20230823 日記 60年代美術と潔癖
赤瀬川原平『東京ミキサー計画』を論文資料として見直さなければならないのだけれど、ゴミと虫がでてくるので、あまり気が向かずにいる。
親しい人だけが知っていればよいが、大学院に入学した頃から、私は潔癖という形で現れた強迫症状にさいなまれており、日々の生活がやや圧迫されている。
潔癖症にもかかわらず、60年代の前衛美術を研究しているなんて、頭がおかしいと自分でも思う。
はたして芸術というものを、現実とあちらを隔てる被膜か何かだと思っているのか。それともどこかでは、その被膜が破れることを願っているのかもしれない。
かの千円札裁判で、赤瀬川はその意思にかかわらず犯罪という形を通してリアルを侵犯した。負ったものはともかく、犯罪であることを認めることで芸術の効力を逆説的に示してしまった。
学部時代まで、私は強迫観念に囚われてはおらず、たしかにその頃から性格は悪かったにせよ、こう言ってよければ、「ノーマル」と言って差し支えない生活を送っていたのだが。
しかし、最近はゴミすらろくに触ることができないのに、中西夏之の、髪の毛やら誰が食べたのかすら分からない魚の骨やらが入ってる《コンパクト・オブジェ》は依然として好きだ。やや狂っているというか、フェティッシュの虜だという自覚はある。
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