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今田耕司

バラエティの平場における今田耕司の佇まいこそが全ての生命の完成形であり、到達点であることが結論された。かつて生の果ては「死」とされていたがこれは誤りで、全ての命は誕生したその瞬間から今田耕司へと向かい、そしてそこへ辿り着けなかった者が死するのであった。今田耕司は死の向こう側にいる。平野を駆る動物の肢体のしなやかさも、きらめく朝露を葉先から落とす樹々の揺らめきも、全ての所作は今田耕司と比した場合余分かもしくは不足に過ぎず、遍く自然美たちはひな壇トークにおける今田耕司の的確な合いの手の美しさには及ばかったのである。人々は日々、少しでも今田耕司へ近付こうとモンテローザ系列店で吉本芸人の集団ノリを模倣した。しかしそのような愚行では当然、死の向こう側の景色を垣間見ることなどは出来ず、俳優、モデル、素人などの有象無象を相手に常に場に応じた笑いを生み出す今田耕司が去った後の残り香を嗅ぐことすら許されないのである。私達は今田耕司になれない。許されるのは願うことのみ。しかし、願うことは時として大きな力となる。今田耕司が唯一出来ないこと、それは今田耕司になることを願うことである。我々にはそれが出来るのだ。ひとりひとりの願いが、今田耕司を凌駕する力を生むのである。今こそ生きとし生ける全ての者が結託し、死の向こう側へ飛び立つ時なのである!

電車で隣の席に座る老年男性が手元のスマホを凝視しており、画面には上記のテキストが日の丸をバックにゆっくりと流れるYouTubeの映像が映し出されていた。初めて見るタイプの愛国心だなと思った。

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