サザンと桑田佳祐の歌
色々とやる気が出なくて、サブスク Spotify でプレイリスト「欲動/哀傷」を作った。サザンオールスターズと桑田佳祐の曲から66曲チョイスしたもので、自分にとってサザンとは?と振り返っていた。
PARADISE
1998年テレビ番組のミュージックステーションで「PARADISE」を見てサザンにハマった。この曲は問答無用で〈作品〉だと感じた。
下のYouTubeのリンクは、1998年のベストテン。Mステの方と比較しベストテンの方を選んだ。聴いてほしい。
ムーディーなダウンテンポで、そもそも好みなのだが、途中、
と歌われる箇所で、ヴィクトル・ユーゴーの有名な小説「レ・ミゼラブル」の邦題〈ああ無情〉引用の、歌への乗せ方に感動した。
〈ああ無情〉という言葉は、なんて格好いいんだろう、と思った。
桑田佳祐は〈ああ無情〉という言葉を、現代にクリエイトしてみせたのだ。
プレイリストの全体像
Spotifyで作ったプレイリスト「欲動/哀傷」の全体像をまず載せておきたい。なかなか、こういう風に並べる人はいないと思う。
上はリンク。
6つのブロックで、内容が分かれている。
主に、最初の2ブロックに注目し、この記事を作りたい。
片寄った選曲に思われるかもしれない。それは当然で、自分はサザンのオーソドックスなファンではない。サザンは自分的によくわからない曲も多いが、しかし、両手では足りない、数えきれない数の曲に強い思い入れもある。相当救われてきたと思うし、今もそうだ。サザンの歌でなければ届かない心の領域があるのは確かで、それは性愛と実存の組み合わせだ。
プレイリストを組んでいて、なぜ自分はサザンとそのバンドマスター桑田佳祐が好きなんだろうと何度も考察した。例えば、欲望渦巻く系の曲群を聴いていて、根拠はたいしてないがこれは都心の大衆的な夜の街の風景だろうと思う。若者的な渋谷やアングラな歌舞伎町の風景ではなさそうだ。基本的にサラリーマンのナイトライフ、その風景に混じって飲み歩く桑田佳祐が頭に浮かぶ。自分が生きてきたのとはまったく違う世界。とりわけサザンを知った学生時代の自分にはまったく無関係の世界(大人の恋愛的なものも)。
つまり、現実にある未知の世界の風景を案内してくれているような気持ちで聴いているらしい。夜の街ならまだいい。湘南とかサーファー(観てないが映画「稲村ジェーン」の印象が多分にある)とか、自分には全然無関係だ。それでも、確かな現実の背景があって歌が紡がれているのは分かる。
作品それ自体ではなく、それを成立させている文化の方に関心を向けているパターンだ。未知の世界への好奇心。例えば過去、村上隆の作品にどれくらい刺さっただろう。海外の現代アートの風や、現代美術業界のムードを知るためのツールとして関心を持っているだけの可能性がある。
ボカロ曲は色々と好きで、純粋に曲に刺さって好きなのだが、しかし、ボカロ文化という謎の神がいて、クリエーターは皆その預言者で、実は預言者たちの曲を通して神の曲の断片を聴いているだけの可能性がある。
「PARADISE」で初めて、サザン自体を聴くようになったのだ。
桑田佳祐個人の実存が奏でられていたからだ。
オアシスと果樹園
プレイリストの1曲目は、思い入れのなかったこの曲から始まる。
サザンの音楽の本質は何なのだろうと時折思っていて、今回もずっと考えていた。ビートルズなどのロック/ポップスの遺産の上で名曲を生み出し続けていて、真に新しいサウンド作りを第一に置いているようには感じられない。サザンというバンドは間違いなく唯一無二だが、それは結果論だ。
国民的ですらあるバンドなのだから当然だが、結局、〈歌〉〈歌心〉の良さが本質だと結論した。
