『すべての道はV系へ通ず。』を読むの記
最近、あることをきっかけにヴィジュアル系への興味が再燃してきたので、色々な記憶を取り戻したりある程度整理された歴史観に触れたいと思い『すべての道はV系へ通ず。』という本を読んだ。
著者は市川哲史と藤谷千明で、ふたりとも音楽ライターと言ってもいいと思う。対談形式となっているが、かなり「加筆修正」というか書き起こしに近いんじゃないかと思えるような文体だ。冒頭から(愉笑)とか「だははは」とか飛び出してきてゾゾッと鳥肌が立った。しかしこれもまた90年代音楽雑誌っぽさを演出していて懐かしい気持ちになる。
初出の大部分はメールマガジン《PLANETS》とあるが、宇野常寛のPLANETSだろうか。2015年から2018年にかけての連載らしいが、当時においてもPLANETSが続いているということを知らなかった。そして今もPLANETSという媒体は存在しているらしい。2010年前後くらいまではサブカル批評に興味があり、そういった本やブログを割と雑多に読んでいたが、宇野常寛にはアカデミックなバックボーンがないため否定的に評価されることが多かった。2010年代のサブカル批評はあまり追っていないが、ヴィジュアル系についての連載も載せるような懐の深い側面があるというのが少し意外だった(宇野本人が編集しているのかどうかは別として)。もしかしたら宇野常寛は批評そのものよりもこういったプラットフォームを長期間続けて語れる場を維持していることこそが、後年高く評価されるのかもしれない。
自分は80年代前半生まれで90年代に中学高校時代を過ごしたのだが、市川哲史と言えば『音楽と人』の人というイメージがある。当時からヴィジュアル系バンドを載せる雑誌と載せない雑誌というのは割とはっきり分かれていたような気がするのだが、『音楽と人』はヴィジュアル系も非ヴィジュアル系も同居している不思議な雰囲気の雑誌ではあった。インタビューも音楽以外の話まで突っ込んで聞いていたり、過剰な楽器の広告なども載っていなかったりと、『BANDやろうぜ』と『ロッキンf』の他は少年漫画雑誌くらいしかろくに読んだことのない田舎の高校生にはなんとも掴みどころのない雑誌だった。市川哲史という人が尖った方針でそういう雑誌を作っていたのだということは大人になってから知った。
藤谷千明という人のことは初めて知ったのだが、1981年生まれということで自分とは世代的に近い。なので発言に共感できる部分は結構あった。
読んでいると色々と興味深い固有名詞が登場するので面白いのだが、話題が多すぎて論点を整理するのが難しい。とりあえず一読して自分が感じたポイントを少しメモしてみたいと思う。
ヴィジュアル系はその起源においてヤンキーだった
この点は現代において忘却されがちではあるが、たしかに初期のヴィジュアル系(そもそもこの言葉もなかった)はヤンキーの文化だった。『BANDやろうぜ』の広告には特攻服とか載っていたし、田舎の中学校でXを聴いているのは悪い先輩ばかりだった。
本書の主張によれば、ヤンキー文化に由来する「足し算の論理」によってニューウェーブ、ゴシック、パンク、メタルなどのありとあらゆる要素が足し合わされて、ヴィジュアル系独特の過剰な装飾や分類不可能な音楽性が生まれたということになる。
現代ではヴィジュアル系はどちらかというとオタクの文化だ。まだヤンキーっぽさも残ってはいるが、衣装も髪型もアニメキャラのようになっており、昔のように逆立ちしていたりライオンのように爆発した頭髪を見ることは少ない気がする。
この「足し算の論理」はヤンキー特有のものというわけでもない気がする。オタクも「足し算の論理」は大好きで、むしろ「引き算」が無い。過剰さを好む2つの文化の共通点が、ヴィジュアル系がヤンキー文化からオタク文化へ移り変わることを可能にしたのかもしれない。本書の中では第三者のプロデュースにより「引き算」を学んだバンドの例としてL'Arc〜en〜CielとGLAYが語られるが、どちらも界隈の中ではヴィジュアル系度が相対的に低い。また、人気の観点から言ってもヴィジュアル系ファン以外の層にもリーチしており「ヴィジュアル系」とくくられるバンドの中では史上最もヒットしたバンドだろう。人脈的にヴィジュアル系と認識されることが多いものの、ヴィジュアル系に興味のない一般人から「ヴィジュアル系待遇(差別を含む)」を受けることはあまりないという印象だ。
ヴィジュアル系と地方
本書ではヴィジュアル系と地方の関係について語られている。言われてみれば、大物ヴィジュアル系バンドメンバーの出身地は東京以外であることが多い。千葉、神奈川(町田)、群馬、滋賀、岐阜など。
