間違っている可能性はある。

(おさえ)私には夢がない 願いもない 何もない
(カビ人間)たった一つの願い 鐘を鳴らすこと
たった一つの願い 鐘を鳴らすこと
(戦士)たった一つの願い 誰だって生きるんだ
(街の人々)たった一つの願い 平和な街 
(市長)永遠の力を
(ジジイ)たった一つの願い 2人幸せに
(聡真奈美)死んじゃダメ

(カビ人間)ここから見える景色は僕だけのもの
病気になる前はただの景色
でも今は愛している
心が何故 何故心が晴れ渡ってるんだろう
〔市民たちは次々に武器を捨てる〕
【おさえの最大限の愛の言葉】
(おさえ)たった一つの願い 奇跡なんて
クソ喰らえ
〔おさえがポーグマホーンを振り上げるとカビ人間とおさえ以外の動きが止まる〕
〔このシーンカビ人間とおさえが触れ合えているのだ〕
(カビ人間)みんな僕を見て怖いという
(おさえ)私もあなたを見て怖いという
(2人)泣いた泣いた毎晩泣いた
でも今は心から感謝すらしてるんだ

(カビ人間)ここから見える景色はみんなのもの
鐘を鳴らして伝えるのさ
お昼ご飯はもうすぐだ
みんなで美味しいご飯を食べよう

(おさえ)奇跡なんてクソ喰らえポーグマホーン

"たった一つの願い"
この願い叶っているのかどうか考察しよう。
カビ人間の「鐘を鳴らすこと」。これが叶っているから鐘つき塔がなくなっても、鐘つきカビ人間がいなくなっても鐘がずっと鳴り続けていると考えられる。
戦士の「誰だって生きるんだ」。これはカビ人間を指している言葉だと思われるが、この場面、戦士も瀕死である(神父から2発銃弾を受けているため)。だが、おさえが亡くなった後、おさえの亡骸を抱いている。よって、この願いによって救われたのは"戦士の命"であると考えられるのではないだろうか?
街の人々の「平和な街」。これは奇病が治ることであろう。この人々の願いは叶っていると考えられる。
市長の「永遠の力」。これは市長が死ねなくなっていることから叶っていると考えられる。奇病が治ったため不死身になっていると市長は思っているが、あなたが願ったことであると私は思っている。(そもそも市長が奇病であったのかどうか怪しいと私は考えている。この件に関しては東京公演後にあげた考察に記しているため、興味がある方はそちらをご覧いただきたい)
ジジイの「2人幸せに」。この2人はおそらくカビ人間とおさえのことであると思う。天国で2人は幸せになっていると私は感じたので、これは叶っていると信じたい。(できれば生きていてほしかったという願いは拭えないが)
聡と真奈美の「死んじゃダメ」。ここで死んじゃダメなのはおそらくカビ人間だ。ただ、2幕以降街の人々には聡と真奈美の姿は見えていないし、訴えも聞こえていない。この願いはこのダブリンの世界には届かないのだ。なので叶っていない。
さぁ、お気づきだろうか?私は1番最初のおさえの歌詞に触れていない。この歌でおさえは自らの願いを述べれていないのだ。「私には夢がない 願いもない 何もない」と歌っている。もちろんおさえには夢も"ある"し、願いも"ある"し、何もかも"ある"のだ。後述する現代に戻ってきた後の市長の台詞に「そのときおさえが願ったのはカビ人間を救うことではなく、自分とカビ人間2人の幸せを祈ったのです。」とあるが、この時のおさえの本心は誰にもわからないと言うのが真実ではないだろうか?人の本心は誰にもわからない、その人だけのものであると私は思う。この時おさえが願いたかった本当の奇跡とは何なのであろうか。

"運命を愛せよ"(前半)
次に3発の銃弾を受け瀕死の状態であるカビ人間が鐘つき塔の階段をのぼり、鐘つき塔の頂上から"運命を愛せよ"を歌う。この時のカビ人間は何を想い、この歌を歌っているのだろか?この曲は1幕でも歌われる歌であるが、1幕で歌われる時の歌声は明るい。聡に「僕はね、この状況を楽しむことにしたんです。クヨクヨしたって仕方ない。そうでしょ?」と言ったようにこの状況を楽しんでいることが伝わってくる。だがこのシーンではカビ人間は瀕死だ。到底"この運命を愛せる"状況ではないと思うのだ。だが彼はこの歌を歌う。これは彼の覚悟の表れなのかなと私は感じた。最期の時まで自らの運命を愛し、自らの仕事を全うすることしか、彼には残されていなかったのかなと思う。
そして、このシーンカビ人間を殺そうとする市民は次々に武器を捨てる。市民に残された良心にカビ人間の歌声が響いたのだろうか…?

