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思い出のリクルートスーツ

人生の転機になった社会人生活数ヶ月の思い出を(こっそり)お話したいと思います。Twitterに流れて来る「#社会人1年目の私へ」を見ていて、なんだか心の奥がキューっとしていたので、わたしも何かしら新社会人のみなさんへ伝えられる事があればいいなと思い、久々にnoteしたいと思います。



1. 髪を黒く染めて

溝の口駅、確かここは数週間通った研修センターがありました。たくさんのスーツを着た人が、あちこちを急ぎ足で人混みをすり抜けていく。満員電車の南武線からなんとか降り立つ毎朝、5日目にはすっかりヘトヘトでした。

当時、わたしはCADを使って、工業製品の主に自動車メーカー、エネルギーや電機メーカーなど様々な大企業と連携し、チーム一丸となって関わっていくCADエンジニアとして働こうと思い就職しました。当時の会社名は(株)インクスが母体、エンジニアたちが集まった(株)インクスエンジニアリングサービス(現在 / SOLIZE(株)グループ)。さらに、今後は3Dプリントの時代が来るだろうという事と技術職につきたかったので、無事に就職できて心から嬉しかったのです。これからの日々がとても輝かしいと思っていました。

7日目の朝、会社に到着してすぐにトイレに向かいました。月1回必ずやって来る生理の怠さ、言葉にし難い脱力感のせいでしたが、「そんな甘えた事言ってられないっ」と奮い立たせて、研修のグループワークのデスクへ向かいました。でも、なんだか気分が優れなかったのです。


2. 脱落者が出た

デスクに着くと、隣の同期たちからこんな話を耳にしました。

「◯◯さん、辞めるんだって。」

この研修期間が始まる前に、相当厳しい3ヶ月になるという話は事前に聞かされていました。もちろん、全員覚悟はしていました。お辞儀の角度、ワード / エクセル、プレゼン、スピーチ、CATIA、Vectorもだったかな?、その他様々な種類の研修を5〜6人チームの中で朝から晩までこなしていきました。それに対して、何も思うこともなく淡々と技術を磨いていました。

でもそんな中、一人、また一人と朝来なくなる同期がいました。連日休んでしまい、とうとう退職してしまう同期が出てしまったのです。噂はランチの時間などにあっという間に広がりました。

そして、午後違うデスクへ移動するために、自身の机の上にあるはずのネームプレートを探しました。研修中、移動するごとに自身のネームプレートを必ず持参して置かなければならないルールだったのです。しかし、わたしのネームプレートは見つかりませんでした。

「しまった…」

午前中の違うデスクに置き忘れたままなのを思い出しました。同時に、怒られることを覚悟しました。案の定、裏に呼ばれてしまい…

「これ、忘れてますよ。」

ネームプレートを手に持ちながら、すごい剣幕の女性がどっしりと座ってこちらを見ていました。確か、当時各グループごとにチューターのような責任者がいて、面倒を見てくれるのです。ただ、この時は違うチューターか、午前担当の研修の先生だったか忘れてしまいましたが、驚くほどの怒りをぶつけてきたのです。怒り方の中で最上位というか、久々に食う他人からの怒りに目眩がしました。

ネームプレート忘れただけで、ここまで言われるのはなぜなのだろう?その時は訳がわからないままで、今にも泣きそうになりました。

午後の研修がすぐ始まるので、時間にしては短い時間でしたが、とても長く感じました。ネームプレートをようやく返してもらって、心を落ち着かせようとトイレに向かいました。


3. 朝起きて、最初に想い浮かんだこと

なぜネームプレートを忘れてしまったのかと、とても悔しく悲しい気持ちになりました。そして、記憶では少し泣いたのだと思います(照) ホルモンバランスの崩れのせいなのか、精神的にダメージを食らってしまって、ついつい心が折れてしまったのです。会社で泣くなんて恥ずかしい。誰かに見られたら、もう会社に行けない。怒られたショックの次は、泣いたことにもショックを受けて、ダブルパンチで数分間色々な事がものすごいスピードで頭を駆け巡りました。今思えば、泣き虫の未熟者だと思いますが、その時は精一杯でした。お腹も痛いし、なんだかもう嫌になってしまうことは誰にでもあると思います。

それでも、すぐに午後の研修があるので、早めに再び気持ちを奮い立たせました。次はグループワークでなく、一同でお話を聞くガイダンスのような内容だったので、泣いた事がバレずにやり過ごす事ができました。終わった後に、同期に「怒られちゃった〜(笑)」とふざけて話していました。研修中に怒られて脱落する人もいたので、わたしはそうならないように乗り越えなければと思っていました。