下手に東京23区内で生まれ育つと、自分の趣味や価値観が簡単に相対化されてしまう。それゆえ「勘違い」したまま自分の美学を貫く事ができずヴィジュアル系独特の「足し算の論理」や過剰さを維持することができなくなるのだろう。
ニューウェーブやパンクやメタルを区別せず取り込んでごった煮にして自分のスタイルにしてしまうという初期ヴィジュアル系の有り様は、それぞれの音楽ジャンル内の住民からしたら掟破りに映ったであろうことは創造に難くない。例えば以前西川貴教がBUCK-TICKの櫻井敦司と今井寿をゲストに迎えてニコニコ生放送で語ったところによれば、BUCK-TICKのように髪を逆立てたスタイルでBO∅WYフォロワーみたいな音楽をやっているバンドはいなかったらしい。BUCK-TICKが東京に出てきた当時はメタルのイベントにブッキングされることもあったようだ。
リスナーのメンタリティのあり方としても、地方のリスナーは供給過多な情報にさらされていない分目の前に差し出されたものを素直に摂取できる。過剰な装飾と分類不可能な音楽性をもったヴィジュアル系は、都会っ子のような「相対化フィルター」を持たない地方リスナーと相性が良かったと考えられる。
フェスに呼ばれないヴィジュアル系
先日とあるバーで日本のロックが好きだという店員と話したとき、その店員がやたらと最近のバンドに詳しいので「どうやってバンド見つけてるんですか?」と聞いた。彼は「フェスとかで」と答えた。自分は田舎に住んでいることもありあまりライブやフェスに出向かずもっぱら家で音楽を聴くほうなので、そういう視点がなく非常に感心したおぼえがある。
この本の中でも現代の音楽シーンにおいてフェスが担っている役割について言及してある。出版不況、CD不況の中で音楽雑誌も当然消滅していき、昔のように雑誌やCDショップで新しいバンドを知る機会がないリスナーたちがどうやって新しいバンドと出会っているのかと言うと、フェスが「媒体」になっているとのことだ。
ヴィジュアル系がフェスから差別される理由として本書でいくつか推測されているが、それを自分の言葉で咀嚼すると次のような感じになるのではないかと思った。
みんな心の中では色物としてしか見ていない。一瞬時代の潮流に乗って売れたのも気に食わない
元々がヤンキーだし要求ばかりが多くて面倒そうだと思われている
ヴィジュアル系のほうが音楽的に優れていたりするとまずいので呼ばない
それ以外に自分が推測する理由としては、ヴィジュアル系は界隈の外からはそもそも音楽と思われていない、というものだ。ヴィジュアル系は2.5次元舞台や演劇や地下アイドルに似た何かだと思われていて、音楽というカテゴリーではない。だからロックフェスに呼ぶようなものではない。そんな風に思われているのではないだろうか。
90年代にヴィジュアル系がテレビに出まくっていた時代と比べると、ヴィジュアル系はかなり地下に潜ってしまったという印象がある。LUNA SEA や X JAPAN などの大御所が復活したのでそういったバンドはまだマスメディアに露出する機会もあるだろうが、たとえば90年代当時でいうROUAGEやLaputaクラスのバンドは今はそういう機会が皆無に近く、固定ファンを大事にしつつ少しずつ新しいファンを獲得する「スモールビジネス」になっているのではないだろうか。もちろんスモールビジネスが悪いわけではなく、利益率が高く持続的に活動ができるならそっちのほうがいい。とはいえスモールビジネスでは新たなLUNA SEA、新たなX JAPANは生まれないだろうとも思う。90年代が例外だっただけで比べるなという話かもしれない。
2020年代に90年代リバイバルの兆しがあるという話を何度か聞いたことがあるが、それに乗って90年代ヴィジュアル系が少し流行ったとしても、2010年代のシティポップ同様に消費されるだけになるのか、それとも一つのロックのあり方として認識されるまでに至るのか。書いていて思ったが、気づく人は必然的にその良さに気づくのがヴィジュアル系というジャンルであり、しゃぶればしゃぶるほど色々な味わいが出てくるものなので、世の中から完全に消滅することさえなければどっちでも良いなと思った。2020年代にヴィジュアル系が見直されることがあるなら、音源や映像や雑誌のアーカイブが整備されることを願う。
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