【おさえの最大限の愛の言葉】
「死んじまえ、カビ人間。地獄に堕ちろ、カビ人間。お前は醜い悪魔の僕。お前を迎え入れる世界などこの世のどこにもない。皆はお前を素晴らしい男という。皆はお前に勝る男はいないという。皆がお前を慕い皆がお前を愛する。だがよく聞くがいいカビ人間。私はこの私だけはお前を心から憎む。私は私だけはお前のことが大嫌いなの。」
私この台詞大好きなんですよねぇーーーー!(急な筆者の自我)この台詞何度聞いても鳥肌である。
この台詞訳したくなるのだが、良さが半減してしまう気がするので、敢えて訳さないでおこう。おさえのカビ人間への気持ちが強い分、言葉がキツくなっている。
カビ人間はこの言葉の本当の意味を理解しているので、とても柔らかい表情でおさえを見つめている。
おさえが泣きながらこの台詞を述べる時もあるのだが、最後の「私は私だけはお前のことが大嫌いなの」を述べるおさえちゃんが笑顔だったのがとても印象的であった。
おさえの病を理解しているものにしか、この言葉は伝わらないが、わかってほしい人におさえの思いは伝わっているので、それで良いのだと思う。
全ての人に理解してもらう必要などないのだ。
これは実世界でも言えることだと思う。全ての人に好かれることは不可能であろう。自分が大切にしたい人、この人とは一緒にいたいと思う人に誤解なく思いが伝われば、それはある意味で幸せなのかなと私は思う。

"運命を愛せよ"(後半)
「たった一つの願い 奇跡なんて クソ喰らえ」とおさえがポーグマホーンを振り上げた瞬間周囲の動きが止まる。
カビ人間の歌い出しでおさえは振り上げたポーグマホーンを床に落とし、カビ人間の手を取るのだ。カビ人間は"生きているものに触れるとそれを腐らせてしまう"のにこのシーンではおさえと触れ合うことができているのだ。このシーンはおさえの願いまたは夢なのかなと思っている(何度も考えたのだが自分の中ではしっくりきていない)。
鐘つき塔に行くカビ人間を止める時に抱きしめようとする仕草はしていたので、"カビ人間に触れたい"という気持ちがおさえにあったのは確かであろうと思うので、これが"たった一つの願い"で口に出せなかったおさえの願いなのではないかと思っている。
「私もあなたを見て怖いという」というおさえの歌詞があるが、このシーンでカビ人間の奇病が適用されていないので、この歌詞をひっくり返すか迷ったのだが、おさえがカビ人間のことを怖いというのは不自然であると感じたので、ここは「私はあなたを見て安らぐ」のような意味なのかなと推察する。
「泣いた泣いた毎晩泣いた でも今は心から感謝すらしてるんだ」の箇所はカビ人間とおさえ2人で歌われる。ここのおさえの歌詞は逆なのかすごく迷った(何なら現在進行形で迷っている)。
この前を逆だとするならば、ここも逆にしないと変だと思うのだが、この時のおさえが「この病を心から恨んでいる」とは考えにくいのだ。
おさえも奇病に心から苦しんだ者であると思うので、奇病を恨み泣いた夜もあっただろうが、この病を受け入れ、理解しようとしてくれたカビ人間と出会えて、感謝はしているのではないだろうか。
カビ人間が"運命を愛せよ"を歌いきり、鐘を鳴らそうとすると、おさえはポーグマホーンを再び手に取り、「奇跡なんてクソ喰らえポーグマホーン」と叫び自らをポーグマホーンの1000人目の犠牲者とする。このシーン、おさえは自らの命を犠牲にする以外の選択肢はなかったんだろうかと考えてしまうのだ。自らの命を捧げてまでも、守りたかったものがあることは理解できるのだが、どうしてもそう思わずいられない。

[M22愛はいつも間違う]
(聡/真奈美)
本当のことを教えて霧の中探すように
本当のことは教えないいつだって言葉は雨
ねえあの人はどこにいったのかな
消えてしまったのかな
心の中に帰ったのかな
霧あなた見えないのだから目を瞑り
手を繋ぐわかる心鼓動ねえいつだってここにいる

