Hi-STANDARDのボーカルの人
人間は、知覚神経を通じて脳へ与えられた刺激でしか世界を感じることができない。見える景色も聞こえる音も、全ては脳が作った錯覚であることは周知の事実だ。
先日、街で偶然Hi-STANDARDのボーカルの人に出会った。私はHi-STANDARDに詳しくないが、ハイスタと略す、ステイゴールドという曲がある、ボーカルのケンヨコヤマという人がピザオブデスというレーベルをやっている、くらいの知識はある。音楽のジャンルについてはナンバーガールと同じだという認識だ(ナンバーガールはボーカルが女性だが)。Hi-STANDARDのボーカルの人は渋谷のハチ公前広場で一人立ち尽くし、遠くの何かをじっと見つめていた。その真っ直ぐな眼差しと自信に溢れた立ち姿は広場の混雑の中でも一際存在感を放っていて、この人がケンヨコヤマだ、私は直感でそう思った。数々の名曲を生み出し、伝説のステージを作り上げた彼の目にはいま、何が映っているのだろうか。視線の先を追ってみたが、そこにあるのはどう見てもありふれたチェーン店、疲れた街路樹、単なる雑踏などが漫然と存在するいつもの渋谷駅前だった。そのとき私の頭の中になんとなく慧眼という言葉が浮かんだ。恐らく非凡な才能の持ち主には、私のような凡人には認識できない高い解像度の景色が見えているのだろう。舐めやがって、誰が凡人だ。私は人混みをかき分けてケンヨコヤマに近付き、彼が着ていた黒いTシャツの襟ぐりを掴むと、握りしめた拳を頬に見舞った。ケンヨコヤマは「ぐぇ」だか「があ」だか言いながら上体を捻り、1mほど向こうへ吹っ飛んでいった。その際、彼は体を浮かせながらまるで殴られた理由を求めるように両腕を伸ばして空を掴んでいて、その様は意味もなく私の脳裏に焼き付き、その後一生消えることはなかった。そしてその直後、コンクリートの地面と骨がぶつかる硬い音がして、ケンヨコヤマは白目を剥いて舌をだらんと出したまま動かなくなった。騙された、こいつはケンヨコヤマなんかではない、こんな無様な姿を晒す奴がケンヨコヤマであるはずがない。
「このフェイク野郎が!」
私は吐き捨てた。まさかこんな映画みたいなセリフが自分の口から出るとは。見回すと、往来の人達がこちらをチラチラと見ていた。皆の視線が私に向いている。まるで本当に映画の中に入ってしまったような気分だった。映画のように、様々な視点で脚色された私がそれぞれの脳内に錯覚として映し出されている。そう、この世界に正しさや理解などというものはあり得ない。あるのは脳が作った錯覚だけ。真実には誰も触れることができない。すなわち存在しないのと同じことなのだ。それを裏付けるように、偽物のケンヨコヤマのTシャツには「クレイジーケンバンド」と書いてあった。
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