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2020年2月1日 人らしい怒り
2020年2月1日(土)
昼。
きっと13時もすぎているだろうと、おそるおそる時計をみると11時だった。人によっては遅い時間だけど、まだ11時であると安心する。布団でしばしすごしてから部屋を出た。
私の土日には朝がない。
だらだらとあるものを適当に食べ、うたた寝し、何かを先延ばしに、ねばってから、重い腰を上げる。
土曜日は洗濯の日だ。この日記をつけてから三度目の土曜日でないかと思うけれど、毎度どれだけいやでもこればかりはしなくてはならない。
シカゴという映画を久しぶりに見ながら、洗濯を干して行く。意識はほとんど映画にあるけれど、洗濯ひとつ干すにしても、この服は平干ししなければならないとか、この服はハンガーでも太いものでとか、干すスペースを考慮して仕分けるだとか意識せずとも頭が計算をしている。暮らしの慣れのようなものだった。
土日に読みたくて、昨日、半ば意地になり再度買った本は結局いまだに目を通していない。月曜の朝になってから、なぜ思うように土日の時間をすごせなかったのか、きっと後悔するんだろう。
恐らく昨日、今日と機嫌が良くないように思う。
何が腹立たしいのか、自分でもよくわからない。
猫の声や部屋の汚さも、シンクの食器も、壊れたドアチェーンも、その原因の姉も、あたたまりすぎるストーヴも、眠さも、爪も、髪も、なんだか気に食わない。でも原因はきっとこれではない、ただ何かが、乱している。
私はいつも真っ当な、人らしい怒りを持てていないように思う。
ニュースなどみて腹を立てるひとは、素直にすごいと感じる。私にはそうして世間を思う心がないから、怒りもわかない。
ただゆるい、なぜなのか、ということがあるだけ。
東京での暮らしがおわり、ここに戻らなければいけないというとき、私はもう頑張りたくないし、成長などもしたくない、もう望まない、駄目ならば駄目な人間としての、明るくなどなれない人でなしとしての、覚悟を持たねばならないと、岡本太郎がパリで決意した分岐点の、真逆のほうをとるようではないのかと思っていた。
未だにそこから何かが切り替えられずに、変わらずにあるような気がする。日記をつけていて思うのは、この貧乏でうつくしくもないこの暮らしの何もなさに、自分は大きな飢餓感を持っていないということだ。
何をしても重いようで重くもなく。昔より深いようで深くもなく。無気力か諦念か、わからない。どんどん凪いでゆくような気がする。何もかもが「ふり」の域を出ない。
悲しみも絶望も瞬間の後には消えてゆく。
両親の死は、とっておきの悲しみとして、黒い箱におさまっていて。それを時折撫でて、悲しみに浸り、それすらも自分の装飾品のようだった。
これを人といえるのだろうか。
止め処ない話になってしまった。
日のことは日のことにしたい。
それでは、また。