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EPILOGE FILE:鳥谷部 勇樹

■鳥谷部 勇樹 (内野手) 31歳
野球歴22年 社会人野球11年
十和田北園クラブ‐三本木中 ‐ 三沢高 ‐ 東北IT会計仙台校

2024年シーズン、ひとりの男が社会人野球を引退した。男の名前は鳥谷部 勇樹。チーム待望の長距離砲として活躍し、選手名鑑・広報誌の作成を担当する広報部長としての一面も。今回はこの男のエピローグに迫ろうと思う。

鳥谷部 勇樹 #27

―—引退した今、率直になにを思いますか
「ポジティブとネガティブが入り混じった感情です。ネガティブというより若干のさみしさと言いますか。ただこれからは子供と接する時間がしっかり取れるから楽しみだなというポジティブ要素が強いです」

―—当時としては珍しい専門卒の選手でしたが
「入社するまで野球部という存在を知りませんでした。野球ができるならと入部を決意して。ただ当時20歳。今はあんなにイジれる関口さん(遠野)ですら”こわいなぁ”と思う先輩たちばかりでした。嫌なこと悪いことをされたわけではないんですが(笑)」
「練習初日にクイックスロー50本やってヘロヘロだったことを思い出します。先輩たちは大人に見えてこわいし、自分は体力的についていけるか分からないしで。本当にオレやっていけるのか?という不安でいっぱいでした」

―—そこからしばらくは下積み時代が続いたようですが
「そうですね。まずは道具係から。もちろん年齢関係なく全員でやるのがチーム方針でしたが。元々細かいところまで気になってしまう性格なのもあって率先してやりました。例えばチームの走塁手袋の管理。試合後は汚れているので全部持ち帰って洗って部室に戻しておくとか。誰かが気づいてやればいいことなので、ならばボクがやろうかなと」
男はそれだけに留まらず、OP戦や大会後の疲労しているなかでもグランドに戻りチーム道具の搬入を行った。ノック用・ティー用・打撃用のボール仕分け、共用バット磨きなども行った。それは周囲を巻き込んだ。男の意識が周囲の行動を変化させた。そのような働きが評価され納会での個人表彰が行われたこともあった。
「あれは自慢にはなりませんね」と謙遜するが「それでも道具係で個人表彰されたのなんてオレと菊池大智(大東)ぐらいじゃないですか」と誇らしげでもあった。

―—なぜそこまで裏方仕事を頑張れたのか
「まずは入社同期の大越さん(岩手大)から一年目に『やる気ないなら辞めろ!』と怒鳴られたことがあるんです。漠然と社会人野球は5年ぐらいやれればいいやという思いが練習態度にも表れて見透かされていたのかもしれません」と男はここで覚悟を決めないと5年どころか来年も続けられないと感じた。そしてこれを契機に”10年表彰まではやろう”と改心した。
「あとは日向端 悠太さん(光星学院)から”ウォーミングアップの細かい動作をサボっていると選手生命を短くするぞ”、その弟の将さん(光星学院)からは”ダメなときでもやれることをやらないと”と気にかけてもらえる言葉がありました。野球を通じた人生との向き合い方みたいなものを学ばせていただきました」

―—レギュラーを掴んだのは5年目あたりでしたか
「ようやくでした。とにかく練習していましたね。ロングティーが大好きで没頭していました。遠くに飛ばしたい欲望は元々ありましたが、どうやったら飛ぶんだろうと自分で探りながら打っていると無心にもなれました。考えて試行錯誤しているはずなのに練習している感覚がなくて」

―—それでも11年続けるのは大変だったのでは
「大変ではありませんでした。仕事と野球の両立をするのがこのチームの色でしたから。当時は”打倒・フルタイム企業”という言葉は掲げていませんでしたが、強豪企業の実態を知ったときにオレらはその逆をやらないといけないと思いました。同僚たちにも”仕事も野球も頑張っているよな”と思われないとダメ。そうしながら野球で強豪チームに喰らいつく姿があれば応援してくれる人が増えるのではとも考えていました」

