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他人との比較をやめられない合理的な理由。SNSを使うときの心得。

ふとした時に、時間があるとついついSNSを開いて画面をスクロールしちゃう。気づくとなんとなく気分は沈んで、嫌な重たいものだけがずっしりと残る。そんな経験あるよね?

それで、「人と比較するのはよくない」って毎回思う。なのに、どうしても辞められない。

それはなんでか。一言でいえば、人と比較することは生きていくのに必要なことだなら。

じゃあどうして、必要なことなはずなのに、SNSを見るとこんなにしんどくなるのか?

それを紐解くためにまず、「人はなぜ他人と比較するのか」っていう根本的な理由を考えてみよう。

きっと読み終わるころには、なんとなくスッキリしてるはず。

はじめに、これを考えるのにとても腑に落ちた一説があった。

ヒトは社会的な動物で、集団から排除されれば一人では生きていけないのだから、アイデンティティというのは集団(共同体)への帰属意識のことだ。〝わたし〟は「奴ら」に対する「俺たち」の一部で、「敵」を生み出すのはひとがひとであるための条件ともいえる。

言ってはいけない―残酷すぎる真実― 橘玲

知っての通り、人間は社会的な生き物だから、群れを作ってその中で生活してきたんよね。それで、一人でいたら死んでしまうから、生き延びるには群れの中の一員として認められることが重要だった。

もっと具体的にいうと、橘さんの本にある通り、自分は「あいつら」に対抗する「私たち」の仲間であることが重要だった。で、本能的に「あいつら」っていう敵から身を守るためにも、仲間同士で結束する必要もあった。

だから、自分の属する集団が勝ち残るために、自分と他人を比較しながら、自分の立場とか役割とかをちゃんと認識することは大事な生存戦略だったんよ。

簡単にいうと、たとえば、自分がどこかのスポーツチームに所属してたとするじゃない。その時、自分は「隣町のチーム」(あいつら)に対抗するための、「このチーム」(私たち)の仲間なんよね。

で、そこでは「誰かが自分より得点力がある」っていうのは、自分のチームにとってありがたいことで、嬉しいことだよね。

もし、その有能な人と比べて、自分が劣ってたとしても別によくて、そしたら自分の役割は、「守ること」かもしれないし「サポートすること」になるかもしれない。

それで、敵チームに勝てるなら、それってとても「いいこと」なんよね。

つまり、人間が他人と比較するのを辞められない、というより、本能的にやってしまう理由は、それが生きていくために必要だったから

じゃあ話を戻して、なんでSNSを見て他人と比較するとしんどくなるのか?

問題なのは、SNSには自分が属する「私たち」っていう集団がないことなんよ。

「フォロワーもいるしコミュニティもある」とか、「普段から会話もして繋がってる」って思うかもしれない。でもそれって、自分の「仲間」ではないんよ。

「仲間」何かっていったら、お互いがお互いを認識して、目的を持って何かをする人たちってこと。言い換えると、相手の成功が自分の成功になる人たちのこと。

なんとなく心当たりがあるんじゃないかな。

インスタとかXで見てる人たちは、ほとんどが他人で、彼らの成功が自分につながることはまずない。だからただ「自分が負けてる」って感じるだけになる。

「他人と比較すること」は限られた集団(私たち)の中ではうまくやっていくのには役に立つ。なのに、その比較対象が、いわば全人類になっちゃってるんよね。しかも、自分の仲間はゼロ。

これが、SNSを見てしんどくなるロジックなんよ。

逆にいうと、SNSの中には仲間もいなければ、集団同士の争いもないんだから、他人がどうであろうと自分には関係ないってこと。

本来なら、敵(あいつら)の誰かが優秀だと、自分たちの危機なんだけど、SNSの中だったら、たとえ誰かが優秀だとしても、それで自分が危害を加えられることはないじゃない。

だからまずは、「大丈夫、あいつの成功と自分の生活はなんの関係もない」、「あの子が楽しそうだからって、それが自分を不幸にするわけではない」って意識して考えると少し落ち着いてくる。

つまり、SNSは人間の生物的な仕組みからすると、想定外の異世界ワールドなんよ。

情報収集とか、趣味の共有とか目的を持ってツールとして使う分には良いけど、それを日常的な人間関係の一部に組み込んではダメ、バグを起こしちゃうから。

要するに、SNSで感じる劣等感は、ただの脳のバグってこと。

結局は、自分に実際に影響を与えられるのは、現実世界で身の回りにいる人たちしかいない。ここまできて、とても月並みだけど、現実で仲良くできる人と時間を過ごす方が、健全に生きられる。


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