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心の病を抱えた高齢の母と二人で暮らしている

「最近、お星さん見てへん気がするわ。なくなったんやろか」

「夜寝とうもんな。夜は、今も出とうで」

ありがとうと言う

ある冬、だ。

母の通院で空がすっかり暗くなった。母には、1人で出向ける病院と、そうではない病院の二種類があり、後者の場合、自分が付き添う。タクシーを降りて、家の門の前でふと、星が一つ瞬いていることに気づいた。

「お母さん、ほら、星あるで」

「ほんまやねぇ」

「あっちにもあるで。よく見たら結構あるな。いっぱいあるで」

不思議そうに母は空を見上げている。

母は、一見何の変哲もない、心穏やかな女性だ。

思春期から心療内科に通っていて、いつしか精神分裂に陥り、二十年ほど前、我が亡き父に精神病院に入れられて、ときおり様子を見に行ったが、明らかにそこにいる人たちとは違い、普通に見えた。壁の側に日中佇んでぶつぶつ独り言を言っているわけではないし、誰聞くともなく紅潮しわあわあ言葉を捲したてているわけでもなく、病床でゆっくりしていた。

確かにここに入る前は、ヒステリックで壮絶だった。

だが、早くもここにいるべき人間ではないと感じ、父を説得し、退院させた。結果、家庭に再び悪夢の磁場が生じ、父は病に倒れて死に、ドミノ倒しのようにときおり顔を見せにきていた母の妹が死に、自分の妹が若くして自害した。そして、母と自分だけが残った。

次は、自分の番だと思った。

母より、業が強くなければならないと思い、結局のところ、それに成功した。母は、世帯主となった自分の作る環境のなかで、穏やかになった。

母には趣味がない。

高齢になったので、母が認知症になることを恐れた。母が認知症になると、かつての悪夢の言動が、理性のたがを外すことで目覚めるのではないかと恐れた。そういうこともあり、家事をできるだけしてもらうようにしている。掃除、洗濯、料理、ゴミ出し、などなど。自分は数日家をあけることも多いので、そのときは、出先から「元気にしとう?」と電話している。

電波的なものとときおり戦っているので、しんどそうにしているときは、無理せんでええで、と声をかける。できるだけ優しい声で、今日はなんか適当に買って食べるわ、というが、ドライに伝えてはならない。料理は、母と自分との大きな接点でもあるからだ。

料理を作ってもらったあとは、必ず「おいしかったで。ありがとう」と笑顔を見せていう。

すると、母も「ありがとう」と笑顔でいう。

時代差を同時に体験している

母は、ある時期、槇原敬之がSMAPに提供した2002年の大ヒット曲「世界に一つだけの花」が好きだった。

趣味がないので、テレビの存在が救いになっている。

母は、携帯電話を「メール」と呼ぶ。

世間についていけないことを不安に思っていて、「メール」がほしい、と言ったので、ガラケーを渡してみたが、結局触っていない。

母にとって、インターネットは、役に立たないどころか存在していない。

デジタルネイティブが高齢者になるまで、テレビ>インターネットという価値の基準に、転倒は生じないと思っている。

その頃には、別種のパラダイムシフトが起きていると思うが。

5年以内に、文字通りコンビニエンスな物販店は、大方セルフレジになるだろう。母は、徒歩数分のローカルライクなパン屋くらいでしか物を買わなくなって久しいが、将来、そういう場所でしか、買い物すらできなくなる。

無人コンビニAmazon Goくらいになれば、大丈夫かもしれない。

とはいえ、付き添うことで、スキルを学びもする。

敬老パス(敬老優待乗車証)を手渡し、改札口で、発声しながら、かざすポイントを指先で、ここ、と示すと、それを使って母は駅構内にはいれた。

敬老パスのチャージまではできないが、何度も一緒に改札を通ることで慣れてきたので、

「簡単になったやろ」

というと、

「楽ちんな時代になったねぇ」

と少し笑顔を見せる。

感謝の気持ち

一番大事なのは、心、マインド、だと考えているので、色々考えた結果、昔はまあまあ馬鹿にしていた強フレーズ「にんげんだもの」で一躍時の人となった相田みつをの書から「ありがとう」のマグネットを買い、電子レンジ側面の、見えやすい場所に付けている。