(聡/真奈美/カビ人間/おさえ)
反対の言葉でお別れしましょう
こんにちは
ありがとう
早く消えて
嫌い大嫌い
あなたのことはもう覚えてない
覚えてない覚えてない今覚えていない

このシーンで印象的だったのはおさえの亡骸を抱き悲嘆に暮れる戦士とカビ人間の亡骸に寄り添い泣け叫ぶジジイに対して、街の人々は奇病が治った奇跡に喜んでいる姿だ。この悲しみと喜びの対比がとても残酷であると感じた。街の人々もおさえとカビ人間の死を目の当たりにしているはずなのに、その犠牲はなかったものかのように振舞われている。ある人にとっては大切な人の死であっても、またある人からするとその死はあってもなくても一緒なのかもしれない。(冷たい言い方ではあるが)
哲学的な分野に関する見解が乏しい人間なので、うまく言えないのだが、今日も誰かがどこかで生き、誰かが死んでいくことで世界は回る。カビ人間の死もおさえの死もこの物語の中では重要な点であるが、街の人々にとっては重要な点ではなく、時間と共に忘れ去られていくのであろう。ただ1人市長を除いて。彼はこの罪を一生背負って生きていくべきである。

歌詞について私の解釈を以下に記す。
「本当のことを教えて霧の中探すように 本当のことは教えないいつだって言葉は雨」最初の2行この歌詞がとても印象的であった。私的なこの歌詞の解釈はこうだ。『本当のことを知りたくてそのために霧の中を探すように闇雲に探してしまう。だが、本当のことは知ろうとしなくても本当の言葉(及び情報)は雨が降るように私たちに降り注いでいる。』
私たちは本当のこと(仮)を知るために、ネットを使って調べたりするが、意外と本質は探さなくても身近にあるのかもしれないと感じた。

「ねえあの人はどこに行ったのかな 消えてしまったのかな 心の中に帰ったのかな」
ここで指すあの人とは誰のことなのであろうか。真っ先に思い浮かぶのはカビ人間であるが、少し違うような気もする。
敢えてここを"あの人"と表現し、誰かを明記しなかったことで、それぞれ登場人物やさらには観客のの心の中にいる大切な人であったり、忘れられない人への言葉になっているのではないかなと思った。

「霧あなた見えないのだから目を瞑り 手を繋ぐわかる心鼓動ねえいつだってここにいる」
(この歌詞の前半部分については後述する)
霧の中で迷い、お互いが見えなくなっていた聡と真奈美。だが、最後手を取り合い、鼓動を感じることで、"お互いが近くにいること"を感じることで安心できるようになったのではないかと思う。

「反対の言葉でお別れしましょう こんにちは ありがとう 早く消えて 嫌い大嫌い あなたのことはもう覚えてない 覚えてない覚えてない今覚えていない」
この言葉、おさえに合わせて歌詞が作られている。伝えたい意味としては『さようなら ありがとう ずっとここにいて 好き大好き あなたのことは全て覚えている』であろうと思う。ありがとうをごめんねと訳している方も見たのだが、私はここはこのままでいいと思った。(感謝する言葉の対義語に違和感を感じたため)
覚えてないと4度歌われているが、ここは"覚えてない"と言うほど"覚えていること"を強調する意味になっているのかなと思った。(英語で否定を使うことで強調する構文があったなぁという高校生の頃の記憶…。)

[現代に戻ってきてからの市長の台詞]
「そのときおさえが願ったのはカビ人間を救うことではなく、おさえとカビ人間2人の幸せを祈ったのです。そのためには街に平穏が訪れ、人々の心に温もりと安らぎを取り戻すことを願ったのです。"この物語は1人の醜い鐘つきと心を言葉にできない悲しくも美しい娘が街を救った幸せなお話です。"」
市長、お前だけはこの物語を幸せなお話だなんて言うなと私は思っている。あなたが諸悪の根源である。自らの利益のために他人の罪を捏造し、2人の人間を死に追いやった人が、加えてさらに自らの利益のために森に迷い込んだ人々を殺している者が言っていい台詞ではない。
そして、先ほども述べたが、おさえの願いは述べられていないので、市長にもわからないと思うのだ、何故こう断言できるのであろうか。