20年アマ王 左中間スタンドに叩き込む
花巻球場に放物線を描く

―—応援してくれる人を増やしたくて広報部長に
「認知してもらって損はありませんから。そして自分の身近な社員の頑張りは勝ち負けに関わらず話題になるはずですから」
「あとは現役が現役のまま伝えるのはメッセージ性が強いとも感じていました。以前は納会のムービーなどは支援者作成でしたが、専門知識もそれなりあったのでオレがやろうかなと。音楽や映像のつなぎ方に”もっとこうしたら良いモノができるのに”というノイズを感じていたのもありましたし(笑)」

―—選手名鑑はこれからどうなりますか
「選手名鑑や広報誌は社内で話題になっていて、先日長野出張したときも”あの鳥谷部さんですか”と声掛けしてもらうことがありました。嬉しいですよね。意味があったんだなと。これからは八重畑(日大工学部)や下村(東北工大)らに引き継ぎます。情報発信の重要性とそれに伴ったマインドを持ち合わせているので彼らならやってくれますよ」

—そろそろ本題に。引退の理由を教えてください
「昨年10年表彰をいただきました。またさらに5年とは思えない自分がいましたが、とりあえずもう1年は頑張ろうと。ただそのタイミングでふたり目の子どもが生まれて、育休などで冬練習はほぼ行けませんでした。その時、”子どもひとり見るだけでもこんなにストレスが溜まるのに妻に任せて野球をやっていていいのか”という思いが強く芽生えてきました」それでも今年は”やる”と決めた以上、しっかりと過ごしてみてどんな気持ちになるかその時確かめようと男は考えていた。
「都市対抗で出場機会がなかったが”来年見返してやる”という気持ちが湧きませんでした。選手権に向けて頑張っていたが、育児・仕事でそもそも大会に不参加でした。引退を決めたのはアマチュア王座決定戦の2週間前。”JR盛岡野球部は出場するしないに関わらずどんな選手も戦力として必要”と自分も言ってきましたが、いよいよそこにあぐらをかくべきではないと考えました。そして選手として自分で練習する時間を作っていくべきなのに、その時間が取れなくなっている事実。ここで引退を決めました」

―—心残りはありませんか
「ゼロではない」と言ったまま長い沈黙――。
男は言葉を絞り出す。
「八戸の自宅から色んなところに遠征にいきました。”パパ行ってらっしゃい”と送り出してくれる息子。本当は寂しかったはずなんですよね。そこでOP戦でも公式戦でも出場できずに帰ってきて”今日は試合出なかったんだよ”と伝えると息子から”えぇ?パパ野球しに行ったんじゃないのぉ”という会話が増えてきて。これは辛かったです」震える声を整えて続ける「最後の方はアイシング用の氷を準備したよという会話が多かったので”パパは氷屋さんだねぇ”と言われてました」

―—社会人野球で得たものはありましたか
「繰り返しにはなりますが、一般社員として仕事をしながら自分の時間で野球をやる。それでいて会社の看板も背負っている。この重圧のなかですべてに全力を出し切る。そこに意味を見出しました。職場の同僚からは”普段一緒に働いているみんなだからこそ応援のしがいがある”と言われたこともあるのですが、こういった経験ができたこと。これが社会人野球に触れて良かったと思えます」

―—最後の試合はどのような心持ちでしたか
「あえて引退を監督には事前に告げていませんでした。自分にとって最後ではあってもチームにとっては大事な大会。勝ちにこだわるべきなのでアマチュア王座≒引退試合とするのは嫌でした。だから”出られたらいいなぁ”ぐらいの感覚で」

―—代打で出場機会が巡ってきました
「TMEJ・鷹羽投手でした。4年前のこの大会・この球場でホームランを打てた相手。良いイメージを持って打席に入りました。高めの真っ直ぐをファールしたとき”この球を捉え切れないかぁ”と感じました。鷹羽投手なら最後も直球で押し切ってくるだろうと考えましたが、キレキレのスライダーがぶっ飛んできました」
空振り三振。
最も好きな球場だという花巻球場で男は最終打席を静かに終えた。

