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【誄譚】 散文に刺さる釘

キミの推理力がどこまで届くのかわくわくしているよ次から次に現れる釘の事件が日常を異界へ変えていくのは美しい光景だよ

日陰の場所は燻っていた蒼い火がゆらゆら揺れほどけるようさ


これは、『誄譚(しのびごとたん)』仟燕家モノ・仟燕色馨シリーズの一篇「散文に刺さる釘」全12話の全文公開になります。第1話「蒼彩」のみ無料公開、残りは有料です(ただし、2026年1月4日まで限定無料公開)。

初出は、年に四回ほどの東京発フリーペーパー『渦とチェリー新聞』2017年から2019年。

主役の市川忍は高校二年生。

2017年、東京。秋。

釘香る うちつけてさえ 風花や

現代怪奇幻想小説です。




散文に刺さる釘

_underline


蒼彩

 それは美青年が転校してきた翌日の午前。昭和半ばに建てられ改装もない体育館の薄暗い裏側、孤立したようにある倉庫は窓の類いもなく出口一つ。とある女生徒がスペアのない鍵でもって錠を開けて明かりをつけると精巧な等身大の手作り人形が胸に九つの釘刺され積み重ねられたマット上で打ち棄てられ故に悲鳴があがる。低血圧そうな声色、ショートカットの渡邉咲が噂する。曰く、その人形は文化祭のために美術部の生徒たちが作ったんだって、誰かに恨まれるようなことをした覚えはないって美術部の人たちは憤ってるそうよ。二限と三限の狭間。市川忍は、それでかの仟燕色馨の出番だと思っているんだろう、と流し目を。ちらと意味なく転校生の美青年に目を。発見者の女生徒はそれでも文化祭が近いから嫌なことは忘れて皆で元気よく頑張るんだって励んでるそうよ、その女生徒の態度に興味なさげに渡邉咲が、知らない子だけどさ、クラスも違うし、溜め息つく。それはいつだったかラバーを身につけてプレイしている時とも違う、色めかしさ。そのとき、市川忍の脳裏にはっきりとした別の声が響く、夜の帳、誰が何の為にどのように悪戯したのか全て不透明の事件が学校で起きたという、日常という囲われたテリトリーで起これば何もかも気色の悪い舞台装置に思えてくるのだから、それでもなお文化祭という祭りは生徒ら教師らに心強いのだろう、いにしえからの群れなる魂が人々を押し上げるわけだから。ふいの皮肉めいた響きに対し脳裏でふてぶてしく市川忍が答える、それでカジョウシキカ、咲の話では体育倉庫の鍵を最後に使ったのは事件前日の体育教師で、その鍵は常に職員室で管理されているから密室を想起させる、盗まれたのか人形のあった美術室も密室、倉庫の鍵同様そこの鍵も職員室で保管されているって話だが生徒の出入りはなかったという、体育倉庫に釘の刺された等身大の人形、動機も不気味だが手段からして謎めいていないか。連なる密室の調べ。やがて、密室そのものに釘が刺され棄てられたわけだよとの一言を残し声が遠ざかっていく。向こうの席で咲や忍を見る二つの瞳がある。

 冬の息吹近づく涼しげな季節。放課後はあちらこちらの教室で文化祭の準備が進められていく。その賑わいから離れて古びた体育館の裏側、常に日陰である倉庫の前に着くと飾り気のないドアの前に人影。市川の姿に気づいた人影はすっと凭れていた壁から離れ(幼少時代以来だね)耳元まで近づきそう囁く。今はないとある秘密めいたSMサロンで瑞々しい幾らかの女体に何本かの釘の使われたプレイを指を咥え視ていた幼き市川忍の映像が脳裏横切り動揺し、うっかり、きみが犯人なのか、人影、美青年に尋ねてしまう。まるで誘われたかのように零れ出たその問いかけに、この日陰の場所は燻っていた蒼い火がゆらゆら揺れほどけるようさと照れ笑いし、妖しい眼指で、仟燕色馨くんは君の魂の隣で今も宿っているのかい? 冷たい風がびゅうっと吹いて、犯人はそうだね僕かもしれないね、それから、同級生のあのつんとすました子と仲睦まじいの、ふうん、たった二日間学内を眺めてみたよ、実につまらない生徒らばかりじゃないか、それでも、あの子は違うんだね羨ましいなあ。くるっと背を向け、その後ろ姿を見る市川忍は、脳裏問いかける、彼は幼馴染らしい、誰だろう。すると広い闇の奥底から、きみは何もかも忘れてしまったのだな、消え入るかの声。暗い足下、地に二、三の錆びた破片。美青年が誰かを抱き寄せた姿勢で佇み、もう一度会いたかった、それには仕掛けが必要で、一度しか出会ったことがなかったから、市川くん、君という密室の中に閉ざされたんだろう、復活の儀式に人形を用いた、騒ぎが起こるまで体育倉庫でこの子と抱き合っててね。市川忍の目には一瞬精巧な人形がその手の内に見えたような気がする。目を擦る。ばらばらと風が木々を震わせる。艶やかな琴の音で美青年が歩み寄り、美術部員たちは僕を記憶から掻き消しただろう、彼らに表現の態度をけしかけたら悪夢が世界を包み、未熟な彼らは一所懸命文化祭に出すはずだった大事な人形を犯してしまったんだ、己のしたことに慄き、傷つけられた人形を僕に委ねてしまった、フフフ。とてつもなく凄まじい風が体育倉庫のある日陰を吹き抜ける。市川忍の姿はない。その容姿をした者が同じ学生服姿で仟燕色馨のごとき声を発する、久しぶりだな永易彩芽(ながいあやめ)クン、キミは我が師に拾われ無事仮の親を得、東北へ引っ越したのに、知恵を絞り全ての日々を費やし見事転校してきたのか、そして抱き締める。永易彩芽は泣き崩れ、か弱く声をあげる。仟燕色馨が平面の舞台の紙切れのようにいう、九つの釘が通風口を作り、魔が漏れた、業の深い血統! 業の深い魂の技術を学ばなければ、人を、自分自身を、傷つけてしまうから。ふっと、意識が遠のいていく。市川忍が永易彩芽とともに崩れる。体育倉庫の前で二人の生徒が倒れていたことから、更なる噂が巻き起こり、その倉庫は改築されることになったという。

霜走

 終業式の前夜に降る雪、世去れと、と囁くようで。脳裏からずっと声が鳴り渡っている。師走とは本来は旧暦を指して今でいう十二月暮れより二月中旬辺りを指すように明治は六年以前の旧暦をもって暮らしていた縄師の男が仟燕家サロンにいたのも忘れてしまったか、きみの通う高校で文化祭の準備のあった九月末とは果たして神無月か、葉月ではないのか、あの日体育倉庫前に何か破片が二三とと全くもって謎めいた論の披露であるが市川忍は父、敬済の書き置きを握り締め薄暗い室内学生鞄を肩から下げたまま冷蔵庫迄。冷気こぼれ字を読む時に掛ける眼鏡をとりだし紙に目を通す。脳裏からの、高橋定蔵、警部補か。という声に、そうだね、きみが昨年に事件解決の糸口を示して以来よく来るよ、携帯の番号は教えないように父に言ってる、とはいえ警察が学校にくると大事だろ、そうしてすっかり父と仲良くなって酒を交わすようになったよ、冷蔵庫の薄明かりに手を伸ばすと心の冷たい深淵より、師は過去に事件を起こしているから師のサロンに通っていた者と打ち解けることに関心もあるのだろうSMというものに世俗的偏見はないとしても。窓の外、闇に吹雪いている。市川忍は脳裏からの声、仟燕色馨を無視し、椅子に腰掛け冷えたままの焦げめのある焼飯を食す。それにしても市川忍は幼少時父に何度も連れられていった件のサロンの記憶が薄い。カジョウシキカが師と伝えるそのサロンの運営者の男の記憶もまた朧げであるし、と、雅楽の笙の音色とともにラインが入り、クラスメイト渡邉咲。曰く、転校生美青年永易クンが打ち明けてきたのだという、体育倉庫のマット上で等身大の手作り人形が釘刺され積み重ねられていた事件のこと、そのような人形を二つ受け取りはしたが焼却炉に棄てたから体育倉庫には置いていないと。あれは文化祭の頃だ、十一月には冷え込んで初雪も終わり幾度か今年は雪も積もる、師走とはいうが先生らは春休みの時期より忙しそうではない。ふいに出ていった母の顔。多くのサロンにいた責めを受ける女達の艶姿。ラインの返事に今もしかして永易クンといるの? とだけ返し、奇妙な想いに囚われ、下校時間に待ち伏せされたのよ彼の目的何? とのレスに安堵し笙の音が永劫を貫かんばかりに響き、不可思議な事件が起こったから市川くんに近づく為に利用したと彼が語った旨の文字列が並び、知りあいだったの? と尋ねてくる。市川忍は思う、今すぐ咲に会ってバキュームベッドの中に収めたいそのようなラバーを用いたフェティッシュなプレイがしたい、が返信では冷静さを装い、彼はね仟燕色馨の顔見知りだよ、と打つ。

