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【エッセイ】もしかして「思い込み」か

先日、なにげないポストをひとつしてふと考えた。

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『小学3年生の頃だったか。父の運転で片道700キロほどの家族旅行、夜のSAでカツカレーを食べた。以来、高速に乗るとレストランでカツカレーを頼む。 特別カレーが好きなわけでもないのに、なぜかものすごく幸せで美味しい記憶としてよみがえる。
40年経っても、まるで儀式みたいに。そうしなきゃいけないみたいにカツカレーを食べる。胃もたれしたりしながらも。 先日はじめて違うものを頼んだ。食べ終わってから気づいたのだけれど、そのときに本当に食べたいものを選んだのだろうなぁ、美味しく満足だった。
小学3年生の時の旅が楽しかったのかどうかは覚えていない。ただ、わたしの中で「過去の出来事」として収納された感じがする。 約50年生きている中で刷り込まれたような「そんなこと」がまだたくさんあるのだろうな。』

ポスト全文

「そんなこと」で思い当るのは、“夜の電車の音を聴くこと”。自宅にいると、静かな夜にはたまに耳に届く。車の運転をしていて踏切に引っかかると、目の前を過ぎていく電車を眺めながら幸せな気持ちにすらなる。

特別に電車が好きなわけではない。
ただ、夜の電車の音が好きなだけ。


思い出したのが、父とふたりである土地を訪れた夜の出来事だ。
多分これも小学校3年生か4年生の頃。「電車は音だけで何両編成か分かるんだよ」と教えてもらい、電車が通るたびに「今のは何両編成でしょうかクイズ」をして笑いあった。


大人になって、この日の出来事は記憶の奥底の方にしまい込まれていた。けれども「わたし、夜の電車の音を聴くと何とも言えないノスタルジックな気分になるんだよね」なんて子供たちにも言っていた。


カツカレーも電車の音も確かに幸せなワンシーン。そこだけ切り取れば。
でも、結婚し家を出るまでの20数年はどうだったろう?精神的には決して幸せとは言えなかった。お金には恵まれていたが機能不全家庭だった。なんでこんなに苦しい思いをして過ごさなければならないのか?いつもそう思っていた。
思い返せば父と遊んだ記憶はない。平和だった家族の姿もない。カツカレーを食べたレストランでの時間は「美味しいね」というわたしにニコニコする両親が、列車の音では父と笑いあった時間がきっとわたしが求めていた家庭であり、合計で2時間にも満たないその思い出に「わたしは幸せだった」とすがりたかったのではないだろうか。大切な宝物にしたかったのではないだろうか。


ここのところ「じゃあ本当のわたしはなんだろう?」とふとわき上がり、思い込みだろうものと向き合うようになった。ここにあげたのはたった2例に過ぎないが、あとどれだけ“刷り込まれたもの”や“すがりたかったもの”がわたしの中にあるのだろうか。そして今の自分は価値観も含めて置かれた過去からつくられているが、そこから抜け出したいと考えている。

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