今回のプレイリストは、ざっと66曲を選曲し、それを並べていく流れで作ったが、プレイリスト制作終盤のまだ余っていた曲の中から素直に〈歌〉であり桑田佳祐の熱情がメロディにまで染み渡っている「オアシスと果樹園」を1曲目に置くのが良いだろうと考えた。
知らなかったが、すごく良い歌だ。
経験II
2曲目になったこの曲が、もともと1曲目だった。
冒頭で述べたように、とにかく何もやる気が出ないなか、この曲を聴き(くだらねぇー)とちょっと元気になった。だから、プレイリストの導入はこれしかないと思った。露骨なエロを独特の言葉回し、ムーディーなジャズバラードで歌った「マイ フェラ レディ」のように、サザンといえばエロ(性愛大好き)と思っている自分がいて、だからサザンの1曲目はこれだろうと。
シングル「涙の海で抱かれたい〜SEA OF LOVE〜」収録、うたばんのオープニングソングで罰ゲームとして制作、とネットにはある。だからこれが1曲目にならなくて良かった。そもそも、1曲目がこれだと、女性を始め多くの人がプレイリストをそっと閉じるだろう。しかし、単にくだらない曲というだけではなく、曲の構成が面白く、ドライブ感がある。
この曲のアウトロの連想で、プレイリストに収録するにしてもこんな冒頭には置かないだろうという「OH!! SUMMER QUEEN 〜夏の女王様〜」さらには4曲目にサザンメンバー松田弘の作詞/作曲でヴォーカルもとる「遥かなる瞬間」という流れになった。
ここまで聴いてみると、あれ? サザンってこんなバンドだったっけ、という気分になるので、なかなか楽しい。
闘う戦士たちへ愛を込めて
5曲目「大河の一滴」ときたとき、このヴォーカルメロディの感じは「闘う戦士たちへ愛を込めて」と同じだと気づく。
「闘う戦士たちへ愛を込めて」を初めて聴いたとき、新鮮だった。
サザンのヴォーカルにおけるメロディの、新しい感じだと思った。
だが、先の「オアシスと果樹園」も同じ部類のヴォーカルメロディであり、わりと昔から歌われているタイプのメロディだと気づく。このタイプのメロディの類例を自分は知らない。独り、男がブランデーか何か酒を嗜んでいるような、坦々とモノローグのように言葉を連ねていく、奥底では明らかに切実なメロディ、そして歌い上げる、激情のムード。
この曲は、最初はPVで見たほうが良い。相当エモい。
愛の言霊〜Spiritual Message〜
大好きな桑田佳祐ソロの熱情的な名曲「銀河の星屑」のあと、代表曲の1つ「愛の言霊」が流れる。
昔スナックでは、誰も彼もがこの曲を歌っていたらしい。誰も彼もが90年代末、椎名林檎「ここでキスして。」を歌っていた印象があるが、そういう夜の街に刺さったメガ流行歌の1つだ。
桑田佳祐が築き上げた、和(日本)を重んじる言葉選びと、桑田佳祐が時折追求してきた言葉圧縮とが、見事に融合、妖しい別次元を生じさせている、結実のような曲。
なぜこのような言葉の世界観を歌詞のなかで創造できたのか。
1992年の11thアルバム『世に万葉の花が咲くなり』レコーディング中、万葉集を読み返し〈この言葉を我々はなくしていいのだろうか〉という懸念が湧いたと語っているが、なぜ日本文化ルーツとチャンネルが合ったのか。
ちなみに「愛の言霊」はセルフプロデュースが増えていく1995年の12thアルバム『Young Love』収録曲。このアルバムの前後、数量限定のベスト盤『HAPPY!』と大ベスト盤『海のYeah!!』をだしている。
桑田佳祐というミュージシャンは、根っこは神経質そうであるし、なにか現実とは違う次元を創造しなければきつかった人なのだろうかと想像する。このことが世界観に複数のパラダイムを生じさせ、現実世界での織り込まれる人と人との夜行、哀傷が組み合わさり、底なしを感じさせる。
ちなみに、1993年の『FACELESS MAN』で突如変貌し1994年に南米音楽をJ-POPに昇華した名盤『極東サンバ』をドロップしたバンドTHE BOOMが「島唄」を発表したのは1992年。90年代前半の時流も気にかかる。