 終業式への登校中ずっと声が話しかけてくる。市川忍は早く学校に着いて渡邉咲と話がしたいということで頭が一杯で懐には黒のゴム手袋が忍び、あともう少しで校門前に着くという段で琴の音のごとき影が過り美青年の永易彩芽が揺れ現れる。とても寒かったけど待っていたよ、白い息を吐き、いつしかよされよされと降っていた雪を髪の毛から払い除ける様。市川忍が、冷たくいう。今になって犯人じゃないとどうして言い張るんだい。あちらこちらへと舞う雪を背景にひと気の減った校門前で美青年は、あの事件は文化祭のどさくさに紛れて未解決ということになっているよ市川くんと渡邉さんしか知らない仮の真相だったよでも半分は実は汚名で君達に伝えた方が賢明だと考えた結果さ、それよりまだ俺のことを思いだせないのかい、市川くん、きみは、マンションの一室を使ったあのサロンの方ではなく仟燕家の方で幼少の俺の目の前で、あの場を生みだした仟燕白霞から色馨を襲名した、サロンなき今きみの行く末を知りたいし、それに。突如黙りこくり佇む市川忍の背後を見ている。凍りつく予感に雪の模様が乱れ散る。この彼の目的は、内に宿る仟燕色馨の実体を濃く浮きださせることか。背後に渡邉咲がいて、彼がただ彼女の現れに気づいたにすぎないことを知る。またね、と何か欠片を幾つか放って去り、渡邉咲が、去る男の背を一瞥したあと、歩くの疲れた寒いし雪だしチャイム鳴っちゃうよと市川忍に。教室迄向かう間、また脳裏に仟燕色馨の声が聞こえてくる。仮に焼却炉で釘刺しの人形二体を拾い鍵を職員室から知られずに借りてそれを使って体育倉庫のドアを開きマットの上に放り込んだが鍵を渡したのは教師本人、葉月に渡したつもりになり神無月ではないと思い込んでいる。同じ九月末だが、旧暦と新暦、世界が一瞬だけ、幻惑の如きレトリックで二重にされたのだ、仮にといった、永易彩芽の言葉は幻だ、自分は犯人ではなく人形は焼却炉に棄てたというのは旧暦のごとき霞であり新暦はそれに覆われて見失われる。ふと見ると手に津軽三味線の糸巻の欠片が一つあり、市川忍は拾ったことを覚えているが脳裏に響く声に促されたのかもしれない。息を吸えば体内諸共冷気で凍りつきそうだったが教室の手前で深く吸い、ところで仟燕色馨よく喋るじゃないか今回挑発を受けてるのは他でもない、きみなんだね、永易クンは確か青森から転校してきたんだろう、今この師走がみるみる霜月の景色に彩られていく景色が良く視えるよ。

疾醒

 はらはら舞う雪、コートを羽織った涅色のシャツの脇に装飾過多の首飾り、眉整えられた、眼光鋭い長髪黒はオールバックの男が新大久保を流離う。始業式から幾日か過ぎたある昼休みに、ショートカットで髪の明るい女、渡邉咲が同級生に向けていう、市川くん、貴方のお父さんに偶然会っちゃって少し立ち話したのよ、その声色には、相変わらず低血圧のごとき気怠いムード漂うも、確かに生き生きとしたものが伺える。市川忍は、また事件が起こって仟蒸色馨の出番だとでも思ってるんだろ? そう云う手前、父と、どこで、と聞く。新大久保。そうなの、韓国料理でも食べたくなったの? と問い詰めぎみに云うと、和楽器専門店があってふらふらしてたのよと返され動揺する。直後、脳裏から、仟蒸色馨の声、きみの動揺は思い込みから現れたのだ、大方、コリアンタウンだけの街だと高を括っていたのだろう、しかし、彼女から視た新大久保は、趣味の和楽器を起点とし、違った一面の様相を得ていたわけだ、きみの父敬済から視た、新大久保はどうだ? 市川忍が脳内で会話をしているとは露知らず、渡邉咲は先の質問について話し続けている。永田町でね猟奇殺人事件が起こったそうなの、それで、貴方のお父さんって警部補の方と親しいでしょ、警部補さんが貴方に会いたがってるって。静かな、冷たい返答、知ってる。渡邉咲が教室の生徒たちを見回した後、警部補さん、よく酒の席で愚痴るそうなの、この現代社会では猟奇な事件が起こり辛いって。数分経ち、眼鏡をかけて黒板に書かれた白いチョークの文字列をノートに写しながら、市川忍が脳内談義を。片手には津軽三味線の糸巻の欠片が握り締められ、汗ばむ。警部補高橋定蔵はノンキャリア組だろう。そうだね。一昨年の事件のとき話をしたが彼は強い正義感を持つ反面激しく猟奇に魅せられている、件の愚痴の出処は警部補曰く個人の激動から異端のごとく生じた不可解な事件そのような猟奇が喪失し、情報共有と多様な幻想土台がインフラ化された故に不気味な事件が起ころうとそれは社会それ自体の異様の写し絵に過ぎず奇妙な経緯を辿った個人に辿りつかない、今回警部補が関心を抱いている事件は社会の闇の歯車に下敷きにされて象徴化されたに過ぎない、いわば猟奇を消す社会化された非個人の犯行ではないという、何か予感、胸騒ぎがするから、きみの家を訪問し独特の意見を望んでるのじゃないか。そのとき、黒髪ストレートロングで眼鏡をかけた理科教師の東川玲花が、永易彩芽クン、と名指す。それで思索が途切れて当てられた生徒に視線を向けるが、その途上、教師と目が合い、動揺する。

 この雑然とした社会だが、下校時刻になってもまだ、はらはらと雪が舞い、市川忍の脳裏に津軽三味線のある旋律が流れる、疾風のごとく。それは内に秘められた何かを呼び醒ますに足りる程の幻鬼の調べ。家に着くと炊事場に着物姿の妖艶な見たことのない女が皿洗いをしていて、あらお帰りなさい、と。父は? さっき呼び出されて出ていったわ。そう。女は湯を止めて手を拭き、初めまして、と言いながら机の上でお茶を入れ、珠季よ、と下の名前だけを云う。二人向き合いテーブルに座り無言でお茶を飲んでいる。僅かな白熱電球の灯りだけ。ドアの開く音がし涅色のシャツの男が室内へ。息子の姿を見るなり、忍、おまえの友人の女に偶然会って少し喋ったよ、聞いてる? うん。良い女じゃん、おまえ、見る目あるよ、流石おれの息子だ。風呂敷を掴み着物姿の女の名を呼び、眼光は鋭いがうきうきした優しい表情で、今夜はおれに任しときな、東京に散らばる熱情が疾風に変わる刻だ。やがて、一人残され、自室で横になり、スマホを片手に坦々とツイッターのリストを。ラバー系BDSMプレイ画像がずらずらと。渡邉咲に電話をかける。市川くん、どうしたの。あのさ、父に口説かれなかった? 電話越しにくすくすした声が響く。市川くんのお父さん、年齢不詳よね、例の事件のことを細かく聞かされただけ。風強く、窓が騒がしい。脳裏の声が、警部補に会おうとしないから、我が父はこの女を伝言係にでもしたのだろうと囁き、それで毒づく、おれの父はクズだ。更なる脳内で、警部補はこの事件を現代社会事情から隔絶された一個人の猟奇的犯行と視ている。そのまま、口にする。そう、流石市川くん、それとも、仟蒸色馨さん? 市川忍は仟蒸色馨の言葉を再びそのまま口にし、国会議事堂前駅には政治関連以外に何があるのか、被害者のメンズエステだかいう流行に浸された職業とは別の顔も隅々調査資料が欲しい、それと、気になるのは切り離された腕に刺された化粧材用の和釘だけど。冷気漂う沈黙。やっぱり警部補さんと会った方がいいよ。翌日の早朝、睡眠不足の頭痛を抱え、より一層凍えた大気と冷えた風、市川忍は高校に辿り着き、教室へ向けて階段を登ろうとするが、ふと職員室から理科教師の東川玲花が出てきたのに気づく。先生は早いんだなとのみ思うが、突如視界が斜めに引き裂かれ、内部に巣食う魔の声と、肉体と緊縛。そして、速く高く反復に継ぐ反復からボレロのごとく疾風を巻き起こす津軽三味線の四重奏が目に入った場面を全て変える。市川忍は、それを振り切って走る。階段を駆け上がり、内部、仟蒸色馨へ向けて叫ぶ。

