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エレファントカシマシ「新春ライブ2025」に行った
最高だった。最っ高だった。
1月4日、19時半過ぎ。エレファントカシマシの新春コンサートが終わった。
あまりに素晴らしいコンサートの高揚感で、馬鹿みたいに東京から北海道まで歩いて帰れると本気で思った。快哉を叫びたい。
エレファントカシマシだ、エレファントカシマシがいた!
* * *
3年ぶりの開催となったエレファントカシマシの新春コンサート。
幸いなことにファンクラブで2日間チケットを取ることができた。
座席について、3年前は久しぶりに1席飛ばしではないことに少し緊張をしたこと、360度入った圧巻の客席をすこし思い出した。
1月3日18時ちょうどに暗転し、エレファントカシマシがステージに現れる。待ちきれなかったという様な拍手と歓声が会場中に響いていた。
コンサートが開催が報された1ヶ月弱、散々自分勝手に聴きたい曲や、ストリングスが入った華やかな新春らしいエレファントカシマシもいいなとか、でも野音のような4人とキーボードのみのようなソリッドなエレファントカシマシもいいなとか思いを巡らせていたのに、1曲目「大地のシンフォニー」で、もうそれ以外はなかったと、今ぴったり来るものが何だったか教えられるようだった。
自分の過ごした町や日々が、確かに浮かぶ。あの町の光、風、どうしようもなく見る空、あの駅、怯えながらゆく階段。
ああそうだ、そうだ、エレファントカシマシは私の人生で鳴る音だ!という久しぶりの感覚がして、涙が出た。
「新しい季節へキミと」の、光へ向かっていけるとなんの迷いもなく拳を上げて、心から信じられる、あの強さと輝き。心の底を打つようにはじまる「悲しみの果て」。皮肉と愛を込めた「デーデ」。
馴染みの曲たちのようで、エレファントカシマシの気迫が違う。ビリビリとしていて、なんでかわからないけどバンドだと感じる。
「新しい季節へキミと」は30周年のころはもっとメジャーな、スケールの大きさのような姿があったけど、この日はベストアルバムでいう「 Mellow & Shout」に分類されるような曲たちが、大きく見せるでもない、でも小さいわけではない、その曲で歌うことを確かに信じられる説得力と、強固さのある姿をしていた。
「珍奇男」は35周年ではかなり色っぽいかたちに増していたものが、また男の姿に戻っていたし、「yes. I. do」は35周年では核といえるくらいの流れと存在感があったけれど、これもまた別の姿をしていたように感じた。ただセットリストの中では一番の最新曲として「今」の曲だった。
「ガストロンジャー」は逆にポップになっているようだった。1日目、ガストロンジャーでお客さんを鼓舞するように、そしてその沸き立つ群衆に鼓舞されるように宮本さんがめきめきと力を増していって、その自分の凄さ、かっこよさでうれしそうにしているように感じた。それがまた喜びだった。
ソロ5周年の「今、俺の行きたい場所」ツアーは、宮本さんのソロ5周年の、どころか58年の不断の歩みが証明されるようなツアーだった。
東京公演の時点から、何があったのかと思うほどに、ソロの宮本さんの歌はとてつもない域に達しているように感じた。豊かさとあたたかさ、空間の全てをどこまでも震わして描写する歌声。もはや、聴き手の傷や経験に依存せずに包み込むうたの力。そして務める明るさと夢、愛の中で、戦いがあり挑戦があった。本当に、本当に素晴らしいツアーだった。
その後のFNS歌謡祭の出演も含めれば、エレファントカシマシのコンサートまでわずか2週間ほどにも関わらず、宮本さんの歌声がエレファントカシマシの歌声をしていた。
自分がどの部分でそれを判断しているかうまくいえない。
ただ初めて「冬の花」を聴いたときに、同じ人間の作詞作曲で歌声がこんなに違うのかと驚いたけど、確かにソロとエレファントカシマシでは宮本さんの歌の成り立ちが、負っているものが全く違う。
硬質で、青くて孤高な、心の底を打ち、自分自身に迫る、「エレファントカシマシの宮本」の歌声。そこに合わせて、これまでと同じがなるような歌声でも、より響きや強さ、世への信頼が増した歌声。
コンサートの感想として、そこについて思うのが正しいかはわからないけれど、あの域にあったソロからエレファントカシマシを裏切らぬかたちで、確かに出来ていることが信じられない。
その両方をひとりの人間に内在できる畏ろしさ。
この世で生きるみんなに、それだけの様々な面があるとして、求めるものがあるとして、このレベルで確かに実現・体現してやり切るなんてこと、常人なら分裂してばらばらになってしまうんじゃないかと思った。それを、コンサートとして見ることが出来ている。あまりに凄すぎる。
今エレファントカシマシのコンサートをやってくれること自体が、すでに我々への愛のように感じた。