感謝の気持ちを伝えることを重視している。

母にとって、無理なことは、絶対無理だ。

通院の付き添いのときに、必ず飲食店に寄って、何らかの時間を作ってあげるのもいいと考え、喫茶店に入ったが、頑なに欲しくないと主張され、結局複雑な心境のまま、自分だけが食べた。

だから、母が行きたいと主張したときだけ、寄るようにしている。

母に趣味はないが、交流関係も、シビアだ。

合う人がとても少ない。

なにか嫌だと思えば遮断する。

自分も引き継いでいる母の遺伝子は、独特だとずっと感じてきた。ただここ数年は、もしかすれば、家系の宗教的な要因もシンプルな影響としてあるのではないかと考えるようになった。

母の曽祖父(ひいおじいちゃん)はドイツ人だ。

詳細はまったく追えていないが、単純な想像として、きっとそのドイツ人はキリスト教徒(と、もしかすれば実存主義)の影響下にあるだろうから、一神教の世界観のモラルのもとで、母の祖父も、母の母も、最低限の生活習慣を当たり前のように身につけていた可能性は高い。

日本での世間ずれとの格闘は、日常だっただろう。

母の母、つまり自分の祖母は、読書家と結婚した。

幼少の自分の部屋には書棚があり、夏目漱石「吾輩は猫である」などが並んでいた(幼い自分の目には、そのタイトルしか記憶にない)。

文学だ。

文学は、世間にどこか迎合できない人間が踏み込む、仮住まいだ。

自分が気の合う人間は、母の気にも合いやすい。

そうやって、母が警戒する大多数の人間、ではない人たちを、ときおり家に招けば、母の孤独も少しは安らぐのではないかと思ったりする。

しかし、母が一人でも通院できる近所の歯医者のように、高齢者の憩いの場のような、高齢者だけで出来上がったコミュニティの、そこにいる人たちの優しさのような空間が、母にとって最も大切なことではないかとも、思う。

偶然にも、母が通院している病院の数々は、母と合う場所ばかりだ。

本当に助かっている。

もしそうではなかったら、引っ越しを考えるべきだろう。

住環境一つで、世界は、天国にも地獄にもなる。

簡単に。

例えば、造花作りの教室をしている先生などが、母と気が合う前提条件のもとで、月に何度か家にきてくれるなどすれば、これまでのことが嘘であったかのように、母は、趣味を持つかもしれない。

そこから、もはや想像もできなかった状況、母が自発的に趣味のために動くという未来も、生じるかもしれない。そのように、自分の単なる行動力の低さや諦念を、負担にならない程度に、戒めることもある。

生きづらさを知る

自分は、「生きづらさ」をあまり実感したことがない。

過去にはあったが、すべて、自分の力で塗り替えたので、なんとでもなると思うようになって、長い歳月が経った。

行動力と社交力とユーモアと個性があれば、なんとでもなる。

行動力は、躊躇する思考をいったん消して飛び込み続けていくうちに、勝手に備わる。社交力は、社会的なポジションを経験すれば、最低限身につく。

これらは、初期パラメータがあまり関係していないと自分は思う。なぜなら、自分は、ごく少数の人間としか付き合う気が本来ないからだ。にもかかわらず、多くの人たちと会ってきたし、その時間は、とても良い。

スキル、知識も、上と同じ、反復訓練の賜物だ。

個性は、チートみたいな初期パラメータだ。

だけど、個性は強いほど社会と迎合できなくなるので、ないように感じるからといって悲観するのは無意味なことだと思う。SNSの時代以降、個性は、他者が勝手に感じとるだけの代物だ。もともとそうだったが、ネット以前は、出会いや成り上がり方のルートが限られていたので、個性を自己プロデュースすること(ブランディング)も強カードだったと思う。諸刃の剣だったものが、今では大方は負のカードだ。個性がある、それは、私たちとはなんか違う、という対応を生む。なにより、個性は1990年前後に生じた幻想だ。

自分らしく楽しく生きればいい。

他者が勝手に感じとるだけの個性は、勝手についてくる。

その地点が当たり前になっている人が、ブランディングをすることが自分にとって価値があるかどうかを、考えるべきだと思う。

ハリボテの個性を見抜けないほど世間は馬鹿ではないし、世間はすごいですねーと適当に相手しながら、心のなかでダサいやつと思っている。逆に、見抜けない人たちが集まったコミュニティは不毛だ。