連釘

 変だという想いは灯を吹き消す風のごとく幻と化し、教室へ帰ってきた市川忍は昼休みながら雨の為にざわついている景色を潜り抜けて席に腰掛ける。校内で唯一親しい渡邉咲の姿はない。まともな交流のない美青年転校生永易彩芽は遠くの席イヤホンからiPodを。先の四限目は体育教師紅井洸の現代スポーツ理論に裏打ちされたと語られるダンス・トレーニングで運動なのか理系の再現なのか辟易甚だしかったが美青年永易の流暢な身のこなしに、まるでユーチューバーかのセンス持つ教師洸のカラカラした笑いについていけず、男も女も生徒達はその輪に群れて市川忍は脳内よりの声、変だという一言の糸だけを掴み、意味を問うと、釘刺しの等身大人形が棄てられていた体育倉庫の取り壊しがついに始まったが顔色の悪い解体業者二人だけが無言で作業をしていて、雨だからだろと返すと、会話も止まる。それで、仟蒸色馨きみは結局化粧材用の和釘が刺された女性の腕が転がっていた例の事件を解かないのかいと尋ねると、きみは警部補の推理に付き合うのかと醒めた脳裏の声。しかし週末になると事は変化している。ショートカットで髪の明るい女、渡邉咲が例のごとく愉しそうだ。放課後、陽の暮れた窓外を見つめながらうっとりと頬杖をついて机越しに話しかける。市川くんのお父さん曰く、ある試写室の冷蔵庫にバラされた男の遺体が見つかってその額に五寸釘が突き刺さっていたそうね、それだけじゃない、東京からそれほど遠くない山岳で大量の釘を飲み込まされた遺体が発見されたんでしょ。そうだね。貴方が貴方のお知り合いだと言い張る仟蒸色馨はこれをどう考えてるの、その時見せたさり気ない笑顔に市川忍は取り乱しそうになる。青森の冬に咲く桜の幹には雪が積もりその向こうの闇の深さに吸い寄せられていくようだ。吹雪く津軽三味線の調べ。懐に常に忍ばせている黒いゴム手袋を握りしめて、汗ばむ。警部補さんにはお会いした? と聞かれ、いや。二人で下校しようと人気ない廊下を歩き階段を降りると職員室前で体育教師紅井洸が腰に手を当てエリート的な仕草を着込んだごとき佇まいで理科教師東川玲花と立ち話している。まるで自分の手柄のように美青年永易彩芽の優雅なダンス能力を琴の音のようだと誇っていて理科教師は口元に手の甲を当てて眼鏡の奥で微笑んでいる。その会話から、脳内で、仟蒸色馨がまた、変だ、と呟く。いつも以上に教師洸が元気そうだからかと聞くと、それもあるが、秋田という言葉が聞こえたという。え?

 奏でられる弦の響きが連続した事件の調べを遠く異界迄、そこでは全て釘が使われている。夜道、渡邉咲と別れると背後の闇から琴の音と共にレザーのジャケットを着こなした黒髪の同級生永易彩芽が忍び寄る。足音。背後から何かが飛んできたのを振り返り掴み取ると津軽三味線の砕かれた上駒の欠片。市川クンよりもカジョウシキカの方が動きも達者なようだね、と歩み寄り顔を突き合わせる。青年の体に取り憑いたかのような仟蒸色馨の、落ち着いた声が、キミはてっきり師から紹介された縄師を仮親とし東北に去ったが、青森ではなく秋田だったか、だとするとこの津軽三味線の欠片の意味は、我が師の視た世界、我が師がサロンで語り継いだ物語の記憶というわけか。距離を作るようにさっと離れ永易彩芽がくすりと笑う、キミの推理力がどこまで届くのかわくわくしているよ次から次に現れる釘の事件が日常を異界へ変えていくのは美しい光景だよ、手を振り、闇に。どこからか犬の遠吠えが聞こえ、ふっと意識が混濁し、市川忍が脳裏へ向けていう、薄ぼんやりと聞こえたけどさ、体育倉庫での釘事件は人形だからいいよ、でも国会議事堂前駅付近での女性の腕、冷蔵庫内にバラされた遺体の額、大量に釘を飲まされた山岳での遺体、皆、被害者は死んでいる、秋田から転校してきた彼、永易彩芽は、正気なのか。無言。一人、下校の夜道をゆく。やがてしとしとと、雨が降り、それが、細雪に変わっていく。帰宅すると、市川忍の父が、津軽塗の黒地に白い桜が控えめに描かれた高さ一尺程のテーブルの上で、はだけた着物の女、珠季を、強き赤い縄で静かに緊縛している。帰ってきた息子に珍しくも冷静に父が、客の案内ついで事件のあった試写室に寄ったが、スタッフも一新され、平常だったね、上野ら辺で元スタッフを偶然見かけたが、事件のことすら知らずそれで解雇されたわけかと腑に落ちてさえいたな、クッと笑い、街はな、すぐに暗黒を忘れていく。市川忍は父をちらと見、自室に去り、寝転がる。やがて、声がいう、師に拾われサロンにやってきた永易彩芽は女性に釘を刺す嗜好を持っていただろう。覚えてない。しばし、沈黙、後、師の手解きを受け、SMという形で被害者の出ない双方向関係の元で幼年期でありながらそれを嗜み、センスを見せていた永易彩芽は、今も、師を師と仰いでいる。そうなのか。――だとすると一連の事件が永易彩芽によるものだとは考えにくい、整合性がとれない、それに、そもそもが、変だろう。

皐弥

 皐月香るうちつけられしは弥生かな。窓の外はしろく吹雪き、或る神社の大樹に雑に縛られた男が七日間命途切れるまで釘を打たれ続けるという事件を、異様な騒動に目を輝かせるクラスメイトの渡邉咲に話していない。昼休みの刻、廊下を。美術部員の中河原津久見と会う。半年程前の精巧な人形の件。砂を噛む文化祭友と語らう。人気ない図書室へ資料読み。帰宅すれば父を介し警部補の誘いを受けることを考えている。市川忍の脳裏にもう一つの人格がある。カジョウシキカと名付けられたその者の声は、今は聞こえない。校舎内は散文のように空疎で。父から着信があり、今夜、警部補は来られないという。初耳だがオリンピックの開発に関した或る事件で展開があったと。頬杖す体育館に球技の影。教師に指摘され、しぶしぶ眼鏡かけ黒板を。美人理科教師東川玲花のキャットスーツ姿をノートに素描そのページをすぐさま破る。あの、市川クン、教壇からの呆れた声。離れた席から視線。脳裏よりふいに、今日もまたいつもの解体業者二人だとの声に、バスケしか見てなかったけどと応え、釘といえば丑の刻参り、午前一時から三時、まさに神社の御神木に憎い相手を見立てた藁人形を釘で打ち込む古来の呪術さ、七日目に満願となり呪った相手が死ぬ、相手を見立てた藁人形を更に当人の躰に見立てるという二重の事件だ、と返すと、きみは自らの手で事件を解決したいようだが警察らに任せていればいいだろう、きみに何ができる、と聞こえ、仟燕色馨、黙ってろ、と脳裏へ向け叫ぶ。さっきの国語の授業だが、と声、俳句は必ず季語を入れなければならない驚く。市川忍は、何の話だよ、と惑う。醒めないで幻舞う白果て冴ゆる。下校時刻、用事があると渡邉咲を背に、ちらと美青年永易彩芽を見、教室から左手へ。校舎の端には滅多に使われない教室があり廊下の蛍光灯も外されたまま、やがて追ってきた永易彩芽と対峙し強くいう、永易くんきみは何故かまだ報道されていない件もある一連の釘事件のことを知り俺たちを追い詰めてきたよね、そして今度は七日間も釘を打たれて死んだ男がいたそうだ、何が目的だ。はっとした表情で永易は笑い、去る。待てよ。振り向く。フフフ市川クンきみは恐ろしいよ仟燕色馨が居ながらそれだけじゃさして満足しないんだね。翌々日は月曜、黒髪ツーブロックの襟足刈り上げショートマッシュに眼鏡をかけて市川忍が早朝の教室に颯爽と現れる。離れた席でイヤホンをつけて冷めた目をして鼻で笑う永易。渡邉咲は、イメチェン、文字読まないのに眼鏡とどきどきしている。市川忍は自らの内面に潜むもう一つの人格、仟燕色馨に嫉妬していたのだ。俺はなんて個性もなければ才能もないのだろう、と!

