[短編小説]うぶごえ
202X年1月28日午前0時53分。僕らの人工衛星が打ち上がった。テレビの向こう側で、けたたましい音を立てながら、ロケットが飛んでいく。それは、あっという間に漆黒の空の中へと吸い込まれていった。現地の先輩たちは、どんな思いで、あの光の玉を見上げていたのだろう。テレビの中で、ロケットの軌道の解説が始まる。衛星放出まで、残り95分47秒。衛星放出からファーストパスまでは、およそ52分。
研究室に入ったテレビ局の取材レポータに、OBの先輩方がインタビューを受けている。誰もが、同じことを考えていたと思う。僕たちは意外と冷静だった。歓声が沸き上がることも、泣き出す仲間もいなかった。ただ、淡々とロケットが打ちあがったと言う事実を噛みしめる。
静かだからといって、何も感じていないわけではなかった。ロケットが打ちあがってしまった今、僕たちにできることは何もない。それこそ、寝ていようが、酒を飲もうが、それを止める者など誰もいないだろう。しかし、誰一人として、自分の席から立ち上がろうとする者はいなかった。僕たちは、自分の席で、無事に衛星放出がなされることだけを祈っていた。
すでに衛星フェアリングは分離されている。間もなく第一段エンジンの燃焼が停止する。
エンジン停止、分離。第二エンジンの推力が立ち上がった。
僕たちは、静かだった。誰一人言葉を発することなくテレビを食入るように見つめていた。テレビの中で、ロケットの状況を解説する声とインタビューを受けるOBの先輩の声だけが研究室に響く。テレビの取材班は、きっと、今、僕たちが抱いている感情を正確に報道することはできまい。
第二エンジンの燃焼停止まで8分25秒。テレビの脇に表示されたタイマーを僕たちは眺めていた。映像はすでにシミュレーションの映像に切り替わっている。
かつて、こんなに研ぎ澄まされた空気の中で、研究をしたことがあっただろうか。少し周りを見渡せば、全員が真剣なまなざしで、同じ方向を向いている。時間が、刻一刻と過ぎる。時間が静かに過ぎることだけを祈って、全員の1秒が過ぎていく。
8分25秒など、あっという間に過ぎた。残り、4分ジャストで衛星フェアリングのシリンダ部分が分離する。
衛星フェアリング分離。主衛星の分離まで3分46秒。
主衛星が分離。僕たちの衛星分離までは26分48秒。
傍から見れば、ただ待っているだけの、つまらない時間だっただろう。取材班など暇だったに違いない。しかし、僕たちは不思議とその時間を苦痛に思うことはなかった。この過ぎゆく1秒1秒に、僕たちが積み上げてきた時間、全てが詰まっている。
ロケットからの分離信号が送出された。
僕たちの作った、ちっぽけな機械は、人工衛星として高度400kmあまりの軌道に放出された。研究室は尚も、静かだった。全員が、言葉を忘れたかのように、誰一人として声を発しない。
僕は、先輩と共に無線機の前に移動した。ファーストパスまで50分を切った。しかし、おそらく、このパスは取れない。最大仰角が3.8度しかないからだ。上手くいけばCWが少しだけ拾えるかもしれない。今、衛星は南米の上空にある。
衛星はおよそ90分で、地球を一周する。地球は自転するし、自転の方向と衛星の移動する方向はズレているので、90分に1回パスが来るというわけではない。3時21分の後のパスは11時4分の最大仰角5.8度のパス。そのあとは12時37分に最大仰角61.2度のパス。衛星を追尾するためのTLE(Two Line Element:米国北アメリカ航空宇宙防衛司令部が監視し公開している人工衛星を含む宇宙物体の軌道情報のことを指す。)は公表されているが、はじめのうちは合わないことがざらだ。再公表されるまでは、我慢して追尾するしかない。
僕は、アマチュア無線家の掲示板を確認する。大学衛星の大半はアマチュア無線の帯域を利用して衛星と通信を行う。アマチュア無線家の中には、そう言った小型衛星の電波を受信することを趣味としている人がいて、掲示板で情報交換がなされるのだ。
海外から、僕らの衛星の電波を受信したという報告は見当たらない。僕は深呼吸した。取れない可能性の方が高いが、せめて、少しだけでも音が拾えれば。そう祈りを込めて、通信設備の最終点検を行う。
アンテナはすでに、衛星が見えるであろう方向にセットしてある。あとは、TLEのずれと、周波数のずれがどの程度になるかだけの問題だ。そもそも、衛星が上手く起動しているのか、という問題もあるが、それは僕の仕事ではない。熱構体系の彼女が、ロケットの振動に耐えうる構体を設計し、機械的に衛星の電源が入るような組み立てをしたか、電源系の彼が電源供給が正確に行われる回路を設計し、実装したか、データ処理系の彼が、衛星のプログラムをバグを入れこまずに作りこんだか、衛星は全ての積み重ねだ。衛星が起動していたとしても、通信ができなければ何の意味もない。宇宙まで行って動作を確認することはできない。そして、その責任は僕にある。