1日目は、1日目らしいエネルギーと気迫に満ちて、宮本さんだけではなく、石君とトミと成ちゃんをちゃんと感じられて、エレファントカシマシである矜持と、盤石といえる姿の素晴らしいコンサートだった。
* * *
迎えた2日目。
この日の凄みをどう言葉にしたらいいのかわからない。コンサートを見終えた私の感想は冒頭に戻る。
1日目と2日目と、どちらも素晴らしいコンサートだった。一方が良い悪いと言いたいのではないのを大前提に、まるで違うものを目撃した感覚だった。
1日目の矜持ある盤石といえる姿から、2日目は宮本さんを先頭にしたエレファントカシマシという4人1個体の生命体である姿が復活していた。
完全にやられてしまった。思いっきり叩きつけられ、惚れ直してしまう。
自分にとってエレカシの「いいコンサート」には色々なかたちがあると感じている。
歌や演奏のクオリティがよかったとか、聴き手である自分の状態や環境、鑑賞態度がよかったとか、受け止められたとか、お客さん全体とのあたたかい交歓があったとか、宮本さんが集中してやり切っているとか。
ベストアルバムでいう「Mellow & Shout」「Roll & Spirit」というような様々な面があるように、コンサートにも色々な姿があると感じてきた。
私がファンになった2017年以降のコンサートは少なくとも、常にその両方をバランスよく含んだ構成が多くて、いいと思うコンサートを言葉にすると、あたたかいコンサートはあたたかいコンサートであったし、歌や演奏が良かったり、宮本さんが突き抜けたときは突き抜けたコンサート、というそれぞれの印象だった。
(35周年なら自分にとっては3月19日の有明が振り切って突き抜けようとしたかっこいいコンサートだったし、4月2日の名古屋があたたかい愛あるコンサートだった)
1月4日。冒頭から集中しようと、突き抜け振り切り、やり切ろうとする宮本さんの姿と、それについていく3人の演奏があるように感じた。(もちろんサポートのみなさまも)
華やかさだけではなく、覚悟が感じられるような3曲を経て、エピックの曲が続いていく。
「珍奇男」だったかどこだったか、宮本さんがまるで形容するなら「おパチ、おパチ」というように拍手を揶揄する動作をした。あ、気に障っている。と思った。
ただここの「珍奇男」からの曲への集中と気迫に、本当に痺れた。崩壊寸前で絶対に崩壊しない、3人がそうさせない。
笑っているのか笑われているのか、嘆いているのか、怒っているのか。うねり、捻じ伏せるような。これまでと変わらないようでいて、客席とステージで断絶するかたちではなく、しっかりとこちらに投げかけられていて、届けようとされている。
狂気をやり切る底にある冷静さ、自分と他者への誠実と信頼、務め、戦い。
それを継いだまま「月と歩いた」へ。暗闇に浮かぶ宮本さんが、まるでお客さんそれぞれ、その1人にだけ歌いかけてくれるような空間。夜のにおい、アスファルトに靴底が擦るのがわかるような感覚。
新春コンサートで聴きたい曲、を思ったとき、自然と「これは新春っぽくないから聴けないだろうな」「野音だったら聴きたかったな」という勝手な想像があった。あのエレファントカシマシのものとも思えるような空の下で、木々と虫の音、反響、静寂、たまに吹く風が恋しかった。
でも「月と歩いた」のとき、目を閉じて聴いていると、その歌声、静寂、演奏、武道館の冷えた空気の流れが肌に触れて、「あ、野音だ」と思った。なんだ野音じゃなくても、これを聴けるんじゃないか。
新春だとか、武道館であるとか、野音であるとか、今ここにいるエレファントカシマシにはもう関係がない。
鋭く鋭く削って、研いで、息を呑むように突き詰められて、繋がっていく、完璧な流れでの「シャララ」。歌いだしてすぐ宮本さんが何度か手のひらを客席に向けて制止のポーズを取った。なんだ?と思ってすぐ、堪えきれない様子で演奏を止めて、お客さんの聴き方を指摘した。
これについては、その場にいなかった人に言葉尻をとられたくないし、怒ってこそエレカシ!みたいな姿勢もとりたくないのだけれど、ただ、そこまで突き詰められていた流れと真剣さがあって、その指摘が「筋が通っていない」とは私は感じなかった。(ごめん、と言ったその後も、場面場面でその付近に歌いかけて気遣っていた気がする)
そうして再度はじまった「シャララ」。一瞬で元の流れを取り戻すように、集中して、届けられてゆく。
シャララ シャララ
シャララ シャララ シャララ シャララ
美しいストリングスと共に響いてくるその歌、演奏。
エレファントカシマシだ。
エレファントカシマシがいる。
なぜそう感じたのかわからない。
でもとにかくそう感じて、自分でも驚いたけど、涙が出た。
1日目は「大地のシンフォニー」でエレファントカシマシは自分の人生で鳴る音だ、と泣いて。2日目、自分でもまさか「シャララ」で、エレファントカシマシがいる喜びで泣くと思わなかった。
そうした完璧な流れから、語りかけるように「今宵の月のように」がはじまって、町が動き出していく。煌煌とした月と、我々の輝き。