 二つの瞳(め)弥生か皐月か・・。五限目を待つ休み時間、渡邉咲が席に戻ってきた為、スマホを懐に入れた市川忍が内に声を、無季俳句というのもあるそうじゃないか。対して、きみが瞳に入れたものはおよそきみより多く知っている、だがきみにも手柄がある、次から次へと起こる釘が使われた事件、確かに父との会話以外では咲にしか話していない内容でニュースになっていないものもある、それを永易彩芽が知っているのは奇妙だったが、きみの嫉妬のお陰で今回の釘事件をここで咲と話題にしなかった、するときみが独断で永易と対峙したときその様子から今回の事件を彼は知らない風だっただろう机に仕掛けがある、およそiPodでも聴いてるふりをし。仟燕色馨の言葉が終わるより早く、市川忍は机の裏の隅から盗聴器らしき物体に触れ、永易彩芽を睨みながら咲に話しかける。或る神社の大樹に雑に縛られた男が七日間釘を打たれ続けるという事件が起こったそうだよ。矢張り、大事件だわと言わんばかりに渡邉咲が目を輝かせ、この連続釘事件、貴方のお知り合いと貴方が言い張る仟蒸色馨にも解けないものなの。ところが、と市川忍が、警部補と親しい父から昨晩聞いた話を口にする、この事件は解決したのさ、オカルト情報をネットで蓄積していたマニアの半グレが身内トラブルで半ば棄てられていた神社を使い拷問していたら七日目に死んでしまったという経緯だってさ。渡邉咲は心底がっかりしたようで、そんな事件怖いよ、仟蒸色馨の出る幕もない、非連続釘事件なのね。警部補高橋定蔵は猟奇事件に神秘性を視るあまり、釘のある事件を繋げてこの現世とは違う異世界を視ていたのだというのは仟蒸色馨の言葉さ、だけど、唾を飲み込む、一つだけ自分の手で解決させたい、魔に憑かれた事件がある、と。渡邉咲が身を乗り出す、どの事件なの。それがさ教えてくれないんだよ。だって、貴方でしょう、と言いそうになり、渡邉咲は台詞を呑む。釘香るうちつけてさえ風花や。夜半。永易彩芽が一人、制服に革のタイトなジャケットを羽織り、外灯を浴びている。懐からイヤホンを引っ張り出す。その先にはiPodと受信機。棄てられたそれらが一度だけ強く踏みつけられ、壊れる。幼年期の師から、特別に襲名まで受けた幼馴染み市川に永易彩芽はいまや嫉妬している。火を見るよりも確かな敗北だ、俺は二重人格ではないのだから!

雹色

 仟燕家から四十分程の所にあるマンションの一室に現れたのは八歳の市川忍を連れた父敬済である。その夜雹が降り都内道路一面流氷の趣あり。父の実兄ゴムフェチ哲弥の導きにより若き彩芽が奥へと誘う。丁度梢子は仟燕白霞の手解きで来客の縄を受けていると云う。暗く短い廊下は仄かな灯りのみ。幼き市川忍の殺気立った眼は凜々と輝きその嗅覚はお香の奥に潜む殺風景を嗅ぎつける。座敷のごとく改装された畳の上に座り美少年彩芽に差し出された茶を呑む父敬済は、齢三十五、柄のある草臥れた藍色のシャツを着、我が子が側に居ながらそれへの気配り一切なく重い緊張に囚われている。じきに解かれた縄を黙々と片付ける梢子と縄を泳がせていた高齢の者を余所目に、このサロンを取り仕切る男、黒き着流しの仟燕白霞が三人の来客の前に座り陽炎のような素振りでお茶を取り、哲弥を一瞥し、初見の敬済、そして側の子をじっと視、その凝視に市川忍は、慄く、わぁと叫び、暴れ、手がつけられなくなる。父の兄哲弥に押さえつけられ漸く一段落すると、弱き声で敬済が云う、この子は、物心つく前からこうで、俺はどうしたらいいか皆目分からないのです、それで兄に相談し、貴方を紹介させて頂きました、質問に応え、妻は、絢香は、ずっと前に別れています、魔に霞む女で、そこに惹かれましたが、結婚生活は碌でもなかった、その上、絢香の血を引いたんでしょう、我が子は大人しいかと思えば唐突に凶暴になり、医者にも見てもらってますが、言葉を呑む。お茶を持つ手が震えている。ふいに緩んだ哲弥の手からするりと抜け出した喚く子が片付けられる縄の横を通りその先、箱に詰まった拘束具に喜び笑い、分別するかのように派手に散らかし始める。美少年彩芽がそれを釘付けで視ている。仟燕白霞は立ち上がりか細い梢子の手を掴みそのまま雑に市川忍の前へ倒れさせる。断崖から落下するかのごとき風の金切り声、外の雹がより激しくなり割れんばかりに窓ガラスが騒ぎだす。魔の森にて百戦錬磨と自負のあった梢子がたかが八歳の闇に冷汗を顳かみに流す。刹那、遥か彼方轟かんと津軽三味線の音が響き、市川忍は驚き振り向き、その顎に津軽三味線の音緒があてがわれ目を醒ます。仟燕白霞の漆黒の声。殺気のある子だ!

 仟燕色馨とは、そのサロンが仕舞われる前、仟燕家にて白霞から、市川忍のもう一つの人格として襲名を受けた名である。かじょうしきか、と読む。十七歳の市川忍にクラスメイトの渡邉咲がいう、貴方がお知り合いと言い張る仟燕色馨が関心を持つ事件、そこに潜む魔って何なの。色馨の考える犯人像が知りたいってことだね、色、さ。渡邉咲が涼しい表情で、色気、と言い、窓の外、白い空をぼうっと見つめる。試写室の冷蔵庫に五寸釘が額に刺さった男性の頭部、店は背景に組があり被害者の店長を失踪扱いで藪に落とそうとしたが被害者の恋人の発言で事件化したという。山岳で大量の釘が呑み込まされた死体、場所は古くからの養鶏所で昭和の内に規模が半減した為に奥まった半分は封鎖されその外れの小屋で事件があったという。国会議事堂前で化粧材用の釘が刺された女性の腕。体育倉庫前では黙々と解体業者二人が労働をしている。脳裏から仟燕色馨の声、魔だ、ざわざわする、幼馴染み永易彩芽が秋に転校してきてからあのサロンの空気が恋しい。仟燕色馨の情緒的な声に、市川忍は酷く動揺する。眼鏡で表情の読めない市川忍を覗き込み、渡邉咲が肩肘つき笑みを。本当に人を殺めてしまうような人から色気なんて出ないよ、声をかけてあどけなく微笑む。立ち上がり、校舎裏、高い建物に挟まれた人気ない場で渡邉咲は、貰った黒いゴム手袋をぴたっと頬に。向こうの駐車場、日の光跳ね返し高級な車が目にとまる。体育教師紅井洸が中から現れる。車という密室が釘のごとき咲の鋭い視線で壊された先に散る色があるようで、静かに去る。きっと、仟燕色馨なら、殺風景な街から消えていく色の幾らかを消さないでいてくれるだろう。夜深く、市川忍は化粧材用釘の事件が解決したと聞く。警部補は落ち込んだ表情で事件解決を喜んでいたと父敬済が云う。和柄のマフラーをしたギャル僡逢里を机に横たわらせ、眼光鋭く。犯人は個人タクシーの運転手、被害者の女性の身内が和釘の職で捜査をそちらへ向かわせる撹乱があったのだと。それら一連を知る市川忍の瞳、切り替わる、一連に雹を視る仟燕色馨の瞳。

