スカートを履かない儀式
男でも女でもない私は何を着ればいいのか?という疑問から、私はここ1ヶ月ほど「スカートを履かない」と決めて過ごしている。「着ない服を決める」というのは、自問自答ファッションのメソッドのひとつだ。思ったことがいくつかあるので、書き出してみる。
まず、スカートを履かなくなって気づいたのは「何も困らない」ということだ。むしろ、ボトムがパンツ(下着ではなくズボンのほう。以下同様)に絞られているおかげで洋服を選びやすくなった。
次に気づいたのは、パンツであっても脚にフィットして肉感が出るものや脚が曲線的に見えるものは履かないということ。トレンドにも影響されてはいると思うけれど、ワイドパンツしか履かない。しかも、お気に入りのパンツ2本をずっと交互に履いている。意図せず制服化できてしまっている可能性がある。改めて確認したい。
1ヶ月間パンツを選びつづけることで、間接的にスカートについて考えることも多かった。スカートを履くと自分を表せないと感じるのはなぜなのか。
少なくとも今の日本では、スカートを履いている人=女性であるという認識をされると思う。心が女性でない人はスカートを履かないほうがいいという話ではなく(反対に心が女性ならスカートを履いたほうがいいという話でもなく)、私は自分がどう見られたいか・どうありたいのかを考えたうえで、今はスカートを選ばないことにしている。
私にはまだ「スカートは女性のものだよね」という先入観がある。先入観は簡単に取り払えるものではない。現状の自分を確かめたうえで、女性でも男性でもない自分を表すファッションを考えたとき、今の自分はスカートを選ばないほうがいいなと思った。大げさかもしれないが、自分の心と体をつなげるための儀式としてスカートを履かないのだ。
今後ずっとスカートを履かないつもりではない。ファッションとして、スカートは楽しい。布をひらひらなびかせて歩くのも、楽しい柄を大きな面積でまとうのもとてもいい気持ちだ。最近は、「ジェンダーレス」の流行りもあって、男性モデルがスカートを履くのを目にすることもある。女性がパンツを選んで履くのと同じくらい、男性がスカートを選んで履くことも浸透するといいと密かに思っている。それは、美しさの形が増えるということだと思うから。そうなれば、私も何のためらいもなくスカートを楽しめるだろう。
ここまで考えて、現時点ではパンツを履くことを消去法で選んでいるのかもしれないと気付いた。心から履きたいと思えるパンツに出会ったらまた気持ちが変わるかもしれない。もしかしたら、パンツではなく、どうしても履きたいスカートに出会うかもしれない。そのときは素直にその気持ちに従いたい。本来は性自認を表すも表さないも、自由だ。体も心も「私は私」と思えるなら何を着ても履いても、大丈夫。私は私が飽きるまで、スカートを履かない儀式を続けるつもりだ。
~余談~
ワンピースを買って1~2回しか着ずに古着回収に出すことが何度かあった。デートでは着られるけど、普段は着たくなかったんだ。デートでは女性の役割を演じなければならない、みたいな気持ちがあったから着ていたのかも。「デートでは着られる」という言葉にもモヤモヤ感が表れているね。そんなことを考えずに済む相手とデートするとき、私は何を着ていくんだろう。いつか、そんな人に出会えるかなあ……。
おわり
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