脱線したが、ユーモアが一番、磨くべき要素と思う。

厳しいことがあっても笑いに転化する。

笑い話にするということじゃなく、ひょうひょうと、しれっとしていく感じだ。セクマイ問題もまた自分にはあるが、その問題意識も遠い。

だけど、母とともに暮らしていると、確かに「生きづらさ」というものを実感する。本人が直接受け取り場へ出向かなければならないので、マイナンバーカードすら母は持てない。国が本気でこの制度のことを考えているのであれば、役員が直接届けに行く選択肢が現れる仕組みを作るべきだ。

母に関することを少しまとめようと思ったきっかけは、まずこのマイナンバーカードの一件があった。

単純に、車の免許をとろうと思った。

そうすれば、母を連れていける。

車の免許は、自分にとって必要性がなかった。郊外に住んでいるので、例えば交通、郵送、日本のインフラレベルの高さは、車が娯楽以外のものではなくなるし、自分にとって、車の娯楽は上位にない。

はじめて、必要性を感じた。

母は心情的に、バスに乗れない。だが、去年のコロナ禍で、通院の付き添いで重要だった近場のタクシー会社が一社倒産した。

コロナ禍の直前、母にとって重要だった耳鼻科が閉院した。

状況に対応していくのは、母ではなく、自分だ。

この記事のトップにある画像。

TVガイドを写している。

数年前、母が新聞を読まなくなり、番組欄だけのために新聞をとることが無意味に思え、かといって、母に、デジタルテレビの複雑なリモコンを操作し番組欄を表示する一連の流れを理解することは不可能だから、考えた結果、TVガイドの定期購読を始めたわけだが、思いがけない問題が生じた。

母が、日にちが分からなくなったのだ。

そして、急速に、ぼけの症状が見え始めた。

一気に、気分が暗くなった。

まずは、様々なネットワークを収集するしかないと考えた。

2015年に母が長期入院した際、収入源などにまつわる生活環境を、自分は一度変えている。母と二人になった2006年からずっと続いている母との共生生活が、さらなる段階に移るのだと受け止めようとした。

新聞は毎日届く。

新聞で、母は、歳月と繋がっていたのだ。

カレンダーも、そうなってくると、無意味な絵柄となる。

しかし、どうしたかというと、日付表示のデジタル時計を購入した。

大きい数字なので母でも分かりやすい、表示がシンプルな、デジタル時計だ。毎朝、その日にちと照らし合わせて、番組欄をめくってもらうようにした。

高齢者にも分かりやすいデジタル時計はそうそうない。これと同じ問題として、市販のタイマーがデジタル化したことで、アナログ式のタイマーが壊れて以降、母は、料理の焼く時間などを、感覚でするようになった。その結果、料理の種類が減った。難しくなったのだろう。

何にしても、日付表示のデジタル時計に合わせ、番組欄を毎朝めくるという習慣を母に作ることで、母の時間認識は、復活した。

新聞購読をやめたことをきっかけに、母は、これまで出来ていたことが突然できなくなってしまったが、それが回復した。

介護という段階を、どこまでも先送りにするために、必要なこと。

それは、母という個人と、どこまでも向き合っていくこと。

通院のとき、

「今日はあたたかいね」「今日はちょっと冷えるね」「雨やんでて良かったなぁ」「今日は病院すいててあっという間やったなぁ」

そう話しかける。

「そうやねぇ」

と母は答えたりする。

「この格好おかしくないかしら」

あるとき、諦めていた通院後の食事を、母が求めてきたことがあったので、一緒にうどんを食べた。通院という強制力が必要だった。用事もないのに、どこそこへ気晴らしに出かけようと母にもちかけても、しんどいからいいわ、と返答がきて失敗する。

ずっと、ずっと、趣味も、友達もない母に、外の世界に気持ちを向けてほしいと思い続けて生きてきた。

一緒にうどんを食べた通院の帰り際。

母が、

「うどん、おいしかったなぁ」

と、楽しそうに口にした。

「病院行くん、遊びみたいやなぁ」

泣きそうになった。


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