界釘

 窓を叩く雨は、窓外の景色を遠ざける。体育倉庫の解体作業も終わり建設作業が進む。仟燕色馨はね、東京国立博物館で来月開催される國華名作展に行きたがっている。異常とも思える長く暑い夏の訪れを体育教師紅井洸が先見の明をひけらかすかの物言いで披露していたが、授業後、渡邉咲を呼びつけ、渡邉クン、授業中俺の話を聞いていなかったのは頂けないな、それにねキミはお腹が痛いとよく体育の時間見学してるね、眼差しは反応を観察する如く。渡邉咲は震え、廊下に視線を送り、あ、東川先生、と理科教師の名を。紅井洸の視線がその方へ逸れる。渡邉咲は市川忍の元へ駆ける。話の続きをしましょ、そういえば、美青年永易彩芽クンずっと学校休んでるね。笙を奏でる女のような瞳。博物館って上野でしょ浅草に和楽器専門店があるらしいの。下校時も大雨が大地を叩く。暗い通りに佇むアパートは小さな一室、仮親からの通話を終えてスマートフォンを放り投げた美青年永易彩芽が和紙一杯の手書き図に更なる線を走らせる。その筆致、雨音切り裂く琴の音の如し。彼は、幼き頃の想い出仟燕色馨を追って転校してきたが、現在の主人格たる市川忍を疎ましく思い主人格自体が反転する機を模索するはプライドから、市川忍を認めていない故。革のジャケットに身を包み日夜百人町にある串カツ屋で細やかな食事をする。大雨のまさにこの晩、市川敬済を連れて警部補高橋定蔵が現れる。その名に似ず、束感ショートスタイルのサイドはツーブロックにシルバーアッシュ弱冠二十七歳ノンキャリア。永易彩芽にとって、市川忍の父に近づかんと渡邉咲の台詞から新大久保に目をつけたことによる思いも寄らない収穫である。ソーダを飲みながら二人の会話に耳を傾ける。豪雨でも賑わいは増すばかり。警部補が市川忍の父敬済に云う。キャリアの連中から一目置かれるほど捜査も順調、街の平和に一役買っている自負もあるが、釘に固執した猟奇モノNは俺の心の中にのみ存在していたのか、Nはこの世にいない。ソーダに口をつけ話を盗み聞きする美青年永易彩芽が思う、釘魔Nは異界に存在する、仟燕色馨を信じるなら、これは連続釘事件だ。

 明後日、午前、市川忍らが通う学校に警察からの一斉捜査がなされ、体育倉庫跡が封鎖される。教室は興奮状態に包まれ活気みなぎる反面、ショートカットで髪の短い渡邉咲は退屈そうだ。市川忍クン、事件はどんどん警察によって解決していく、それは喜ばしいことだけど、私たちには何もできないのかな。今なにが起こってるのかも分からない状態だよ、窓から外界の騒動に視線を。解体業者二人とともに連行される体育教師紅井洸の姿。授業は理科の予定だったが自習。西麻布で、と生徒の一人が噂する、豪遊してたらしいよ。そういえば高級車に乗ってたね。美青年永易彩芽は出席していない。明日だろう、と、ふいに市川忍の脳裏からカジョウシキカの声。それで、國華名作展はまだだけど、浅草の和楽器専門店は予定通り行こう。そうね、学校で事件があって気が暗いけど、気晴らしになりそう。その晩、永易彩芽はひと足早く浅草にいる。革のジャケットを纏い、昭和の面影あるビジネスホテルの横、駐車場で空に目を。市川敬済と黒髪の女が、やがて遅くまで営業しているホテル近場の喫茶店へ。背後に座る。うちの息子がねと敬済、台東区にも手を伸ばせと云うのさ、涅色のシャツ、ぎらついた瞳、警察の調査では亡くなったきみの恋人が任せられていた店の従業員は一新されたがその六名を野に放ったわけじゃない、別の場所で働かせていると見マル暴が動き確認された、ここから数分名義人の怪しい古い台東クレメントホテルがその一つだ。女が云う、音がしたって云ってたの、同居してた練馬区の部屋に帰ってくる前、寂れた神社で釘が打ちつけられる音がって、洋次が五寸釘の刺さった頭で見つかったのはその数日後。立岡洋次、被害者である。きみの勇気をもってしても、この事件は闇に消えるはずのものだった、いざこざだったと、警察は従業員六名に犯人はいないと結論したが、以前貰った名刺からきみが働く店へ出向いた、地下案内人に未踏の飲食があってはならないからね、敬済が涼しげに笑う、それできみの依頼を受け、仕事として台東区にやってこれたわけさ。只の、違和感、貴方のお子さんの。盗み聞きしながら永易彩芽が思う。この男も魔に魅せられている、それは、去った前妻に潜んだ深き魔の影であるに違いない。

醒瞼

 市川忍の覚えざる幼馴染永井彩芽の懐には視えてしまった世界を一変させる望みの痕跡伺える和紙潜みその鼓動激しく、冷えた壁の横で一夜を明かす。街は無音だ。体育教師逮捕に発展した事件は騒々しく学校から生徒へ向けた説明一切なく浅草にある和楽器専門店から出ても渡邉咲の表情暗く、音楽なき領域のたべもの屋で、クラスメイトの市川忍に今度の日曜は世田谷の和楽器専門店に行こ伝統芸能の深淵に触れたいのと話す、だってさ山岳で大量の釘が飲み込まされたご遺体の事件なんて只の拷問よ、そうでしょ。通り過ぎる外国人観光客を眼鏡越しに市川忍、父曰く、試写室の冷蔵庫に五寸釘が刺さった男の頭部の事件は相当裏社会との係わりが深いってさ。だったら尚更、日常の世界はどれもこれも散文的で、つまらないわ。よぎる解決した別の二つの釘事件。釘継ぐ釘、然れど関連もなく。考えてみれば咲との初デートなのに散々だ、と滅入る。咲が、でも和楽器見たし浅草は非日常的で好き、と云い、それにすかさず同意する。直後、闇が全体を覆い、どこからともなく声が突き刺さる、きみの父が昨晩からここら辺に来ているだろう。その声、市川忍のもう一つの人格、仟燕色馨へ、俺たちが今日の日曜に浅草へ行くことを教えたら突如告げられたんだ。きみの父敬済から視た台東区はどのような様相か、以前きみの口から父に台東区を記憶付けたが故にきみを心配している、何故なら、試写室の犯人がここに潜んでいるからだよ。なんだって。市川忍は別の点でより腑に落ちなく、それを闇へ向けて告げる、俺の父はクズだ、俺の心配なんてする筈がないよ。それでも闇が晴れ仟燕色馨の言葉に従い仲見世通りから雷門へ歩く。その雷門では二時間前から忍の父敬済が黒髪の女、三条采伽と台東クレメントホテルの話をしている。ルームサービスで食事を持ってきた男は確かに試写室の元従業員だった、警部補の話では解雇された六人の従業員は皆素朴な印象で冷蔵庫は受付とは別の階にあり一日二百人以上いる利用客の侵入はたやすいという結論だ。息子さんに携帯で連絡とらないの。避けるだろう、それにほら見なよ浅草なら雷門は通りがかる、笑う、末恐ろしい、もし息子が事件を犯しそこまでクロ扱いじゃなかったなら素朴だと簡単にマークが解かれるさ。