恋のジャック・ナイフ
今回知った「JAPANEGGAE」、電気グルーヴのような雰囲気すら漂う今年2024年6月に発表された「恋のブギウギナイト」、サザンアルバム史の中で当時のナイトダンスライフが封印されているため重要なアルバム「KAMAKURA」からの1曲「Bye Bye My Love(U are the one)」と続き、サザンの中でも個人的にベスト5な曲「恋のジャック・ナイフ」がくる。
とにかくヴォーカルメロディがメロウかつトランス的で良い。夜の街を生きてきた自分は〈真夜中育ちの民よ頑張るのだ〉と締め括られるこの応援ソングが、素直に嬉しいし励まされる。
このあと「愛と欲望の日々」、先に紹介した「PARADISE」で締め括られ、プレイリストの第一部が終わる。
マンピーのG★SPOT
プレイリストの第二部は、アップテンポの曲がだーっと続く。「エロティカ・セブン」で始まり「イエローマン~星の王子様~」「01MESSENGER~電子狂の詩」。そして、
という刹那的な歌詞が好きな「マンピーのG★SPOT」。
真夜中の森を抜けた自由の道にあるのはマンピーのGスポット。
地獄でしかないからっぽの世界の行方がそことは最悪だが、それさえも永遠の夏のメロディという、アジアンエステ好きにさえ刺さりそうな応援歌だ。
どんどん続く。「BOHBO No.5」「爆笑アイランド」「アロエ」「すべての歌に懺悔しな!!」「盆ギリ恋歌」、日本の古語がふんだんに盛り込まれたハードな楽曲という点で歴史的にも異色なナンバー、にもかかわらずネット上ではまともなピックアップもされていない「CRY 哀 CRY」。
にしても、どうしてこうも桑田佳祐は〈女好き〉なのか。
プレイリストを作りながらずっと圧倒されていた。バブル期までの世代を取り巻く東京、欲望の環境が底を支え、内面的に形成されたものなのか。悪い意味では一切なく、むしろ感銘なのだが、〈女好き〉にも程がある。果たしてそこまで幻想を抱き続けてしまえるものなのか。
女好きの人には、もともとの趣味がない、趣味がないからやがて女しか無い、結果、女遊びが趣味になる、そんな話を20代の知り合いとしていた。クリエーターのような職の場合、作ることは趣味に定着できないだろう。ふと趣味がない、となる。つまり、アディクションの話だが、ドラッグよりは女だ、あらゆるゲームよりも複雑で、なによりも実存に触れる。
飲む打つ買うは単なる薄っぺらい定型ではなく、若い時分なら打ちこめていた諸々は歳を重ねるにつれ底が見え、消えていく世界で、飲む打つ買うが中毒装置として強い、太古からの声だ。
サザンなので女の話になるが、欲動対象の話だ。
モラル云々はどうでもいい、桑田佳祐の、女へのこだわりの強さ、この質は信用に値する。聴き手の自分にはそのような欲動の対象への底の見えないパッションは持ち合わせていない(残念なことだ)。だが、桑田佳祐のクオリティには仮想的/一時的に情熱を内で燃えさせる効用がある。
桑田佳祐自身にもある空虚も関係している。
作家村上龍には「すべての男は消耗品である」というタイトルのエッセイ集がある。これまで生き、今も生き、これからも生きていく、全男達を束にしてさえ例外なく、原理的に生命を産めない男という種族にあらかじめ刻印された類の空虚であり、青年以上の男なら誰もが知っている。
これを、高品質で歌い続けられているのが異例、ということだ。
2023年作、音頭をとる「盆ギリ恋歌」が、なにか心に触れた。それでプレイリストを作ろうと思った。この人は、バーンアウトしないのか。
みのミュージックで、A面とB面との発表形式を使い分けることで歌謡曲産業で生き延びるという桑田佳祐モデルを指摘しているが、なおさら、産業に消費し尽くされてしまわず個を堂々と歌い上げ続けられているのか。
