名称未設定_1

スポットライトを浴びて #あの夏に乾杯


 ホームに降り立つと、セミがミーンミーンと大合唱をしている。「暑い」と新幹線を降りた小さな女の子の集団が口々に呟き、わたしも額から吹き出る汗を拭った。新幹線が駆け抜けるホームで、軽やかなレースのシャツやカラフルなワンピースがふわりと揺れる。大きな荷物を抱えて小さな少女たちは、劇場へ向かった。


 会場に到着すると、「ミュージカル アニー 名古屋公演」と大きな看板が掲げられていた。


ついにこの夏がやって来た。
ここでわたしたちの舞台が再び、幕を開ける。





♢♢♢


 1ヶ月前…


 1人電車に揺られていた。揺れが心地よく、適度に涼しい車内と連日の稽古の疲れのせいか、いつの間には眠ってしまった。次にふと目が覚めた時には見慣れない景色に驚き飛び起きて、電車を降りた。

 ホームに降りると、そこには高尾駅と看板が出ていた。

 (ど、どうしよう…!)

 勝どきスタジオとは真逆の方向へいつの間には来てしまった。東京駅からそのまま中央線が折り返して、終点の高尾駅に到着したのだろう。

 慌てて緑の公衆電話を探して実家に電話を入れた。

「寝ちゃって…今、高尾駅着いた。遅刻しちゃう…」
小学2年生のわたしはスタッフに怒られるとビクビク怯えていたが、母が機転を利かせてくれた。
「大丈夫よ、体調不良で遅れるって伝えておくから。そのままスタジオに向かいなさいね、気をつけて行くのよ。」
「ママ、ありがとう。」
少しホッとしたのと同時に若干の罪悪感を抱えながら、勝どきスタジオへ向かった。



 最寄駅から走って走って走った。息切れをしながら、少し間を置いてスタジオの大きな扉の前で、そっと耳を当てた。中からすでに稽古が始まっていて、大きな歌声が耳の奥へ響いてくる。途端に緊張が走った。
 恐る恐るスタジオの大きくて重たい黒い扉を開けた。いつもより重たく感じた。稽古をしている仲間を横目に小走りで世話役のスタッフの元へ向かった。



「遅れてごめんなさい。」深々とお辞儀をする。
「全然平気よ〜!むしろお腹の調子はどう?」
 母は腹痛を口実にして、スタッフに遅刻することを伝えていたのをその時言われて知った。わたしは苦笑いをして、大丈夫ですと深くお辞儀をした。今こそ演技力を発揮する場面なのに、口元はニヒル調だったかもしれない。




 わたしの役柄はテッシー、泣き虫の弱虫役だ。
 自分でもこの役はピッタリだと思っている。




 ベッド組と呼ばれるモリー、ケイト、テッシー、ペッパー、ジュリー、ダフィは台詞や1人で歌うパートなどの役割を担っている。主人公のアニーと一緒に意地悪なハニガン先生と戦う同士達だ。


 稽古は今回ベッド組の最初のシーンが行われていた。モリーがペッパーに泣かされて、ジュリーが慰めていた。

 わたしも途中から稽古に参加した。素早く稽古場に置かれているベッドに潜り込み、ハニガン先生がやって来るシーンに突入した。


 ベッド組の最初の見せ場は「ハードノックライフ」だ。重たいバケツとタワシとタオルを持って、ハイスピードでダンスと歌を繰り広げていく。力強く小さな少女たちが負けずに生きていることを表現する大事なシーンである。


 初めてダンスと歌を一緒に稽古した時は、しんどさや緊張で、冷や汗やら涙やら、身体中からありとあらゆるものが出ていたようだった。
 芸能プロダクションに所属しているみんなは普段からの稽古で培った基礎がある。その大事な基礎があるのと、ないのとでは差が歴然だ。すぐ隣でライバルが踊っていて、同じ時間に同じ動作を繰り返しているのに、何かが違うのだ。考えても小学校2年のわたしには到底、何からどう改善したらいいのかもわからないし、それ以前に必死についていくだけで精一杯だった。


 稽古の時は全員ラジカセを用意する。
それは稽古中の全ての会話を録音して、復習するために使用する。わたしは録音したテープに入っている音楽を使用して、ダンスの練習を自宅でよくしていた。ドシン!という大きな足音はきっと下層の住民のいい迷惑だったかもしれない。そんなことを考える余裕もなく、日々練習に明け暮れた。ダンスのフリだけはせめて忘れないように、身体中に叩き込んだ。



 当時の演出家は怖いことで有名な篠崎先生

 稽古場は戦場だ。毎日必ず誰かが怒鳴られ、必ず誰かが号泣していた。ハードノックライフのパートを一人で歌とダンスをみんなの前で順番にやらされた事があった。1人ずつ披露して、先生が気になる箇所があれば、容赦無く音楽を止められ、怒鳴られた。そしてまた最初から踊るように指示される。その光景を全員がそっと見守る。見守りつつも、次に誰が指名されるかわからない緊張感に包まれながら、待っている間は振り付けを復習したり、歌詞を間違えないように暗唱していた。


 そんな中、Aちゃんが緊張のあまり振り付けを忘れてしまったようで、困惑の表情で立ち尽くした。途端に篠崎先生が音楽が止める。




… あなた、今まで何をやってきたんですか!!!