 試写室五寸釘事件の犯人である小佐渡一富は、店長の女、三条采伽に恋していたという。店長こと立岡洋次は事があった時は事実を問わず出頭する役割を担った強面の坊主頭、二の腕に刺青が見える男で従業員への八つ当たりは日常茶飯事、黒髪ミディアムの外ハネパーマ三条采伽と個室へ消えること多く、外部でも喧嘩の多い男で知られている。さて、小佐渡一富は土地のみ残った岡山加賀郡は祖父の庭から百五十一と五ミリである大量の錆びた五寸釘を掘った故、釘の入手ルートさえ当然解明されていない。立岡洋次が仕事終わり必ず寄る練馬区某スナックから三条采伽の住む部屋までの帰宅ルートにある神社で小佐渡一富は丑の刻参りの正装をもって立岡洋次を呪い、藁人形はコンコンコンコンと釘で打たれたが、立岡洋次がスナックの女を深い刻その神社へ連れ込むことを熟知していた為、目撃されるは必然、目撃されれば呪いは返ってくる、それを防ぐ手立ては目撃者を殺すことである。雨去り霧がかたちをぼやかす丑三つ時、御神木に囲まれ冷えた汗滲み幾度と金槌を振るうさなか、枯れ枝踏む音あり。恐怖か、背後に何してると怒鳴り声あげる女連れあり。其処にはしてやったりの思い無く、小佐渡一富の心は底視えぬ無、現世にない所作で駆けて数時間歩き自宅アパート迄。その鏡に映る顔、反面素朴、反面鬼と化し、握り締められた五寸釘は後日、切り取られた立岡洋次の額に打ちつけられることとなる。犯行はどうしたわけか独りで現れた同神社であり、立岡洋次は枯れ枝で何度も転び、それを襲う影、人のものでなく、黒い死者の血、鮮やかに空を舞う。一時小佐渡一富に成り変わった其の鬼、祖父の庭に埋まった釘に由来する。小佐渡家は祖父の代まで呪い釘を供養する任務を負っていたが、幾百年の釘に備わった業は底知れず、事実家系に不幸多く、祖父の変死を最後、任務は封印されたことが知られている。仟燕色馨は、と市川忍が雷門にて父敬済に云う、犯人はその理性に関係なく近日再び事件を起こすと言っている、これは、連続釘事件になると、密室そのものに釘が刺され棄てられたわけだよと。警部補と親しい父敬済に話し事件は解決すると仟燕色馨は考えていたが、これらの陰にいた永井彩芽がそのとき揺れ現れる。

街潤

 煮込み通りの座席にて微酔う者たちは刻も暮れかけていた故幻想の如し。やがて再び歩く伝法院通りでは市川くんのお父さんに会いに雷門まで出向いたみたいと同級生の渡邉咲。父敬済曰く警部補高橋定蔵は通話越しに驚いていたが現在総動員で動いている為に上野署の人間を件の台東クレメントホテルへ向かわせるとのことで、為せることは皆終えたかのようだが、この二人の足先浅草演芸ホール手前で止まる。渡邉さんはこのまま駅へと市川忍。夜にさしかかる街に光る提灯。正気の沙汰じゃないわという渡邉咲の声色はまるで活き活きとしておらず、それは裏社会が絡み鬼まで居る現場へ出向こうとする市川忍を心配してのことでは全くなく、理由は低血圧以外の何物でもなく、髪の明るいショートカットのその女は常日頃よりむしろ元気でこう付け加えるのだ、仟燕色馨が魔の巣窟に飛び込み逸早く猟奇事件を解決するのね、素敵、頑張って。外灯のせいか、輝く瞳を見せる渡邉咲の表情の艶やかさに市川忍が面食らう。一人街歩く。雷門で父が警部補に電話をしていたまさにその時、美青年永井彩芽が揺れ現れ耳元で囁いたのだ。台東クレメントホテルの裏口は古く、彼の言葉通り鍵が壊され、足元に津軽三味線の天神の欠片。冷えたノブに手をかけた時、そういえば、と仟燕色馨の声、以前の俳句の点はどうだった、それで市川忍は戸惑い二十二点だったよ、その句だけで前後の文脈が読み取れないってさ。深い無音の底から、きみと共にした初めての行いであり愉しかったがそれが残念な結果なのは仕方ない次は先生を見返したい所だと響きノブが回されると暗い通路の先に一点光漏れるドアあり其処から男二人の話し声。市川忍の意識が揺れる。この先に五寸釘を生首に突き刺した殺人犯がいる。何故今自分は此処にいるのか。薄ら寒い通路の蛍光灯もついておらず、浅草という地を踏むことも初めてなのに古びたホテルの中に忍び込んでいる。仟燕色馨が東京国立博物館へ出向きたいと言ったのが発端だ。吸い込まれるように部屋に入ると、誰だ、ガキか、と巨体で腹の出た気の弱そうな男が云う。もう一人は丸顔ソフトモヒカンに整えた髭のある男で吸っていた煙草の灰を灰皿に落とす。雷門での囁き通り、二人の従業員が出退勤するタイミングである。

 三人の間で緊張が駆けるが、男二人をじっと視ていた仟燕色馨の瞳がふっと消える。脳裏、この二人ではないと聞こえ、市川忍は、すっすみませんでしたっと急いで外へ出、ほっとしながらカジョウシキカ帰ろうと告げるものの上野署の誰かが来るんだろうと引かない。やがてやけにぼろぼろの制服を着た警官が現れ、促され市川忍ですと声をかけると、きみが噂で聞く探偵さんかい、ほーう、どこにでもいそうな高校生だねえ、いやー失敬、私、上野署巡査妻夫木涼真、つまぶきりょうま、矢継ぎ早に喋りつつも分析の視線で市川忍をくまなく見続ける。市川忍はパトカーに乗り西へ。このホテルの者が犯人ではないという仟燕色馨を信じたのか。私、大久保試写室元従業員六人のうち台東区に来た三人の取り調べをしててね、彼らはあんな猟奇殺人を起こす柄じゃないと思うよ、詐欺の類は平気で手を出しそうだけど、上層階の闇カジノで何かあって被害者さんは損を被ったんだと思うなぁ。冷蔵庫の生首第一発見者とされる試写室従業員二人は横浜へ飛ばされたらしい。死の首が店長のものであるため連絡網に不具が生じ、結果首の行方は分からない。一方、警察は神社の池で首から下の遺体を引き上げている。市川忍は上野に近づく夜の雑然とした街を車窓にて。光は世界の闇をより際立てるのみ。目が潤み、眼鏡に指で触れる。仟燕色馨、と内へ向け云う、国会議事堂前駅で化粧材用の釘が刺さった女性の手首が落ちていたという事件、あれに最初関心を抱いてたけど興味を失くしたね、どうして。絵を詰めると魔より弱き心が映ったからだ、あれは人による事件と結論した、魔に、心などないからだ。上野署巡査は信号で車を停めるとちらちら後部座席の高校生を見る。へぇーこの彼がねぇ。市川忍の懐には天神の欠片ありその内部に発信機仕組まれ、停車したパトカーの一区画手前でタクシー停まりタイトな黒いジャケットを羽織った永井彩芽地に降り立つ。その様、琴の音のごとし。風なき闇に溶ける市川忍が目にした建造物は殺風景で巡査妻夫木曰く台東区に来た試写室元従業員残りの一人がここで寝泊まりしているという。その名、小佐渡一富。渡邉咲とデートしに来ただけの筈の台東区で、未知の空気に取り巻かれた市川忍が只々立ち竦む。

魔弦

 犯人は、僕だよ、という言葉を耳にし、投げ渡された津軽三味線の駒。巡査妻夫木パトカーから降りた直後の幻影に正気を見失う。三間、離れて立つ美青年、永井彩芽の姿は、一と八の連鎖に一弦琴絡まり、遠く秋田の吹雪迄。かつて燕(えん)なるサロン常連であった在原基平は平成なる元号の只中訳有り孤独に旧暦守り、黒き犬の声、雪と戯れる静かな家屋、古典緊縛の文献に目を通す。朝刊を開き柱に凭れる美青年が見ているのは東京で起きた事件の記事である。静かなる在原基平を背に吹雪く庭へ出、犬撫でる。さァ家へ入りなよ。ところが犬は元気に雪踏みしめあちらこちらへと駆け回るのである。夕食の刻、静寂を伴にし箸を扱う在原基平に、東京へ転校したい旨を美青年は告げる。傍らに一弦琴あり。やがて我が校と掴んだ高校に、燕なるサロンの幼馴染、仟燕色馨を秘める者の姿を認める。アパート一室では和紙一杯の手書き図の束。高校では図書室でネットに接続しスマートフォン片手にペンをとり秋田で知った事件を調べる。ある時、美術室にて文化祭に出展されると云う精巧な等身大の手作り人形相手に、その皮膚に微かに触れる程度の所作で、幾本もの釘を操り、美青年の瞳は燕にて瑞々しい幾らかの女体に釘這わせる過去の記憶重なり、サロンの女、梢子に拾われ、仟燕白霞なる男に匿われた過去まで遡る。その男、音鳴らす津軽三味線によって、充てがわれた女の柔肌に釘刺そうとする美青年否美少年のからだ操り、しんとした間にて、精神に釘打ちつける流儀学ばせる。野犬のごとき美少年、理由なく釘を刺したかった女のからだを釘もって愛す。美術室にて、部員ら佇むなか異界に鳴る弦は琴に移り変わりすっと九本の釘、人形に刺す。部員の一人、中河原津久見に冷えた目を送り、その場を去ったのだ。だが、美青年永井彩芽は思う。この愛か業かは一個の体成す内での陰陽にすぎない。師、仟燕白霞の襲名を受けたあの幼馴染、色馨は、如何程のものか。いや、その魂が真であることを知るのは怖い。それは自らが襲名を受けなかった事実をより確かなものにするのだから。そして虚言操り、巡査妻夫木足止めし、その隙きに一人、犯人いるらしき建物へ歩む、色馨の襲名受けた高校生市川忍を冷たい目で見送る。