ホッとして、その日は少しだけ元気なかったかもしれませんが、残りの研修をやり遂げ、再び重い身体を引きずって満員電車の中へ吸い込まれていきました。それから同じような日々を淡々とこなしていきました。

(補足ですが、在籍していた会社の研修が怖いという間違ったニュアンスで伝わってしまったら申し訳ないので、そこはどうか誤解しないでください。)

それから何日経ったか忘れてしまいましたが、ある朝、目が覚めた時に、ふと思いついた事がありました。寝ている間に夢を見たの訳ではなく、ただただ閃いたことに対して、とてつもなく明るくて、楽しくて、大きなエネルギーを感じていました。なんだかわからないけれど、ウキウキしていたのです。

それは、カメラマンになる、ということでした。


4. 根拠はないけど

「わたし、カメラマンになると思う」

朝起きて、開口一番に母にそう伝えました。母はこの子、何言っちゃってんの!?という表情で、困惑していました。

「えー!? 今の会社、どうするの?生活はどうするの?」

ごくごくまともな母からの厳しい言葉を受け、半ば聞かずに会社へ向かいました。満員電車に揺られて思っていたのは、カメラマンになることの前向きな気持ちだけでした。一片の曇りもなく、将来への不安にかられることもなく、なんだかとても楽しい時間を過ごしていました。自分にもよくわからないけれど、思いついてしまったのだからしょうがない。それに背くことなど考えられませんでした。

同期に嫌な人もいないし、将来の仕事の内容もとても充実していることは間違いありませんでした。これはつらく厳しい研修に対しての逃げの気持ちから沸き起こって出てきたのでしょうか?もしかしたら、それは背中を少し押した1つに過ぎないのかもしれません。若気の至りと今では言っていますが、純粋な想いを周囲の人に否定されても構いませんでした。自分が自分自身の事を、誰よりも信じ抜くということを幼少期から自然と身についていました。根拠のない自信、それはわたしにとって最大の盾であり武器でした。


5. 研修の成果発表

溝の口駅、降り立つとなんだかキラキラ輝いて見えました。その日の朝、早速担当チューターへアポを取りました。ここ最近も数人退職していた中だったので、チューターからすれば悪い予感しかなかっただろうと思いました。

そして、アポの定刻ぴったりにオフィスを訪ねました。やはり怪訝な表情でしたが、わたしはなんの悪気もなく明るい表情でこう告げました。

「あの、カメラマンになりたいです」

チューターは少し驚いて、笑っていました。そんな様子を見て、なんだかわたしも笑っていました。話を聞くと、研修で辞めていく人しかいない中、夢を語る人が出て来ると思わなかったそうです。辞めていく人を引き止めるのがとても辛かった、と。今年もやはり退職者が出てしまい、チューターたちも毎年頭を抱える人材育成。「よーしっ!」とチューターはなんだか晴れやかな表情をして体勢を整えて言いました。

「辞めてもいいよ、でもその事を全員の前で宣言しなさい」

「( ゚д゚ ) え!?」

みんなの前で宣言するの!?辞める事を?カメラマンになる事を?えーーー!?なんで!やだー!と言う叫びが猛スピードで駆け巡り、今度はわたしが怪訝な表情をしました。そんな心の声を全て見透かしていたように、なんだかチューターは楽しそうでした。

そんなやり取りはあっという間に同期たちの間で広まり、その日はすぐ帰宅したのか、研修の残りをしたのか忘れてしまったのですが、明日の朝礼で同期やチューター、先輩の前でスピーチを行うことになりました。


6. 言霊

研修中、たくさんのスピーチをグループワークの中でこなしてきました。その時のルールは、なるべく文章を読まずに顔をあげて、聞いている人の目を見ること、その場にいる人全員に心から届けること。あの時、研修を受けてよかったと強く思いました。そして、今こそ研修の成果を試す時がやってきたのです。

同期は記憶の中では110人以上いたと思うのですが、研修中ですでに10〜15人は退職していました。その中で唯一、退職スピーチを行うことになり、わたしが辞めてからは少しの期間、伝説になっていたそうです。

朝礼で名前を呼ばれて、グループから一人離れて壇上に上がりました。たくさんの人の前で何を話そうか考えていましたが、いざとなると頭の中は真っ白でした。

「短い期間でしたが、本日を持ちまして退職することになりました」

(そうだ…顔をあげなくちゃ…)