 篠崎先生はいつも敬語で丁寧に話しかけてくれる。それはきっとどんな小さな女の子にでも対等に接し、敬意を払ってくれているのだろうと思っていた。
 だが、怒られる時、怒鳴られる時の敬語は、まるで雷や拳銃で撃たれるような衝撃波を纏っていた。敬語であればあるほど、丁寧に話しかけられるほど、それはそれは恐ろしかったのだ。



「はい、次、寺島さん」


 わたしは目を見開いた。


 なんで、こんな空気が凍りついた後にわたしの番なの???

 困惑しうつむきながら、恐る恐る最初の立ち位置へ向かう。


 しかし、あまりの緊張で立ち位置を確認することが慎重になり過ぎたせいで、もたついてしまった。その気配を察知して、篠崎先生がつかさず怒鳴った。



「あなたもわからないのですか!?」


いいえ!!」かぶり気味に急ぎで大声で答えた。


 立ち位置は演出家やスタッフたちがの足元の方に印がつけてあるので、全ての踊りの立ち位置が決められている。場所を移動して踊っていても、次にどこの位置から踊り出すのか、全て細かく指定されていた。


 「いいですね?」
 「はい!!」


 音楽がスタートした。
最初は勢いよく両手で持ったバケツを床に叩きつける。
バケツを振り下ろすタイミングは音をしっかり聞き取り、自分のタイミングはあらかじめ決められている。

 モリー、ケイト、テッシー、ペッパー、ジュリー、ダフィ、アニーの7回と、最後にバケツの中に入れているタワシをキャッチして、最初のフリを決める。


 「負けやしないわ!」

 緊張の最初の出だしは大丈夫だ。
 声も出ているし、震えていない。
 先生からもストップされない。

 やれる。大丈夫だ、きっとやれる。


「この家さえ沈んじゃうー!」

 終盤疲労がピークになる頃、タオルを振り回して高速でステップを踏むパートがある。高くあげた足の間にタオルを交差させて、必死でタオルを落とさないように最後の全力を出し切った。ここでタオルを落とすと、怒鳴られ最初からやり直しだ。しかし、わたしにはもうその体力と気力は残っていない。


 息遣いが激しくなり、唾を飲み込むのもいっぱいいっぱいだ。踊りながら、全力で歌うってなんてハード競技なんだろう。しかも、ステップを踏むと、確実に歌声はビブラートを響かせたように震えてしまう。
 だが、決して震えさせてはいけない。腹筋を駆使し、歌声を安定させる。腹式呼吸をしっかりコントロールさせなければならない。


 タオルを高速で操っている中で、いつも心の中のわたしが叫んでいた。

手足の隅々まで神経を尖らせろ。
音楽から1ミリも外すな。
ステップを返し、歌詞も音程も1ミリも外すな。

 ごくごく当たり前のことだが、ダンス、音程、歌詞の間違いがあってはならない。なぜなら、わたしたちはプロだ。舞台の上に立ち、お客さんの前に出るということはそういうことだ。芸能プロダクションに所属せず、フリーのわたしにとって、「舞台に立つ」とはどういうことなのか。当時、稽古を始めた当初は全く理解していなかった。こんなに苦しい稽古を毎日積み重ね、何度も何度も繰り返す理由もわからず、苦しいけど、立ち止まれなかった。
 

 しかし、はじまりがあれば、終わりがある。
 無事に難関のパートが終わった。


 ここを乗り越えば、あともう少し。最後のフィナーレはベットの端から大きくジャンプをして、即側転をし、所定の位置で最後のポーズを決める。息も絶え絶えになりながら、最後の力を振り絞る。

 しかし、ここでわたし自身にもコントロールできない身体の異変が起こった。最後の最後ベットからジャンプして、側転をした後に眩暈を起こして吐きそうになった。吐き戻したくないから、必死にその場で堪えてうずくまってしまった。すぐに音楽が中断され、世話役の人が介抱しに迎えにきてくれた。