最終打席へ

―—今後のチームに期待することは
「まだまだ未熟です。強く打つ、速く投げるだけではチームは成り立ちません。だから自分の損得で動いて欲しくないです。自分がいないところでどれだけ多くの人間が動いているのかを考えていくとレベルアップできるのではないでしょうか。強豪は当たり前にやっているはずです。その強豪らに喰らいつくためには細かいところから積み重ねて隙を埋めて、土俵に乗らないと勝負になりません。これから誰が率先して動くか、仲間でも厳しく接することができるかは楽しみです」とあえて厳しさをクチにするが、「後輩は先輩を越えるためにいると思っています。越えていけるのは後から来た人間だけが持つ権利です。今出ている選手からレギュラーを奪ってやるという気持ちで頑張っていって欲しい」と下積みから這い上がった男だからこそ今苦しむ選手たちに激励を送った。

―—さいごに伝えたいことは
「この11年はいろいろな人の支えがなければ続けてこれませんでした。家族、先輩、後輩、観戦に訪れアマチュア野球ファン。こういう人たちがどこかで見てくれているからこそ自分もちゃんとしないとと思えました。社内で硬式野球部を持たない支社の方々にも興味を持ってもらえたのも情報発信をしてきて良かったなと思います。ここまで関わってくれたすべての人に”ありがとう”を伝えたいと思います」

まだデキる。それでもその情熱とチームの在り方を次の世代に託して、男はグランドを去ることを決めた。選手・鳥谷部 勇樹、これにて引退。

■仲間からのメッセージ

はじめに11年間お疲れ様でした!
またJR盛岡の広報誌の作成など選手の活動に限らず多岐にわたりJR盛岡の発展に関わっていただきありがとうございました!
正直もう少し一緒に野球もお話しとできると思ってたので、すごく寂しいです。
ここからは自分の出番だと勝手に思っています!
鳥谷部さんの活躍に追いつき、追い越せるように頑張ります!
これからもよろしくお願いします。【後輩:下村 悠太】

まずは現役生活お疲れ様でした!
最初の鳥谷部の印象はショート??って言うのと、寡黙だなって言う印象でした。初めは試合に出たり出なかったり、どんな選手になっていくんだろうって思ってましたが、途中からは、中軸も打つ様になり、打の人になっていってくれました。トヨタ戦でのホームランや練習だけどJR東北のグランドでセンターにホームラン打った時はコイツやるなって思いました。
私的にはファーストと言えば元気のある選手をイメージしているので、元気って意味では少し物足りない所もありましたが、どっしりした、スカしたプレーと時々やる低目の送球を捕り損ねるのは、まさに鳥谷部って感じでした。うちの内野手の送球垂れるから捕りづらいんだよね‥
鳥谷部にはグランド外でもお世話になりました。洋野エモーションや野球部の広報誌、動画作成など、部のために沢山のものを作ってくれました。
特に納会で見る動画は完成度も高く、見応えもありみんなのモチベーションにつながっていたと思います。野球部の為にありがとうございます。
野球部の為に数々の物を作り、残してくれて感謝しかありません。
今後は家族の時間も大切にし、またどこかで一緒に野球が出来る、野球に携われる事を期待してます。【先輩:関口 和磨】

鳥谷部さんとは、荷物係をやったり、一緒に移動したり、野球の時もプライベートも沢山一緒にいさせてもらいました。沢山話をしたし、同じ飛ばし屋として沢山一緒に練習しましたね。
練習に行くたび、鳥谷部さんがいるとなぜか安心して練習できました。覚えているか分かりませんが、JR大会の最終回、同点の場面で、僕が一塁にいる時に、鳥谷部さんがセンターオーバーを打って、僕がホームに帰ってサヨナラ勝ちした時が、僕はずっと忘れられません。一緒に練習頑張ってよかったなって、感動したのを覚えてます。僕にとっては親分って感じの存在で、ずっと尊敬してました。これからも子分として、ついていきやすぜ親分!本当に長い間、お疲れ様でした。【OB:菊地 大智】

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