「研修期間中とても大変でしたが、グループのみなさん、同期の仲間たちのおかげで毎日楽しく過ごすことができました」

(目を合わさなくちゃ…)

「そして、多くの大切な事を学ばせていただきました先輩方、チューターの皆様に心から感謝しています」

(えーと、胸をはるんだっけ…)

「わたしはカメラマンになる事を決意いたしました」

(あ、あっちの方にも顔を向けなくちゃ)

「ここでみなさんの前で約束をします」

(手元は見ない、手元は見ない…)

「必ず夢を叶えて、自分で自分の道を切り開いていく事をここに誓います」

(心を込めて、心の底から伝える…)

「皆さんもどうか厳しい研修期間ですが、乗り越えて、必ずやりたい事を叶えてください」

(本当にありがとうございました!)


7. あれから時を経て

他にも色々話していたのですが、スピーチ中は注意するべき事ばかりに気を取られて、途中何を話したかわからなくなってしまったけれど、終わってから同期たちが「かっこよかった」と話してくれました。それを聞いただけでもよかったし、何か伝わったならと安堵していました。そんな中、あのネームプレート事件のチューターが話しかけてきました。

「もしかしたら、怒りすぎてしまったせいかなと思ってて…」

そこにはかつて激しい剣幕で怒ってきた人とは別人のようなチューターがいました。とても穏やかで、なんだか申し訳なさそうに小さくしていました。わたしは笑顔で否定して、御礼を伝えました。

研修期間中確かにミスや失敗などに対して、怒られる事のハードルはかなり高かったと思います。社会に出たら、さらに厳しく険しい日々や、怒る上司、クライアント、様々な困難に対しての免疫をつけるためでもありました。今回は「ネームプレートを忘れただけ」だったのかもしれません。でもその「だけ」が社会では通用しない事もあるのだと知って欲しいと話してくれました。あの瞬間はわからなかったけど、今ならとてもよく理解できます。

あれから長い月日が経ち、わたしはカメラマンになりました。フリーランスになって10年以上になりました。立派な社会人かどうかはわかりませんが、今も毎日楽しく奮闘しています。

わたしはたまたまカメラマンになれたとは決して思っていません。もちろん、小さなラッキーはたくさんありました。その中でも自分で自分の道を切り開くには具体的にどうするのか、日々考えて必ず実行していました。誰に会えば良いのか、何をしたら良いのか、遠回りなのか近道なのかもわからず、ない頭をたくさんフル稼働しました。闇雲でも誰かは必ず見てくれているのだと思うと、とても心強く感じでいました。そんな中、失礼な事をしてしまったり、やんちゃしてしまったり、たくさんの方に迷惑をかけてきました。同時にたくさんの人に育ててもらい、助けてもらい、今もなおたくさんの愛情を注いでいただいています。会社を辞めてから、今日までずっと感謝しかありません。


8. 最後に

「みんなの前で宣言しなさい」と言われた時は、心臓が口から飛び出そうでした。あの時は心底嫌でしたが、今となっては言ってよかったと思います。たくさんの「たられば」が頭をよぎりましたが、それ以上に言ったからには、成し遂げようという強い気持ちに変わりました。

チューターはそんな心理を知っていたのでしょうか?今となってはわからないのですが、もしかしたらわたし自身の事をよく見てくれていたからこそ、そう言って背中を押してくれたのかもしれません。

その後、厳しい研修が終わった3ヶ月後のお疲れ会の席に、元同期たちが飲み会へ招いてくれました。その時に元チューターが、もし会社にそのまま残っていたら「広報」になっていたかもしれないと話してくれました。それもそれで楽しそうだなと思いますし、今の仕事にもなんとなく似通っていて、やっぱりわたしの事をきちんと理解してくれた会社だったんだなと、改めて感謝の気持ちを抱きました。



そして、最後にみなさんへ。

泣いてもいいと思います。(こっそり)

生理痛重かったら、少し同期に甘えてください。(病院には行ってね)

やりたいことがあれば、思う存分やってください。(盛大に)

怒ってくれる理由が必ずあると思ってください。(でも、凹みますよね)

そして、どうか自信を持ってください。(根拠のない自信を!)

リクルートスーツを着た人を見る度に、今度はわたしが返していく番だと思うのです。noteに書いた事で、少しでも何かの勇気や元気の素になってくれたらいいなと思っていますし、心から応援しています。






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yuricamera / 寺島由里佳
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