 情けない…身体に力が入らないまま、焦点も定まらず、誰が何を言っているかも聞こえない。でも意識をギリギリ保って、ジッと待っていた言葉があった。

 それは篠崎先生からの言葉だ。
 もちろん、怒鳴られると覚悟をした。


 でも、先生は何も言ってくれなかった。
 怒鳴られて怒られる方がまだマシだ。


 でも、同時にその凍るような緊張感から解き放たれて安堵したのも事実だった。



 心底情けなくて悔しかった。1人で踊りきれなかった。あと少し、あと少しだったのに…わたしは失格だ。お金をもらってお客さんの前に出るプロなんかじゃない。こんなんじゃダメだ。全然ダメだ。

 

 廊下のソファで冷たいタオルをおでこに乗せられて、1人静かに泣いたのは一生忘れない。



ハードノックライフ 

負けやしないわ 辛い毎日
騙されぶたれ 殴られ蹴られ ひどいけど
優しい人も 家族もいない
冷たいベッド 腹ペコだけど 負けやしないわ
風は吹き荒れるばかり 暗闇にいるみたい
死んじゃいそうになるけれど 負けないで戦うわ
怖い夢見て泣いても 誰も助けてくれない
みんなの流す涙で この家さえ沈んじゃう オー!
腹ペコで汚くて 悲しくて夢もない
サンタクロースなんて 見たこともない
孤児院暮らし 惨めだけれど 負けやしないわ
あいつを殴れ 突き刺せピンで
毒を飲ませろ アイ・ラブ・ユー ミス・ハニガン ふんっ!
負けやしないわ 辛い毎日
孤児院暮らし 惨めだけれど
辛いけど 辛いけど 負けないわ

 

♢♢♢


 ワァァァァーーーーー!!!


 大歓声に、わたしたちは包まれた。声にならない言葉があちこちでこだましている。壁という壁から反射して、わたしたちに目掛けて飛び込んでくる。

 天井から無数のスポットライトが眩しくてかなわない。明るく温かく包まれる光に、わたしは溶けて消えてしまいそうだった。終わった。長い、長いこの戦いが幕を閉じた。終わるだなんて、始まった時は信じていなかった。でも、今、確実に終わったのだ。観客席を見ると全ての人影が立ち上がっていた。歓声はお腹の底の底まで響いて、わたしの身体の中を駆け巡る。細胞の隙間から毛細血管までの全てにまで入り込んでくるみたいだ。熱くて、熱くて。気付いたら、大汗をかきながら、目からも涙が溢れていた。今、水分が身体からなくなったら困ってしまう。さっきまで全力で手足の隅々を動かして踊り、腹から声出して歌ってきたのだ。すでに全身の水が出されてしまったというのに。拍手喝采。拍手している音ってどう言葉で表現したらいいのだろう。パチパチという音でなく、ザザァーーーっという大波が前方から押し寄せてくるみたいだ。負けじと足元を踏ん張ってその波を全身で受け止めた。

 全員で手を繋いで、大きく振り上げてお辞儀をした。





 そして、静かに緞帳は降りた。



閉じないで…あと、少しだけ…

もう少しだけ、ここにいたい


 孤児院で暮らしていた小さな女の子たちは、確かにさっきまでここにいた。でも振り返ると、舞台裏の誰しもが魔法が解けたように、元のわたしたちに戻っていた。役者同士、そして裏にいたスタッフ、大道具さん、小道具さん、演出家のスタッフさんたち、みんなみんな泣きながら、抱きしめ合った。時に大げんかをして、時には家族のような強い絆を抱き、同志になり、厳しい日々を一緒に乗り越えた仲間たちとの健闘を称えた。



 もう1人のわたしとの別れは悲しさや寂しさでもない。出会えた喜びや、「誰」かになることの尊さを感じた。"わたし以外のわたし"との時間の1秒1分1時間が愛おしかった。イタコのように誰かをわたしの身体に宿して過ごし、人間の感情や心理を学び続けた毎日に感謝した。



舞台の上では、わたしはテッシーだった。
でも、今この瞬間跡形もなく泡のように消えてなくなった。





ザザァァァーーーーーーーーー!!!!!



ワァァァァーーーーーーーーー!!!!!



 太陽が一番高いところでギラギラと輝いている光を見た時に、あのスポットライトのようにあの日の思い出が蘇る。脳天をつんざくような音が遠く遠くで響いてくる。



 もう2度と戻ってこないあの日に…

いいなと思ったら応援しよう!

yuricamera / 寺島由里佳
ご覧いただきありがとうございます🐼 いただきましたサポートは動物園への撮影行脚中のおやつや、森永ラムネを購入させていただきます🐱 動物写真を愛でたい時はこちらへ🐻 https://www.instagram.com/yuricamera/?hl=ja