僕たちは、全てのことをやった。午前3時に帰路につき、朝は9時から講義を受ける。衛星の引き渡し間際は、授業をさぼることも、しばしばだった。1日、どれだけの時間を大学で過ごしただろう。それでも、絶対に成功する保証なんてどこにもなくて、不測のシナリオを2重にも3重にも考えた。試行錯誤を繰り返し、時に無理だと全てを放棄したくなっても、耐えた。その過酷さに、何人かの仲間たちは精神を病んだ。
誰かが言っていた。学生衛星なんて作るものじゃないと。確かにそうだ。社会人が、お金をもらってやっていることを、僕らは無償で、寝る間も、時には命さえも削ってやる。その先に何があるか、なんて、何のためにやっているのか、なんて答えを持っている人間が、この中に何人いるんだろう。
気づいたら、ここにいた。そして、この日を迎えた。
AOSまで残り5分。自席に静かに座っていた彼らが、僕らの周りにひしめき合う。僕は先輩の顔を見た。先輩はモニタをにらみつけている。僕はアンテナの角度、無線機の周波数を確認する。そして周波数の調整つまみを手にとった。衛星の周波数はドップラー効果で、衛星の仰角が高くなるにつれ高くなり、仰角が下がり遠ざかるにつれ低くなる。PCで周波数を自動補正しながら追尾することは可能だが、初回は、どれだけ周波数がずれているのかも分からないので、先輩と話し合って、手で調節することに決めた。これが、いいのか悪いのか、初号機である僕らの衛星運用では、判断もつかない。先輩がAOSまでのカウントを始める。
僕の手が震えるのが見えた。
―――3、2、1、AOS。
無線機のザーというノイズの音だけが研究室を支配する。それは、今まで体験したことのない奇妙な静寂だった。ノイズの音は聞こえているはずなのに、僕の頭の中は、静寂に支配されていた。僕は、周波数を探る。調節のつまみを右に回す。聞こえない。今度は左に大きく回す。聞こえない。地上のアンテナの向きを変えるローテータを見る。こちらはPCで自動追尾する設定としている。やはりTLEが、ズレているのだろうか。
僕は衛星の軌道と仰角を確認した。間もなく最大仰角に近い。やはり、ダメか。
もう一度、周波数の調整つまみを右に大きく回した。
その時だった。
ピーーーー。
研究室に甲高い音が響いた。必死で、周波数を合わせる。もうすでに最大仰角は過ぎた。頼む。僕らの衛星の声を聞かせてくれ。
僕の周りを支配する静寂。鼓動に合わせて、耳鳴りがする。耳が痛い。聞きたい音は、僕の心臓の音なんかじゃない。
人生で、こんなに指先に神経を全集中させることがあるだろうか。僕は少しずつ、慎重にチューニングする。闇の中の一筋の光を探すように。
そして―――。
聞こえてきた、信号に、胸が、ふるえた。
トン、ツー、ツー、ツー
ツー、トン、ツー、ツー
トン、ツー、ツ…。
LOSだ。通信が途絶え、研究室が静寂に包まれる。
次の瞬間、研究室は歓喜に湧いた。取材陣が、何事かと目を剥く。今までの静寂とは打って変わって、生まれた喧騒に、あちこちを見渡している。
そんな間抜けなレポーターを横目に、僕は静かに感動していた。
胸の奥から、激しい感情が付き上げ、涙がこぼれる。慌てて涙をぬぐう。そして、理解する。ロケットが打ちあがっただけじゃ、感動なんてできるはずがなかった。
僕たちが求めていたのはこれだったのだ。
僕たちはようやく、喜びの盃を手に取った。今までの静寂が嘘のように、研究室は、賑やかな明るい声で埋め尽くされた。打ち上げの見学に行った現地の先輩から、ファーストパスの時間に合わせて入った電話の声は、ほとんど聞きとれない。
僕は窓の外を眺めた。
空高く、はるか上空から聞こえた、その産声は、たった1ワットにも満たない小さな小さな声だった。しかし、はっきりと、彼女は自身の名前を告げた。それは途中で途切れたけれど、あれは確かに彼女の声だった。
彼女の人生はこれからだ。彼女はこの先、どんな声を聞かせてくれるのだろうか。
長い人生の中で、一体どれだけの人が、胸が震える感動に出会うことがあるだろう。僕にとって、あの時の出来事は、今までの人生観を覆すような衝撃だった。あれを感動と呼ぶならば、今まで感動と称してきたものは、何だったのかと思うくらいだ。
そして、その衝撃は、10年が経った今も、色あせることなく、僕の心を支配している。