ここからは、この物語で鍵となっている事象が2つに関して触れていく。

①見えないこと。
以下に見えないことの事象を記す。
〈ⅰ〉聡と真奈美が道に迷うのは霧で見えないこと。
〈ⅱ〉奇病が流行ったきっかけは街を霧が覆ったこと。
〈ⅲ〉おさえの父は目が見えない分、見えないものが見えると言っている。
〈ⅳ〉2幕以降聡と真奈美の姿が街の人には見えない。
〈ⅴ〉ポーグマホーンを手に入れる時に見えない敵と戦う
〈ⅵ〉市長の「見たくなければ目を閉じ、聞きたくなければ耳を塞げばいい」
〈ⅶ〉"愛はいつも間違う"の歌詞「霧あなた見えないのだから目を瞑り」

目に見えないというキーワードから私が思い出した話が1つあるので、この台詞を借りたいと思う。サン=テグジュペリの『星の王子様』の1節だ。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ。」
目に見えるものばかりが真実ではない。目に見えているものでも、個人でバイアスがかかったりする。
ここから見えなかったことで各々が気付けた本質について考察していこう。

〈ⅰ〉聡と真奈美が道に迷うのは霧で見えないこと。
霧の中道に迷ったとき、聡と真奈美はこの旅行が終わったら別れるつもりで旅に出ていた。
おそらく聡と真奈美は互いの気持ちの本質に気づけていなかったのではないだろうか?
六花ちゃんがラジオでも言っていた(何公演も見たのに私がこのことに気づいたのがラスト2公演のときだった)が、カビ人間は真奈美に、おさえは聡に似ているのだ。
1幕でカビ人間と聡が出会うシーンにこういう会話がある。
(カビ人間)僕はね、この状況を楽しむことにしたんです。クヨクヨしたって仕方がない。
(聡)真奈美が言いそうなことだな。

また2幕終盤聡が真奈美の手を取るときに
(真奈美)霧の中で手を握っていて欲しかったの
(聡)何度も握ろうとした、でもできなかった。

このことから、聡は自分の気持ちやこうしたいと思ったことを口に出さなかったり、実行してこなかったことがわかる。これが思っていることを言葉にできないおさえと重なるのだ。
霧の中で迷い、聡と真奈美はカビ人間とおさえの物語に触れることで、お互いの気持ちの本質に気付き、また2人で歩んでいこうと決意するのだと思う。

〈ⅱ〉奇病が流行ったきっかけは街を霧が覆ったこと。
"病は霧から なんなんだ?なんなんだ?"の歌詞中で、街の人々は奇病のことを嘆きながらも、奇病になったことで良かったことも述べている。奇病によってできるようになったことはそれぞれが心の中で思い描いていた夢や欲望を実現していたりする。奇病になったことで、各々が心の中で願っていた本質を表現できるようになったのではないだろうか?

〈ⅲ〉おさえの父は目が見えない分、見えないものが見えると言っている。
おさえの父は目は見えていないが、1幕の親衛隊長とのシーンで、親衛隊長の顔がどんどん真っ赤になっていることが手に取るようにわかると言っている。また2幕頭では一雨きそうだと言っている。
見えない分他の感覚が研ぎ澄まされるようになっているのであろう。
基本的には見えないものでも見えているような行動や発言をするおさえの父であるが、1箇所だけ誤魔化すシーンがあるのだ。カビ人間が「僕が美しいわけないもんね」という台詞に対し、おさえの父は「さぁな」と言う。私が想像するに、おさえの父はカビ人間の姿が美しくないことはわかっている。そして、カビ人間の心が美しいこともわかっている。だからこそここは「さぁな」と言ったのだろうと思われる。

〈ⅳ〉2幕以降聡と真奈美の姿が街の人には見えない。
街の人々には聡と真奈美が見えなくなり、森へ戻ると戦士には聡と真奈美が見えているのか不思議だったのだが、恐らく暴徒と化した街の人々には"この事件の本質が見えていないから"ではないだろうか。
カビ人間を殺そうとする街の人々は天使の歌う"預言歌"を信じ、教会に火をつけたのはカビ人間だと思っている。実際に現場をその目で見たわけでもないのに。
戦士は1幕で神父から聡と真奈美は「邪教団の密使」であると教えられるが、真奈美と剣を交えたことで、それが嘘であると"本質を見抜くこと"ができている。
また市長(老人)もこの物語の本質を唯一知っている人物であるから(ストーリーテラーであるので当然ではあるが)、聡と真奈美の姿は見える。
2幕では物語の本質を知っている者しか聡と真奈美が見えていないのだと思う。