 薄ら寒い通路の蛍光灯は矢張りついておらず、浅草で忍び込んだホテル同様、ここ上野で忍び込む建造物も変わらず、雑に建てられて雑に扱われた匂いが篭り、市川忍の脚震え、三間、離れたドアから漏れる光迄なかなか辿り着けず。仟燕色馨、と脳裏に囁く、怖い。すると、心臓が突然ばくばくし、雹だ、雹が舞ってる、と声が聞こえ、巡査妻夫木に投げられたモノを見たか、津軽三味線の駒、思い返せば天神、糸巻き、上駒、最初に拾った欠片は東サワリだろう、棹や胴を除き、永井彩芽は我が師を思い起こさせるに足る津軽三味線の各部を投げてよこした、あのサロンに漂う気配をまだ思い出せないか。受けて、あの向こうに確かに犯人がいるんだね。やがてはめ込まれし磨り硝子より漏れる明かりは市川忍の頬に、掴んだドアノブの冷気は甚だしく、隙間広がり、目に飛び込む簡素な事務所の窓際、黒縁の眼鏡かけた中年男性が一人デスクに向き腰掛け、音のしたドアを脅えながら見やる。誰だ、というその声、弱く、一方、市川忍もまた恐れ、脳裏へと、仟燕色馨、言葉ならずも、もう受け止めきれない、恐ろしい、そのような思い駆け巡り、ふと見た男の足元には寝袋。最早呼吸ままならず、それは両者変わらず、だが一手早く、市川忍の足取り突如、軽快に。つかつか中年男性に歩み寄り、弱き男よ、魔に殉じたか。室内で荒れ狂う幻想の降雹あちこちのデスクを叩き、男、白々しくも、一体私に何の用が、と云うも、その表情、すでに能面のごとき。さらに奇声。市川忍のからだ借りた仟燕色馨、何故か転ぶ。ばたばた追って事務所にやってきた永井彩芽は目に涙溜め立ち竦むが、それを押しどける巡査妻夫木、息を呑み、呟く、この二人、誰だ。そこから遠く練馬区の一室、窓の外を見、猫が鳴く。小佐渡一富によって生首にされ額に五寸釘打たれた立岡洋次の恋人だった三条采伽の側で猫がじっと窓の果てを見ている。上野の事務所では落ち着き払って転んだ高校生立ち上がり、その耳には一つ、二つ、三つ、四つ、津軽三味線の音が増え重なり、鳴り渡るは無限奏。平面と化した場面パタパタと折り紙のような中年男性に近寄るその瞳、ガラス玉の如く。人に取り憑いた鬼よ、紙やぶるように命諸共この手で引き千切って仕舞おうか。

発釘

 句連なり白土など混ざった楮紙により平面と化した其の場面、命奪い切り取った生首に五寸釘を刺した事件の犯人小佐渡一富へ向けて、仟燕色馨が静かに云う――釘香るうちつけてさえ風花や――幻影の雹舞う事務所一室は途端晴天なり、彼方から風で舞った小雪ちらつく。奉書紙のからだで犯人小佐渡が脇句を詠む――破れ柔肌さわり吹越――一面転じ闇に浮かぶは百本の御神木、地面は泥濘み、仟燕色馨がよろめく。よろめき、大声でククククッと笑う。何やら只ならぬ気配をのみ感じ両者を見守り佇む上野署巡査妻夫木の脇を潜り抜け美青年永井彩芽が去る。手を掴まえ止めたいところだが巡査妻夫木は殺風景な事務所での異変から目を離せない。永井の同級生市川忍がデスク前に座る容疑者の中年男性と向き合っているだけの視界。しかし、と巡査は感じ入る、何度も事件の在った現場へ出向いたことがある、どこもがなんてことのない一室だったが、残酷な時はここで折り重なったのだと信じざるを得ない澱んだ邪気にいつも打ちのめされ煙草を吸いに外へ出たさ、あの感じだ。市川忍の体成す仟燕色馨、更に詠む――陽炎か見愛では恨み魂もなし――御神木並ぶ光景晴れ渡りちらちらと雪混ざりそれを受けて――情人亡くせど詠むか河迄――一斉に御神木に藁人形が浮かび上がり釘突き刺さる。三百本の蝋燭現れ釘を打つ百の冷たい音は、それの聞こえない巡査妻夫木の肌までびりびりと襲い吐き気さえ催させるが、凍りついたガラス玉の瞳で仟燕色馨――秋時雨皮膚に垂れる血月灯り――蝋燭を頭に立てた百の影が折り紙の人と成り変わって犯人小佐渡、いつからか立ち上がり其の容貌、半笑いだが色づくは雹、黒縁眼鏡曇り――動き止めるは色鳥の首――山奥の紅葉は棄てられた神社の脇の小屋、加賀郡は小佐渡一富、実家の景色である。打たれ続ける五寸釘は百年を越える古さの物も有り、藁人形は粉々だが身を捩らせる。黒く霧となり吹き出す百の業が犯人の流れる血となり、泥濘みのあった地から百の呻き。無論、巡査妻夫木に、それらは聞こえない。黙したまま向き合う両者に何も出来ず、それでも理解している、このままでは、どちらかが殺される結末になる。あの頼りなかった高校生もまた、保身から化身のままで「一歩も後に帰る心なし」。

 捜査令状を持った警部補の高橋定蔵が、理科教師東川玲花の自室に現れる。黒髪ストレートロングを櫛でときつつ眼鏡をかけて、体育教師紅井洸の件でしょ、と冷たく返す。こんな令状なんて要らないんだが事件が事件だからね、と警部補、彼はきみの身に危険が及ぶことを恐れて死体隠蔽に二役買ったのさ、束感ショートスタイルの若い警部補が差し出された紅茶に口をつける。土地開発問題でトラブルがあり、問題解決が政治家の手から離れて盥回しになった挙げ句、二人が殺される結末となった、盥回しはこう螺旋状に下がっていって、と妙な手付きをし、地下へ潜り一人の億り人を巻き込んだ、それが紅井洸だ、一つは山岳の小屋で大量の釘を腹に含み埋められたが、実行犯は発見翌日に逮捕された、これに関わったことときみに好意を抱いていたことを脅され、もう一つの死体処理を改築されることとなった体育倉庫に選んだわけさ、雨続きのなか、解体業者も準備され、彼は逮捕されても実感を持っていない、死体を見てないからだ。東川玲花は、机にあったストレプトカーパスの花びらを指でなぞる。紅茶を飲み、それをテーブルに置き、重要参考人になるほどの情報は持ってないかな、あの先生とは学校でしか親しくしたことないし、表情一つ変えず、馬鹿な男よ、私を守ってロマンチックな気分に浸ってるの。警部補高橋定蔵は立ち上がり、もし何かあったらまた来るよ、下の者かもしれないがね、これ、ごちそうさま。振り返り、きみと私とで紅茶の種類が違ってた、普段から来客があればそうしてるんだな、良いこだわりだ、ついでに相手が信用できるかも確認してるわけね、疑われるかもしれないのに芯が強い。マンションを後にし、山岳の釘も、国会議事堂前駅の釘も、神社の釘も、解決し、試写室の生首の五寸釘も裏カジノの線で確定だろう、だが、市川忍の父から上野がどうとか言ってたか、俺はオリンピックの件でからだが足りない、釘の連なる事件が起こるという悪戯電話が東北から東京にかけて数件公衆電話からかかってきたのが釘に固執した発端だ、結果、俺は猟奇事件に心を奪われ、釘の事件を集めただけだ。高橋定蔵は、どいつもこいつも散文のような事件を起こしやがる、と寒空に目を。次の現場へと急ぐ。

