【努力考察】"追い込む"ことで抑圧されていないかい?

こんにちは.久しぶりのUtakuです.

人間,ちょっとしたマインドセットが変わるだけで,気持ちが明るくなるものです.




萎え萎えの日々

私は勉強とトレーニングを両立することで,完璧な人間めいたものを目指しており,努力が非常に好きです.


ただ,"自分を追い込もう"とするあまり,休みの日も勉強or仕事をしていない自分にプレッシャーを感じてしまったり,旅行中もいまいち集中できなかったりします.

特に,去年あたりから海外出張があったり,身分が増えたり,ずっとこう..”暗闇"な気分が続いていました.

流行り病に感染したものの,保険金を延々と申請しなかったり.この季節になったのに暖房器具をずっとしまわなかったり..


人間の頭をコンピュータとするならば,今まさに考えなければいけない,同時進行の検討事項は一次記憶いわば脳内RAMに貯まっていくのでしょうから,仕事と勉強でRAMがいっぱいで,他のことが何も考えられない状態でした(´;ω;`)


どれも自分で選択したはずなのですが,「なぜ自分だけこんなに忙しいのか..」,「なぜ頑張らなければいけないのか..」,抑圧的気分で休日が苦痛で速く月曜日になって仕事をしたいと考えてしまってました.


努力して自分の限界に挑むことは,努力していること自体に価値を感じて自分の自己肯定感につながっているはずなのに,なぜそれで憂鬱になってしまうのか.


その答えは,"追い込む"その先に待ち受ける先をどこに据えるか,に関わっていました.


マインドRe: セット

原因は,追い込んだその先が袋小路のようにイメージしていたことでした.

追い込む,ということばで連想されるのは,例えば追い込み漁.

先に網を仕掛けておいて,魚にプレッシャーをかける.

プレッシャーがかかった魚は,魚の進行方向的に出られない,いけすの中に詰め込まれて捕まってしまうというあれです.

まさに袋小路.


では,努力で自分を追い込むとき,その先のどこかに詰められてしまうのでしょうか?

型にはまるための努力でしたら,型に身を投じて,型が体にプレスで転写されるの如く,圧力がかかっていくでしょう.これはまさに抑圧です.


ただ,本当にそうでしょうか.
努力したその先は,何かの型にはまって終わりなのでしょうか.


いいえ違います.努力したその先は,ただ理想の形に限りなく近づくだけであり,永遠の探求の旅路です.

追い込んだその先は袋小路ではなく,自由なのです.


筋トレをしたからと言って,絶対ボディビルダーやフィジーカーを目指さなければならないわけではないです.

勉強にしても,アインシュタイン並みの天才にならなければ,そこまでの努力が無駄になるわけではありません.


筋トレと勉強をして,何の方にもはまらない,自分なりの何かしらの答えれに限りなく近づくのです.無限の可能性があります.



追い込む,という考え方だと,自分に厳しい第3者視点の自分に圧迫されてしますので,むしろセルフリーダーシップ.自分で自分を率いて,限りない自由の旅を行っているのです.

限られた人生,自分の好きなように生きるべきです.
(どんな下手なサイドレイズだって,本人が楽しければそれでいいのです笑)



 まとめ


○○すべき,とか○○でなければならない.それは自分で決めた目標にすぎません.


義務ではなく,
ただ,○○をしたいというだけの話だと思った,マインドRe: セットの話





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