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キルギスの星空で「擬似宇宙遊泳」した話




2023年の8月のペルセウス座流星群の日、キルギスで満天の星を見た。



人生の中でも、文章にして残しておきたい出来事なんてそう多くはない。でもこの経験は、僕にとって間違いなくその一つだった。



数年前の自分にとっては人生観を変えるような出来事も、今では、昨日の晩ご飯の献立くらいの情報量しか記憶に残っていない。



当時は高解像度で頭に記録されていた思い出も、月日が経つにつれ、少しずつ脳の中でぼやかされていく。




だからこそ、思い出は何かしらの手段で形に残すことが大事だ。



『千と千尋の神隠し』の銭婆の言葉「大事なことは思い出せないだけで、決して忘れることはない」っていうのは本当にそうだと思う。


数年前の記憶でも、当時の写真や動画、文章を見返すだけで、圧縮されていた記憶がみるみるうちに解凍されていくのがわかる。


だからこのnoteは、未来の自分が、キルギスで見た星空の感動をいつでも思い出せるように書く。



もちろん、これを読んでくれた方が僕の感動を追体験できるようにすることは、言うまでもない。







ソンコル湖へ


星を見るために向かうのは、標高3000mにあるソンコル湖という湖だ。



ここには夏の間だけ、半遊牧民の人たちが放牧をしにやってくる。


その人たちにホームステイをさせてもらいながら夜に星空を眺めるのが、今回の目的だ。





ソンコル湖へ向かうための宿を出たのは朝の7時半だった。


まず、ソンコル湖への山道のふもとの村までヒッチハイクをする。




キルギスでヒッチハイクをすると、交通量の割にびっくりするほどみんなが乗せてくれる。


目的地の村まで行くまでに2台の車に乗せてもらったが、どちらも10分以内には止まってくれた。※1




1時間ほどでソンコル湖トレッキングのはじまりの村に着く。





ソンコル湖へのトレッキングルートは二つあるが、こちらのルートは全く観光地化されていない(もう一つもほとんどされていない)。


だから、なんでもない朝の村をしばらく歩く。




そこから約7時間くらい、ひたすら標高を上げていき、峠を越えると目の前にソンコル湖が広がっていた。





湖畔にいくつかユルタ(遊牧民式テント)が見えたので、そこに宿泊交渉をしに行く。この時点で午後の4時半くらい。


宿泊するユルタに荷物を置き、仮眠をとったり散歩したり夜ご飯を食べたりしていると、夜になっていた。





満天の星


いよいよ星を見に行こう。


北半球の8月なのに、気温は氷点下に迫るくらい。標高3000mだからそりゃそうか。


上半身は5枚、下半身は3枚重ね着。防寒フル装備で外に出た。







満天の星だ。


思わず出たため息は、白くなって空に吸い込まれていく。




この星空の美しさをどのように言葉で説明しよう。






まず目に入るのは、天球のど真ん中を横切る天の川だ。




これまで僕が見た天の川の多くは、もやのように見えるのがせいぜい限界だった。





でもソンコル湖の天の川は違った。湖の水面に天の川の光が反射して映っている。



そして、圧倒的な星の数。


数え切ろうとしたら、それだけで人生が終わりそうだ。



かつて、オーストラリア・アボリジニの人々の間では、天文に関わる神話や暦が発達していた。


彼らは星空を見上げて、とりわけ明るい星単体よりも、比較的明るい星をグループ化したものに注目していたらしい。




この空を見れば、そのことにも頷ける。

どれが一等星か分からないほど、四方八方から星が自分の輝きを主張してくる。




また、アボリジニが空に描いた星座は、僕らが思い描くような、星と星を線でつなぎ合わせたものではなく、天の川の黒いもやから見出されたものだった。※2



その理由にも頷ける。

星と星を繋げて星座を作っていたら、きりがなさすぎる。どれが夏の大三角でどれが白鳥座かなんて、ほぼ判別がつかない。




そして流れ星の量。




日本にいるときは夜空に一つ見えたら大はしゃぎの流れ星が、ここでは無限に降り続けている。



小さな流れ星は常に視界のどこかで流れているんじゃないかと思うくらい。




十数分に一回見れる特大流れ星は、全天の4分の1くらいの距離を堂々と横切っていく。



間違いなく人生で一番の星空だ。






キルギスで主流の宗教はイスラームだ。


だけど昔は、「テングリズム」という遊牧民の土着信仰が主流だった※3



テングリズムの崇拝対象は、山や大地、そして空だ。



想像してみてほしい。




あなたは遊牧民だ。



そしてモンゴルらへんの草原を馬に乗って旅している。


あなたの視界には何が移るだろうか?