遙幻

ほーう、これは見事だ。巡査妻夫木、徐に懐からの煙草に火を。夜の殺風景な事務所で立つ犯人小佐渡一富は黒縁眼鏡、ダークブルーを基調としたネクタイは斜めチェックの柄、以前取り調べで聞いた趣味キャバクラ等、五寸釘を額に刺した生首を冷蔵庫に入れた犯人と到底結びつかなかったが、今、魂この現世に無し、揺れる人の影のみ、輪郭見定められず、向かうは臆病な高校生市川忍、微動だにせず、そのもう一つの人格、仟燕色馨の意識には周囲取り巻く光景、加賀郡東豊野神社側の池の奥にある木々に囲まれし沢の側、既になき枯れた御神木が百と立ち並び百の藁人形が百の手で釘打ちつけられ絶叫をこだまさせ、雹舞い、小佐渡一富幼少の姿、祖父の葬儀と、小屋にて供養し切れなかった呪い釘の束を両親が木箱に入れて庭下に棄てる情景、一転、冬の田畑広がる脇に続く枯れ枝、霞漂い、帰省した中年の小佐渡一富、ままならぬ転職中に入ったバイト先グループの闇から逃れられず、人格支える筋無し、庭土掘り、湿った木箱に指先触れる。その先の光景、幾百年の怨念の束。それらが仟燕色馨をどっと取り巻き、何か云おうとするも、喉に枯れ葉詰まったかのよう。現世の隣で蠢く影の数々が朽ちかけた釘を手に、それらを見て、ああ、と想う。これは幼き頃、我が母の手のひらから感じた冷たさに似ている。自らの血にそれを認めたのかもしれない。その度恐れ、尚、我、それを操る技術知りし。この男は、それと違う。空洞だ。故に百の影とり憑き、彼岸にて道もなく、めくるめく絶命のもとで、声も無し。沼のごとき床に体支えきれず仟燕色馨、よろめく。もう一度、我が母、市川、否、諏本絢香と時を過ごしたかったと想う。百の朽ちた御神木に囲まれ、釘叩く高音も百。かかとから滑り、背から倒れる。後頭部を強く打ち、かけていた眼鏡が飛ぶ。その変化にここまでずっと見守るのみの巡査妻夫木、息を呑む。依然、金縛りのごとく、動けず。仟燕色馨の意識が飛ぶ。直後、視界、すべて消え去り、ひんやりとした殺風景の事務所である。後頭部に手をやり、市川忍の目が醒める。目前、徐々に人の姿浮かび上がり、仟燕色馨が犯人と認めた男だと気づく。その男、相対していた学生を突然見失ったかのごとく、百の動作で眼球を動かし続け、その異様にたじろぎ、腰を床に落としたまま、一刻も早く逃げようと思うが、裏腹、立ち上がると小佐渡一富の眼前まで近づき、軽く突き飛ばす。巡査妻夫木が取り押さえにやってくる。

カジョウシキカ、おれはときには、きみに勝ちたかったんだ。大量の発汗とともに、意識を失う。

翌日、晴天。運動場での朝礼から渡邉咲が帰ってくると、教室に一人、市川忍の姿。それで、とても嬉しそうに口元に手を当て駆け寄って、貴方のお知り合いと貴方が言い張る仟蒸色馨がまた事件を解決したのね、対し、市川忍、仟燕色馨の眼にはこの一連一体どう見えていたんだろう、盲目の恋に突き動かされていたかのようだ、死さえ予感していたんじゃないか、俺を道連れに迄し。沈黙短く、秋に転校してきた美青年永易彩芽、久方ぶりの登校により教室内ざわめく。永易彩芽は想う、仟燕色馨は、その命よりも欲するものを視ていた、台東区で、と。学内では、体育倉庫の死体、体育教師の逮捕の話題絶えず、三限、理科教師東川玲花は坦々、卵の絵を黒板に、生物の多様性・共通性を説明する。後日、試写室生首事件真犯人所有のスマートフォン消去データを復元すると、被害者恋人女性の職場、帰宅ルート、趣味、月の行動パターンなど細かく浮かび上がり、JR上野駅のコインロッカーから古びた五寸釘詰まる土臭い木箱が発見されたという。容疑者は計画的犯行と見做されながらも入院措置がとられたことを父敬済から聞かされ、市川忍は脳裏に促され、自身の手のひらを見つめる。父と別れた母のことを口にしようとしたとき、呼び鈴鳴り、着物姿の珠季静かに現れ、父敬済は無言、津軽塗の黒地に白い桜が控えめに描かれた高さ一尺程のテーブルの上に縄を置き、手入れをはじめる。市川忍、その場に背を向ける。ゴムクラスタのアカウントを。闇が粉のよう、いつか、充満するラテックスの香り、四方八方、ゴムの密室へ、そう呟く。きらきらした瞳。市川忍、手にパウダーをつけて黒いゴム手袋を装着する。


・ 著者後記

それら一連を知る市川忍の瞳、切り替わる、一連に雹を視る仟燕色馨の瞳。

雹色

この小説には、独特のリリシズムがある。

改めて読み返してみると、恐ろしい物語だ。

幾らかの伏線未回収があるものの、圧縮形式の断片小説というスタイルにおいて、全体像は、概ね問題ない。

全十二話だが、折り返しての第七話、色馨誕生という過去エピソード辺りまでは坦々と話が進み、読者は、いつの間にか作品世界の只中にいる。散文の世界が、釘の刺さった物語に変貌する。

フリーペーパーでの連載ということで、初めて手に取った方でも楽しめるようにと、ある程度一話完結を装いつつ、読み通せば一つのまとまった物語になるように仕組んでいる。

文体模索の過程でもある。なので、掲載時のままで、再推敲はしていない。ちなみに、第五話「連釘」のみ、フリーペーパー掲載直後に大きく推敲を加えている。

短編「蒸身」をプロトタイプとした色馨シリーズの本格的な第一作だが、現在連載している第二作「蜃気楼の境界」編の方が時系列的に一年前であるため、以前このようなことがあった、と「散文に刺さる釘」編で仄めかされている幾らかの事柄の伏線も第二作の方で回収されるだろう。例えば、

警部補か。という声に、そうだね、きみが昨年に事件解決の糸口を示して以来よく来るよ。

霜走

という箇所など。

主人公市川忍は、色馨との二重構造を別にすれば、最もキャラの立たない主人公であるように心掛けている。元バスケ部の高校二年生、まだまだ青春真っ只中、未来のヴィジョンも弱く、人生の模索に振り回されている。話の途中でイメチェンする(ヴィジュアルが代わる)。LINEの通知音は、なぜか雅楽の笙の音(和楽器が好きなのは、渡邉咲の方だ)。父との葛藤もあり、内にただならぬ業を潜める彼は、必死で生きている。

この小説は、何のツテもないが、アニメ化して欲しいと思いながら描いていて、そのイメージは、アニメ化の方は観賞者に親切な描写、原作でさらっと流している辺りの補填もされる、アニメから興味を抱いた人が原作を読んだ時、凝縮されたいわゆる圧縮小説を読むことになって面食らって欲しい。実験小説は、そのような形で生存できるのではないか、という青写真だ。

自分が通常作る小説と、この色馨シリーズは、かなり違う。だが、エッセンスは同じだ。散文と、釘の刺さった物語との、反転。いつの間にか、魔の、闇の深みへ、入っていくこと。

何故今自分は此処にいるのか。薄ら寒い通路の蛍光灯もついておらず、浅草という地を踏むことも初めてなのに古びたホテルの中に忍び込んでいる。

街潤

さらに、血統の問題。

不明瞭性に関する実験性。

奇妙な構造。

現在進行形文。

何より、魂を喪失した人の末路。

この色馨シリーズが、もっと読まれることを強く望んでいる。フリーペーパー「渦とチェリー新聞」での寄稿依頼がなければ、決して作られなかった物語。この新聞を編集発行しているチェリー木下さんに感謝をしている。

そして、自作小説掲載の場が増えることを望んでいる。自分は、小説を作るのが、とても好きだ。

面白く読まれた方がいれば、ぜひリアクションをして欲しい。


・ 関連資料

登場人物のイメージ図

連載中の小説紹介

仟燕色馨シリーズの登場人物全一覧

http://lineunder.blogspot.com/2017/12/blog-post.html

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