telepath
わたしは再び街人のいる世界で生きられてしあわせだ。もう街人という名前ではないが、新しいふたりの旅にまた着いていくことが出来てこのうえなくしあわせだ。
ともさんが鬱病に苦しんでいたことや自殺企図をしたことはもちろん知らなかったけれど、漠然と自分はともさんと同じ側の人間だと思っていたから(傲慢だね…)改めてともさんの言葉で出来事やきもちを伝えてくれて、なんていうか、変な言い方かもしれないが少しほっとした。寂しさを分け合えたような感情になってしまった。
それと同時にともさんが今生きていることや歌ってくれていることの尊さを思い知った。こう言うとともさんの言葉を受けてはじめてちゃんと生きることを見つめたように、ともさんの存在をあたりまえに思ってたように聞こえるかもしれないけれど、決してそうではない。
ともさんの持つ大きな大きなやさしさが包む対象はきっと自分以外の大切なひとで、自分のことはあまり認めるタイプではないんだろうなぁとか勝手に想像していた。だからこんなにあたたかくて切なくて、そばにいるのにパッと消えちゃいそうな曲が書けるんだろうと思っていた。
それでもともさんはずっと街人だし、わたしの知らないどこかで音楽をやり続けると信じていた。街人の新譜が出なくても、Twitterが動かなくても、街人の音楽が残っている世界にわずかでも光を見出していたし信じていたかった。わたしの希望だった。
でもともさんのnoteを読んでそれが失われていた可能性を知って、そんな世界を想像してこわくなった。ともさんに終わりを選ばせる世界で自分ごときが生きていけるとは思えないから。
わたしが勝手に信じて縋った存在も、不滅ではないことを痛感した。もしかしたら自分が取り残されるかもしれないことを理解した。
それでも幸い、ほんとうに幸い、ともさんはまだここに居る。だからこの、脆さとうつくしさを心から愛したいと思った。一度消えかけてしまったともさんがこれからkaoとして活動していくことをわたしたちに報告してくれてうれしい。わたしにとって唯一無二のひかりであるともさんがまた笑って生きていることがうれしい。今ある全部がほんとうに奇跡みたいだね。
ともさんの悲しみを孕んだきれいな言葉がだいすき。目を塞ぎたくなる日々でも、手を取ってくれる街人やkaoの音楽があって、それらを抱きしめて前に進んでいる kaoの音楽はともさんのきもちが前よりすこし真っすぐ表されていてすてきだと思った。
ともさんは沢山のひとの宿り木になっているから、ともさん自身が宿れるなにかがあったら、誰かが居てほしい。きっとそれはkaoのメンバーでもあって、そうやって集まったのがkaoで、考えれば考えるほどすごくすてきなバンドだ。
ともさんが「生きてていいんだ」って思えたライブにわたしは居なかったが、わたしを生かしてくれているともさんが生きることを肯定する理由が自らの音楽を求めるひとなら、ずっとともさんの音楽を応援していきたい。ともさんに求められなくてもわたしが求めてしまうから結局聴くことに変わりはないけどね。
言葉とこころが本物の世界で、すなおにkaoの音楽を感じていきたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?