宮本さんは時折この曲で、輝いてるぜと声をかけてくれる。その他の場面ではよくいい顔してるぜ、と言う。
でもその度、この輝きもいい顔も、エレファントカシマシの、宮本さんの歌と演奏を受けているからだよ、と思う。
エレファントカシマシが、いい顔にしてくれているんだ。
宮本浩次に、いい顔にさせる力があるんだ。
メジャーな曲たちが、確かな力と説得力をもって、4人の男達の力で、私達が正しく抱えられる大きさで届けられていく。
「笑顔の未来へ」をこんなにまっすぐ受け止められたのは、いつぶりだろう。
35周年ツアー。私はどうしていいのかわからない気持ちと矛盾を抱えていて、メジャーな「Mellow & Shout」に分類される曲ほど、どんなに受け止めたいと思っても、受け止められなくなってしまったときがあった。
たくさんのお客さんが一様に楽しそうにするのを見ながら、私1人だけが受け止められていないように感じていた。
そんな中で、最もちゃんと受け止められなかったのが「笑顔の未来へ」だった。エレファントカシマシが素晴らしいということは揺らがないのに、受け止めたいと思っているのに、どれだけ祈っても願っても受け止められない。光を信じられない、どこにも行けると思えない。
このころ、私はまったく誠実な聴き手でいられていなかった。
時間を経て最終的に私の状況を、扉をぶち破ってくれたのはソロ5周年ツアー「今、俺の行きたい場所」での宮本さんだったけど、その経緯まで書くと終わらないので控えるとして、とにかくそんな状況を越えて、迎えた新春コンサート1日目。正直に言えば「笑顔の未来へ」は、勝手なトラウマのようなものが過って、すこし構えて聴いてしまっていた。
でも1月4日。この日、あまりに自然に、当たり前に「笑顔の未来へ」を受け止めることができた。
行こう、行こう。
連れて行ってくれ、笑顔の未来へ!
エレファントカシマシならできるから、宮本浩次ならできるから。
あとあと、コンサートに参加したソロからのファンの方が「すごかったです。本気でみんなを笑顔の未来に連れて行こうって思ってくれていて感動しました」と連絡をくれて、自分のことのようにうれしくなった。
「so many people」「友達がいるのさ」「俺たちの明日」と疑いようのない力で、エレファントカシマシが届けてくれる。
自分の座席から見るステージで、一瞬、照明が眩しすぎて強烈な光の中にエレファントカシマシしか見えなくなった。
ああ、私にとってのエレファントカシマシそのものだ、と思った。
私の向こうにある、命の、魂の輝き。
「yes. I. do」の誓いから、それが答えだというように「Destiny」「愛すべき今日」、「ファイティングマン」「男は行く」と続き、再びのはじまりと戦いを報せてくれる。
そして証明するように叩きつける「待つ男」。
野音のような緊迫感と不可侵さ、周年のような交歓とあたたかさ。その両方がある、素晴らしいコンサートだった。
常にその両方の面で揺れ動いているようだったエレファントカシマシが、そのどちらも途切れさせず、矛盾せず、存在していた。
「両輪」とは、これなんじゃないかと思った。
それはソロとエレファントカシマシが同じ様に並走して活動している、とは少し違っていて、宮本浩次の歌声があり、エレファントカシマシが生きていて、エレファントカシマシであるということ。
コンサートが終わって武道館の人並みを過ぎて、ホテルへ帰る道。
それはもう、無限の、無敵の最高な気分だった。
私がエレファントカシマシに出会ったのはその歴史の中で本当にわずかな時間に過ぎないけれど、
それでもエレファントカシマシに、またあらためて出会えたような気がした日だった。
* * *
エレファントカシマシの、宮本浩次のうたやことばが、自分の中で巡りつづけている。
27歳でエレファントカシマシに出会って、宮本浩次に気づきを得て、生まれた心は今も育っている。
気がつけば「あなたのやさしさをオレは何に例えよう」のころの宮本さんと同じ、35歳になった。
エレファントカシマシと宮本浩次のおかげで、生まれ育った心を、そうして時間をかけて、ソロ5周年ツアーですこし自由にできた私のことを、新春コンサートでまた確かに力をもらった私のことを、私は大切にしなければならない。
長く、色々なところを通って、元のところに戻ってきたような、ゼロになっただけのような気もしている。きっと人生ってその繰り返しなんだろう。
今また、ここがはじまりのときならば、何にも負けず、滲まず、澱まない、愛する力を求めたい。
ほんの少しだけ自由にできた気のする私を連れて、
こうして受け取るそのためなら、いくらだってこの日々を生きよう。
私はいくらだって、戦おう。
やっぱり、エレファントカシマシは、宮本浩次はこの世で一番かっこいい。
この世で一番大好きなうた。
この世で一番大好きなバンド。
唯一無二の、大好きな私のヒーロー。