確かな真実の歌、これが芯なのは間違いない。
そして賢さと応援と支えと、時流の波に技術や勇気と。更に。
アロエ
サザンのあらゆる曲のなかで一番変な曲が、この「アロエ」だ。
ただ、この曲を冒頭に持っていってもその変さが伝わらないので、曲順的に特別扱いしなかった。ただの応援ソング、ともいえるからだ。
この曲がどう変なのか。
これは、日本人の魂をポップ化した最たるものともいえる。
日本人は平均的にちょいダサが好きだが、これは時の権力者側ではなく、民衆側の魂の、神仏の土壌で受け継がれてきた圧倒的マジョリティの感覚なのだと思う。フィジカルな遺伝子ではなく、文化的自己複製子であるミーム的な遺伝子によって受け継がれてきた、何か大きなもの。
世界観の、ネクラとネアカの混在には、農民的なものも感じる。ブルーハーツには、そして、それを支持するヤンキーやマイルドヤンキー層には、確かな農民性を感じるのだが、土着的風土の景色は町人にも忍び込んでいる。
共同体という絶対精神のなかで、人々が個々、何を思うのか。
自分はある時期この曲が大好きすぎて、ずっと聴いていた。神戸の南京町で日本の中華四大料理を食べ回ることにハマっていたとき、歌詞に出てくる杏仁豆腐とジャージャー麺を注文することもノルマに加えていた。
自分にも、何かちょいダサを好む精神があるのは確かだ。
杏仁豆腐とジャージャー麺を注文するだけで浮かれることができる。
この曲は、ある意味、通常のJ-POPと違い、つまり、私的や都会的というモードと違い、集団的な日本人性においてまったく変ではない非J-POP的な普遍的精神が、強力にポップスに昇華されている点が変なのだ。
PVを見るとますますそう思う。
サザンオールスターズというバンドは、かつてのSMAPのように国民性を獲得している。どこかのマイナーバンドがサブカルチャーの文脈で「アロエ」のような曲を発表していても違和感はない。ただ、その場合、その曲はもっとカウンター的な性質を持ち、ロックやパンクになっただろう。
そのサブカルチャーが拾い上げる日本人的特質の、さらにもっと深みにある領域にまでサザンは到達しているからこその、ポップス「アロエ」だ。
一見しれっとしているが、到達点でしかない。
SAUDADE ~真冬の蜃気楼~
プレイリストの第三部は、1stアルバムから順に1曲ずつ選び、通して聴けるように並べている。
当然、デビューシングルにして代表曲の「勝手にシンドバッド」が先頭にくる。自分選曲なので単調にならないように、ところどころサザン王道バラードを挟み込み、聴きやすくした。「勝手にシンドバッド」もすごい曲だが、今の世代にも刺さる、それが全てだ。
この箇所を順に聴いていくと「シュラバ★ラ★バンバ」のキラーチューンぶりにハッとするが、やがて情緒的に流れてくる「SAUDADE ~真冬の蜃気楼~」で、何か根本的に世界観が変わったことに気づく。
え、どしたん? という気持ちになる。
90年代、音楽番組はほぼチェックしていたから「エロティカ・セブン」なんかもみなテレビのライブで見ていて、あれ?と「愛の言霊」にハッとし、やがて「PARADISE」でファンになった身としては、その曲が収録されたディープなジャケのアルバム『SAKURA』が当然マストで、「SAUDADE ~真冬の蜃気楼~」もここに収録されている。
90年代半ばという時期は、J-POPのミュージシャンのドロップするシングルが一様にシリアスになった時期だ(ミスチルは自爆かもしれないが、ドリカムしかりB'zまでも)。1998年末、宇多田ヒカルが登場するまでシリアスなJ-POPムードが続くが、1998年には椎名林檎も登場している。バブル崩壊の余波、価値観転倒の混乱なのかもしれない。1995年に開始されたアニメ「エヴァンゲリオン」が、後に宇多田ヒカルを起用した意味かもしれない。
