花火ならフィナーレの枝垂れ柳が好きだという話とはあまり関係のない話
やっぱり私は言葉が好きなのだと、改めて思ったから4連勤終わりの帰り道にnoteに手を出してみた。
独特な言い回しを使う人や、締めの言葉に一見どうでもいいような関係ないことをさっと置いていく文章を書く人が好きだ。
それに憧れている。
頭の中にある自分の考えを言葉にしてアウトプットしている人がかっこいいと思う。たぶん、ちゃんと考えている人が好きで自分もそうありたいと思っているのだと思う。
いつしか感情社会学の小説を書くという期末レポートで「みんなそれぞれいろいろ考えているのだけれど、それを出さないようにしているだけだ」というようなことを書いた気がする。私もそうだけれど、出さないでいると考えていることを忘れてしまう気がする。最近忘れている。ずっと続けていた日記も鍵付きの箱に入れたら書けなくなってしまった。
考えるのをやめて生きたくはないから、たまにつらつらと、文章を書くのを楽しめたらいいなぁ。
櫻井翔のオトノハに引っ張られた文章を書きます。
そんなことを考えていて、学童の先生から「言葉が綺麗」だと褒められた記憶がふと浮かび上がってきた。あれから16年経ったけれど、父親から何がどう「やばい」のか説明させられそうになることもなくなったから「やばい」もよく使うけれど、綺麗な言葉を使える人でありたいなと思った。
noteを登録しつつ、近くないコンビニに寄ってから帰った。あの道通ったらここに出るのかなとかなんとか考えていた道を初めて通ったら、全然ここには出なかった。あの道の入り口からここまでの間に大きい道路あった。
いつか思い出したように読み返したら、この文章を理解できるのか、意味わかんないなとなるのか。
ちなみに私は考えていることを言葉にして、例えばツイートしたとき(最近Twitterじゃなくなったらしい。しかし私はずっとアップデートしていないのでまだTwitterのまま。なんならスペース機能もない。) 別のどうでもいいツイートでカモフラージュしてしまう。恥ずかしいから。
ちなみにどうでもいいけれど苗字と名前の間のスペースはわざわざ半角スペースにします。