たぶん、視界の半分は地面、もう半分は空だろう。



地平線には高い山が見えるかもしれない。それ以外に目立つものは何もない。


そんな場所であなたは、昼は暑さに、夜は寒さに苦しめられる。


水・食料が手に入るかは天候に大きく左右される。



手元にコンパスがない場合、進路は太陽や月・星々、遠くにそびえる山の位置に頼りきりだ。


大自然に対する自分の無力さ・ちっぽけさを感じ続ける中で、人間が畏怖の念を自然に抱くのは当然なのかもしれない。※4




僕もソンコル湖にいるときに一度、雷雲に遭遇して、岩陰でうずくまったことがある。



ただ、その一方で自然は、びっくりするほど美しくもある。


ソンコル湖の満天の星空を見ていると、特定の信仰をもたない僕であっても、超越的な力の存在を感じるような気がする。


仮に神のような存在がいないとすれば、この星空はさすがにきれいすぎるんじゃないかと思う。


星空のいいところは、数百・数千年前を生きた人と同じ体験をできるところだ。



きっと数百年前にソンコル湖にいた遊牧民の男の子も、僕と同じ星空を見て、「神ってすっげー!」って思っていたのかな。





気づけば30分くらい星空を眺めていた。



ふと我に帰り、ユルタにカメラと三脚を取りに行く。



時間はすでに23時頃。僕以外の周りの人は寝ているようだ。


ついに、半径数kmで光を発しているものは僕のiPhoneのライトとカメラのスクリーン、星明かりだけになった。



湖と星空を撮るために、三脚を湖畔のギリギリに構える。星にピントを合わせて、画角と設定を調整する。




カメラで写真を撮りながら、長秒露光の待ち時間で星を見上げる。さっきよりも天の川が水平線と垂直になってきた。



ただ、十数分写真を撮っていると、カメラのスクリーンを覗くたびに、目の暗順応がリセットされることをもったいなく感じてきた。



「いっそのこと、カメラで写真を撮るのをやめて限界まで暗順応させて星を見てみよう」そう思って、湖畔の砂利の地面に仰向けに寝転んでみる。



地面に両手両足をつけて天の川を眺めてみたら、まるで自分が壁に90度にへばりついているような感覚になる。


天の川銀河を見ながら宇宙空間を漂っていたら、地球に背中からぶつかったみたいな。


そして、なんというか、地球にいることが窮屈に思えてくる。


https://science.nasa.gov/resource/voyager-1s-pale-blue-dot/



30年前にボイジャー1号が撮影したこの写真。右上部分にある白い点が地球だ。



この写真は、宇宙はあまりにも広くて、地球はあまりにも小さいことを、わかりやすく伝えてくれる。



ソンコル湖で星を見ていると、自分が宇宙にいること、そして対照的に、自分が地球にいることに気づかされる。




こんな感じで自分を極めて俯瞰的に見るようになる心理現象は、宇宙から地球を見た宇宙飛行士がよく話すものだ。




地球にいながら、宇宙に行ったような体験ができるなんで思わなかった。




気づけば1時間くらい寝転がって星を見ていた。現在0時時40分。



あたりで聞こえる音は、湖畔の砂利に水が当たるチャポチャポという小さな音だけ。



背中には地面のひんやりとした温度を感じる。



真上に見える天の川の角度がまた変わったかな。


次はどこで星を見ようか。


ナミブ砂漠かな、アンデスの村かな。いややっぱり南太平洋の島から見たいな。


そろそろ寝よう。でもこの星空にもう会えなくなるのは悲しいな。


だから、なんとなく目が合った気がしたカシオペア座η星をお気に入りの星にして、「また帰ってくるね」と挨拶して、ユルタに戻った。



ユルタのベッドで毛布にくるまりながら、LINEの一人グループに、星を見て感じたことをメモする。




このnoteは、そのときのメモをもとにして書いたものだ。




ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。

僕の星空への感動が、少しでも伝わっていれば嬉しいです。





脚注(興味ある方は読んでみてください)

※1 公共交通機関が少ないキルギスの農村地域では、ヒッチハイクが日常の移動方法として浸透しているみたいだ。代金は払ったり払わなかったりまちまちみたいだが、払う場合でも、公共交通機関よりも安いことが多い。僕のときは、一台目の人はタダで乗せてくれて、二台目の人には300円を支払った。

※2 天の川のもやは、「暗黒星雲れというガス状の塵。もやの中に星座を見出す文化は、オーストラリアのアボリジニだけじゃなく、太平洋の島々やアンデス、サブサハラアフリカなど、南半球を中心に案外いろんな場所で見られる。

※3 テングリズムは今のキルギスでも一部で信仰されている。ただそれは、かつてのような素朴なものではなく、遊牧民アイデンティティ復興と密接に関わった、新興宗教としてのものである。何人かのキルギス人(イスラーム)にテングリズムについて尋ねてみたら、みんな名前と基本的な教義は知っているようだった。

※4 テングリズムは中央アジア地域の土着信仰だが、今の世界で主流となっているキリスト教やイスラーム、ユダヤ教も、中東の方の遊牧民の宗教が起源だったという説がある。圧倒的な自然とちっぽけな自分自身との対比は、大自然の背後に唯一絶対神の存在を見出させる。その絶対神こそが、現代でもキリスト教やイスラーム、ユダヤ教などで信仰されている神につながっている可能性がある。

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