【人事顧問の黒歴史】梅雨になると思い出す、車の事故で学んだこと。
私はジーエークロッシングの人事顧問穴井です。
仕事に関連することなどを、時々発信しています。
私は昭和31年生まれの68歳。
不適切にもほどがある世代なので、皆さんの参考になるかどうか?
今回は、私の黒歴史を通じて考えたことを書きました。
ツッコミ入れながら読んでいただければ幸いです。
若い時に車を2台潰した件
私は過去に2回事故にあって、車を大破させています。
1台は半壊だが、もう1台はそのままスクラップにしました。
1台目は、新車で買って2週間後に追突されました。
信号で止まっていたので私に過失はありません。
幸いからだは無傷でした。事故直前に追突されると分かったので身構えたから。
しかし、車は前の車との間に挟まれて前後が大きくつぶれていました。
走ることはできましたが、車軸が歪んでいました。
ところが、追突してきた車は無保険車でした。運転手は18歳の若者でした。
私は無過失だったので、私側の保険会社は対応してくれません。
車両保険もかけていませんでした。
示談交渉は自分でしなくてはなりませんでした。
ある日、一人の男が訪ねてきました。運転手の父親に頼まれて示談に来たと言う。
最初、やばい人かと思いましたが、よく見ると手が震えていました。
聞くと車の修理工だそうです。
事故車を引き渡してくれたら、新車と交換するという話でした。
半壊した車を修理して、それを売って新車購入費用を工面するそうです。
事故車を掴まされる人のことを考えると、簡単に承諾できません。
その男と父親に会いに自宅まで行きました。
行きたくありませんでしたが、行かないと話が決着しないので。
父親は病気らしく、狭いアパートに子どもが何人も居ました。
その中に事故を起こした18歳の若者も居てうつむいていました。
その家が経済的に逼迫しているのは明らかでした。
私はそれを自分への言い訳にして、彼らの条件を承諾しました。
私も車がないと仕事ができない事情があったし。
数週間後新しい車が届きました。一件落着です。
それから2年程経った6月の梅雨空の下でした。
私はその車を運転していてスリップし、道路わきの鉄柱に激突しました。
車は全損で今度は100%私の責任でした。
私は折れた肋骨が内臓に刺さり、一時危篤状態になりました。
意識が遠のいていく中で思いました。因果応報?罰が当たったのか。
完全回復まで入院が約1年続きました。
しかし、その1年が私を変えました。
今だから言えることかもしれないが
人生って何が起こるか分からないとよく言われます。
実際そうです。だから、なるべく想定外のことに出会いたくない、と思うのが人情ですが、良いことばかりが続くこともありません。
でも、一見悪い出来事が自分自身を大きく変えるきっかけになることもあります。
大切なのは、悪いことの裏側に隠れているチャンスを見逃さないことです。
何か自分の想定外のことや、思い通りにならないことが起こった時こそ、頭をフル回転させてポジティブな面を見つけ出すことです。
「人間万事塞翁が馬」と言うが、私は1年間の入院生活を経て、その言葉が真理であると悟りました。
以来、私は将来を不安に思うことがほぼなくなりました。
だからと言って、わざわざ不幸になるようなことをする必要はありません。
こんな代償を払わなければ到達できないようなことでもありません。
日常の中で、嫌なことや困ったことが起こったら、気持ちを反転させて、出来事をポジティブに評価してみることです。
それだけのことです。
ただ、そのためには毎日短時間でいいので、ゆっくりと考える時間と、少々の訓練が必要かもしれません。
それについては‥、次の機会にお話しできればと思っています。