1995年、「マンピーのG★SPOT」のカップリング曲で
と歌ったサザンは、1999年、
と糞迷走し〈泣かないよ 僕〉と締め括るシングルをもってテレビで奮闘し、その活躍もまたテレビで興味深く見ていた。
この迷走は、2000年「TSUNAMI」の国民的ヒットで終わる。
直前の名作アルバム『SAKURA』とは何なのか。
そんなことは、桑田佳祐の知り合いでも何でもない自分には分からない。
サイテーのワル
プレイリストの第四部は、今度はサザンではなく桑田佳祐のソロ1stアルバムから順に1曲ずつ、通して聴けるように並べている。
「真夜中のダンディー」なんかも謎に刺さって好きだったが、2017年の「サイテーのワル」で、ネットの炎上、バッシング、ネット私刑問題を歌詞にしていることが印象に残る。
女好きマインドだけでなく、ビートルズ「アビーロード」を全て空耳で歌い直した「アベーロード」のように、桑田佳祐は政治風刺という炎上要素もある。〈歌〉に支えられた桑田佳祐のバイタリティしかない。
しかし、それも炎上案件なのかどうかは怪しい。
繰り返すがサザンは国民性を獲得し得たバンドだ。男目線の〈女遊び〉の件にしても、建前はともかく、本音ではマジョリティなマインドの可能性が高い。男目線の〈女遊び〉の政治的関係ですら現代ではコンプラ的にアウトな気がするが、現代的コンプラが女に有利な案件なのかどうか自体、実質怪しく、女側は女側で、マジョリティの本音部分では、コンプラさえ、男や社会を相手に政治的に利用できるかどうかで使い分けるだけのように思う。
ナイフは凶器なのか、使い手次第だろう、という常識。
セクハラは罪か。結局、きもい相手が存在自体セクハラなだけ、という話の反復だ。つまり、格差問題で、成功体験ならぬ〈きもい扱い体験〉を蓄積した者たちはメタバースへジェノサイドされる、一体それが平和か問題で、桑田佳祐は強者だろう、そもそもマジョリティの日本人の象徴という面が確実にあるのだから、サザンを嫌う男女が多くいるのは当然のことと思う。
こう考えたとき、なぜ、自分はサザンが好きなのか、改めて問いかけが起こる。しかし、立場の話ではなく本質の話では、自分はマジョリティ側でもマイノリティ側でもない。
両方、同じ度合いにある。引き裂かれている。
このことは、以前投稿した異邦人論に帰っていく。
集団側なのか。単なる異邦人なのか。
マジョリティもマイノリティも、異邦人から見れば、ともに集団側だ。
桑田佳祐は集団側ではないのか、という問いが続くかもしれないが、桑田佳祐は、圧倒的に著名な異邦人の一人である、と見た方が腑に落ちられる。
自分がサザンを好きな理由にも繋がる。
少なくとも、桑田佳祐の歌詞における言語センスは、一つの孤高、孤島だ。
NO-NO-YEAH/GO-GO-YEAH
プレイリストの第五部は、漏れた曲を並べ直しただけで、限りなく強く〈ロック色〉をポップスに注入した「NO-NO-YEAH/GO-GO-YEAH」など、好きな曲が並んでいる。ポップシンガーというのはMr.Childrenを聴いていても思うことだが、決してロックには成りきれない。ポップ、ロック、パンクなどは、根本的な人間の性質なのだと思う。
例えば、ビートルズの「ヘルタースケルター」は本当にロックなのか、やはりポップスではないのか。ブラーの相当ポップな名曲「Girls & Boys」は、それでもロックだ。サザンの説明には〈日本のロックバンド〉と記されている。それは、真なのか。しいていてば〈日本のロックバンド〉の商業戦略にポップス化が不可欠だった、という昭和があったともいえる。
サザンは、ロックの風をポップスに乗せ、大衆化に成功したのか。