〈ⅴ〉ポーグマホーンを手に入れる時に見えない敵と戦う
見えない敵とはなんだろうと考えた。この物語における見えない敵は奇病であるかなと思う。現代社会においてはストレスなども見えない敵と言われることが多い。
この場面では敵の本質が見えないのだ。だが、なぜか聡の歌うLove Me Tenderのおかげで、敵は倒せる。たまたまなのだが、聡はこの敵の本質を突けていたのかもしれない。
Love Me Tender(優しく愛して)
聡は見えない敵に歌声で寄り添い、優しく愛することができたのではないかと思う。
(この場面の解釈ほんとに曖昧すぎて申し訳ない。誰かご意見があればコメントください)

〈ⅵ〉市長の「見たくなければ目を閉じ、聞きたくなければ耳を塞げばいい」
目を閉じても、耳を塞いでもこの物語は最後まで進んでしまうし、止めることは不可能である。(ダブリンの街から抜け出す手段がない)
ただ、目を閉じてしまえば物語の本質を見届けることはできなくなってしまうかもしれない。この物語の結末から目を背けることは果たして良いことなのであろうか…

〈ⅶ〉"愛はいつも間違う"の歌詞「霧あなた見えないのだから目を瞑り」
この歌詞、ただでさえ見えないのにさらに目を瞑るのだ。見えてるものばかりが真実ではないからであるのかなと個人的には思っている。目に映るものは霧であるが、目を瞑り心の目で見ることで、この状況でも本当のことが見えるのではないだろうか。
目に見えていることを優先してしまえば、先入観や偏見が生まれ、非合理的な判断をしてしまうこともあるだろう。(認知バイアスと呼ばれるものである)

②触れること
〈ⅰ〉カビ人間は生きているものに触れるとそのものを腐らせてしまう。
前回の考察でもちょっと触れたが、伊原六花ちゃんのラジオでこの設定今回からっておっしゃってたので、それがちゃんとわかって嬉しい。
この設定により、カビ人間の孤独をより際立たせていたのは確かであろう。近年の研究では親しい人と触れ合うことで幸せホルモンとも呼ばれる「オキシトシン」の分泌が増えると言われている。このように触れると言う行為は幸せなことであるし、ストレスを緩和したり、人との信頼関係を築く上で重要であるのだ。このように人に触れることができない、親しい関係を築くことができないカビ人間はやはり孤独だったであろうと思う。

〈ⅱ〉教会におさえと共に閉じ込められた時、おさえに触れることで柔らかさ、温かさを感じる。
触れることができないカビ人間がカビ人間になってから初めて触れるのがおさえである。おさえの柔らかさや温かさに触れることでカビ人間になってから初めて"触れることによる幸せ"を感じることができたのであろう。


最後に…。

投稿の画像に選んだのは自分が入った最初の日(7/6)に買ったパンフレット(左)と大千穐楽の日(7/29)に買ったパンフレット(右)を並べたものである。
期間中ずっとパンフレットを持ち歩いていたため、教科書のようにボロボロになってしまった。こんなにパンフレットを隅から隅まで読み尽くした作品は初めてである。

この素晴らしい作品に出会わせてくれたこと、本当に感謝している。
またダブリンの街の人々に会いたいと心から願っている。

またまた長文になってしまったが、読んでくださった心の優しい方感謝申し上げる。
このブログを読んでくださった方はダブリンの街から戻ってこれない奇病に罹ってる人が多いのではないかと思うが(かくいう私もそうである)、カビ人間とおさえに気持ちを馳せつつ、日々の生活を歩もうと思う。

........最後にといったが、少しだけ七五三掛担としての自我を解放しようと思う。笑
(ここから先はオタクの戯言なので、正直読むことはお勧めしない)(ここまでの内容も1人のオタクの自己満考察なので戯言と言われればそうであるが)

しめちゃんへ
ダブリンの鐘つきカビ人間お疲れ様でした!
大好きなしめちゃんが演じるカビ人間をたくさん観に行くことができて、本当に幸せな1ヶ月でした!
舞台に立つしめちゃんは、七五三掛龍也ではなく本当にカビ人間でしたね。
私は毎公演カビ人間に会いに行っていました。
カビ人間に感情移入してしまうので、目を背けたくなるようなシーンもありましたが、必死に目に焼き付けてきました。
七五三掛龍也を通してこの作品に出会えたこと、本当に感謝しています。ありがとう。
再演があることを心から願っています。
この作品が観れなくなるのは悲しいけれど、これからもたくさん素敵な景色を見せてくれるんだろうなと思っています。
これからもしめちゃんの夢がたくさん叶っていきますように!
その姿をできる限り見届けられますように!

「ダブリンの鐘つきカビ人間」最高でした!
2024年夏の思い出!!!

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