見出し画像

バターのにおいとアイロニー

今日はバイトを休んだ。たとえば芽衣子さんが「わたし、会社やめようかな」と言ったら静かにうなづいて抱きしめたいと思う。りんごのパウンドケーキを作って、それを包んでまるでお守りのようにし、普通電車で3駅となりの近所の海までやってきた。電車に揺られながらふと、高校時代、同じ教室にいた男の子のことを思い出した。英語で書かれたバイブルをいつも抱え込んでいた、とてもやさしいひと。保温の容器には、あたたかいコーンスープを入れてきた。必要なものはこれだけだった。りんごのパウンドケーキは甘酸っぱくてとてもおいしい、簡単にできるお菓子だ。バターの香りがほほほんと漂って、絶対にしあわせのにおいだと思った。




午後2時、小鳥を追いかけて自転車をとばしていた。どんなどぶ川でも陽が差せばきれいだ。やわらかい秋の風が水面をなでている。すすきの中でお昼寝がしたい。道に突っ立っている工事のおじさんと、さりげなく目を合わせて軽く会釈をした。椿の濃いピンク色はちょっとくどいが、すごく綺麗だ。まがり角の家の、みかんか伊予柑かはっさくか、よくわからない柑橘類はこれでもかってほどにオレンジ色で、そのへんのすべては午後の陽射しと交わって輝かされている。自転車をかっ飛ばしたときに見える瞬間的なもの、過ぎる一瞬ずつがとても好きだ。衝動的に応募したアルバイト先は、豆腐料理屋さんと、文具屋と、本屋さん。これから面接

無事に面接を終え、無事に、新しい環境をてにいれられる、こんなふうに日々放浪している。指名手配されるほどではないが、おそらくわたしは逃亡犯で、生きながら逃げつづけている。失えないものは何ひとつないけど、失いたくないものはある。恋人のユーモアや、自分とそれ以外の全てに対するラブリーなきもち、みそ汁にいれるとろろ、柔軟剤のにおい、などなど…


帰り道、百均に寄った。床に這いつくばっている老婆がいたので「大丈夫ですか」と声をかけたらクイ気味に「大丈夫!」と言われたのでどうしようもなかったが、彼女はそのまま数分間匍匐前進したのち、いきなり走り去っていった。異様すぎてもういっそキュートである。
もういっそ幸せである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?