しかし、当人のロックの風さえも包み込む壮大なポップセンスが桑田佳祐の性質にあったのだ、と捉えたい。前者のような人工的スタイルのバンドが半世紀、50年以上も現役で活躍し続けられるわけがないからだ。
半世紀、現役で衰えを見せない。
信じ難い。
SEA SIDE WOMAN BLUES
プレイリストの第六部は、「チャコの海岸物語」から始まり、自分がチョイスした中から海っぽいソングを集めている。
トップ画像に富士山の見える海の写真を使っているが、これは江ノ島に行ったときに撮ったもので、その経緯はここに記している。
サザンといえば海、湘南、江ノ島というイメージもあって、富士を見ながら銭湯につかり、そこの屋上かどこかで何かサザンを聴いて浸ろうと思った。
2006年のヤフー知恵袋に、歌詞に江ノ島がでてくるサザンの曲は四つという回答があり、「シャボン」「メリージェーンと琢磨仁」「勝手にシンドバッド」バラードでは「SEA SIDE WOMAN BLUES」ということで、四つ目のこれをスマホでかけながら海を見た。
そんな歌詞に寄せ、そんな気分になって江ノ島で海を見た。
桑田佳祐の哀傷。
そこにある物語。確かな物語があり、聴いた人間を包み込む。
自分には歌がない。アンフラマンスな、微かな歌はあるだろうが、言葉が乗りメロディが現れ誰かに届くほどの歌はない。だから自分は、多くの人たちの歌を聴いて、歌って、歌がある気分になる。数多のミュージシャンにもの凄い数の人々が群がるくらいなので、自分のこういった感覚は、普遍的なもの、大方の人がこれといった歌のない感じなのかもしれない。
逆に、歌を持つ種族とは何なのだろう、と、思う。
メロディが現れる種族とは、何なのだろう、と、思う。
なぜ、そんな、実体化を持つレベルの〈歌〉を紡ぎだせるのか。
〈千の風になって〉という慣用句がある。吹きわたる無数の風。自分はその中の一つでしかない。そう思っている(自分のクリエイションの原理は、そういうところとは違う所にある)。
千の風はちりぢりで、その各々を強化した思想が個人主義、行く末は自由主義、リバタリアニズム、そして、カウンターカルチャー精神とのシーソーゲーム、アンダーグラウンド。
桑田佳祐の〈歌〉は、そういう文脈とは違うところから響いてくる。
歌い手たちとは何者なのか。
このことは自分には語れない。
自分は〈小説〉を作り続けて生きてきたが、だから分かるが、小説という形式の内面部分は、見よう見まねではない確かな〈小説〉を実際に作っていない人には、決して掴めない。批評家も含め。
ただ享受する。オーディエンスとしての確かな感動を語るしかない。
〈歌〉の強さは〈歌声〉の強さと連動している。
その内側には〈生命体〉の強さが律としてある。
旋律という言葉があるが、桑田佳祐には、信用のおけるそれがある。
桑田佳祐のミーム的遺伝子。
人類が滅ばない、という謎の一つさえもが、ここにある。
バカな、サザンがそんな大きな話なのか、と思われるかもしれない。
だが、連続した半世紀を支え続けた、桑田佳祐という個人、そして、文革的な、または国家消滅、人類滅亡にならない限り、合う合わないはおいといて、それらの楽曲が世紀を越え伝わっていくことが決定されているのは間違いない。北野武の映画は優れているが、果たして二百年後も大衆的に受け継がれていくかどうかは怪しい。二百年後、小室哲哉の楽曲が好き者以外のマジョリティの間で受け継がれていくかどうか、怪しい。そう考えたとき、いったい誰が残るというのか。ぱっとは浮かばない。
ならば、サザンは、源氏物語などと最早レベルは変わらないのだ。
しかも、同時代で、まだ生きているのだ。
_underline, 2024.9
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