11:『NINNIN JACK』MV公開前に失礼します、IMP.のことが大好きすぎるかもしれません

 これは世界のどこかにいるひとりのエンタメ大好きオタクが、大好きな人やその人が見せてくれた景色について書き残した、ちょっとした忘備録です。

※何かのご縁で、筆者を知らないけれどこれを読んでくださっている方へ 筆者はTOBE所属、IMP.(あいえむぴー)のセンター佐藤新くんのことが大好きなオタクです。

 昨日のCDTVを引き摺りに引き摺っているオタク(一人称)が、『NINNIN JACK』リリースを目前に控えながら「待って‼️‼️‼️書き残させて‼️‼️‼️」と書き殴ったnoteです。書き始めた時点で28日の20:34です。愚かですね。感想文ですらない書き散らしですが、誰かと未来の私が笑ってくれることを信じてここに置いておこうと思います。物好きな方はどうぞ、極限にお暇な時にでもお楽しみください。


1.イントロの時点で“勝ち”なリード曲

 この曲の第一印象、「あ、勝ったな」です。
かげよこシンメに挟まれた基俊介さん、その真後ろに椿泰我さん、という時点でもう大大大大だ〜〜い勝利なんですよね。勝利感がすごい。何にかは分からないですけれど。世界にかな。

 と、思ったらアクロじゃないですか。息を呑みましたよね。そしてアクロそのものもさることながら、お人形さんみたいな綺麗な真顔でそれを支えてカットインするかげよこシンメの阿吽の呼吸ったらないですよ。からのアクロで綺麗に舞った椿泰我さんのイケ笑顔。ずっる〜! そこに温度差つけてくるの、ずっる〜!!!!!!!

 そして満を持して“王”の登場です。佐藤新さん、なんですか? もうこの姿を表現する言葉なんて世界中かき集めたって言い足りやしないんですよ。言語がいかに不完全な存在か感じちゃいますよね。“オーラ”なんて言葉じゃ甘い。正直“王”という言葉ですら彼を言い表すには足りないと思っています。間違いなく、この7人の物語が動く時、真ん中にいるのはこの男なのだと、そう何度だって思い知らされる心地ですね。なんてやばい男を好きになってしまったんだろうと思います。

2.IMP.が目指すもの/受けた刺激を感じた話

 生き急いでいるので取り急ぎ、ざっっっくりとした表現になってしまいますが書こうと思います。これはあくまで私の抱いた印象であり、それ以上でもそれ以下でもないことをあらかじめご承知おきください。

D.U.N.K.以降、IMP.がパフォーマンス面で非常に意識しているなと思っていたことがあります。それは、“揃えるところは揃える、揃えないところはとことん揃えない”です。D.U.N.K.事前番組で、BE:FIRSTさんのダンスについてSKY-HIさんが仰っていた言葉です。
 D.U.N.K.を経験してからのIMP.のパフォーマンス(以降の新譜やTV番組、ドームをはじめとする実際のライブ等々)を見ていて、今まで以上に“揃える箇所”へのこだわりが垣間見えるような気がしていて。なんというか、固める時に“ここはとことん揃えよう”を、今まで以上に7人が明確にして共有し合っているんじゃないかなと感じていました。再三申し上げる通りこれは私の勝手な感想です。私はIMP.じゃないので知らんけど、です。

 今回の『NINNIN JACK』で、なんとなくですが彼ら7人にとっての“このレベルまで到達したい/させたい”に手が届いたのではなかろうか、と私は思うんです。それ故の、あの自信に満ちたギラギラの笑顔かな、と。
 絶対に目標達成までの道程って険しいじゃないですか。7人で固めていくその過程はもちろんのこと、各々のスキルであるとか身体的な成長、理解、基礎から応用に至るまで数多のステップアップを強いられるわけです。苦しくないわけがない。でも、彼らは彼らでそれを乗り越えて、その先にある「今」に居る。その泥臭さによる痛いほどの輝きが、IMP.の、あの7人の真骨頂だと思うんです。
 もうね、堪らないですよね。“それ”がどうしようもなく好きだからここに居るんだよ! って、強く強く思いました。これだから最高なんですよね、IMP.って。

3.佐藤新くんって実は本当にきれいで

 私の人生の大サビですね。

 先述した通り、この『NINNIN JACK』は“ひとつの到達点であり、次なる目標への出発地点。かつ、世界の頂点への通過点”だと私は強く思っているのですが(長〜)、その真ん中にいる佐藤新くんが本当に本当に本当にそういう泥臭さのある人間であること、何度でも語っていきたいと思います。そうです。私のド思想パートです。

彼の“表現”の全ては、彼の“全て”から成るんですよね。例えば努力とするならば、それに付随する感情全て。喜怒哀楽とラベリングされるような感情から、名前を付けられないような曖昧な感情、刹那。決してこちら側には見せないような、はたまた近しい人間にすら見せないようなものまで。朝起きてから夜眠るまで、いやむしろ眠っているその時間にすら発生しうるような、彼自身が感知しないものまで全て、彼の“生”の全ての先に、“表現”という彼のひとかけらが誕生しているわけです。当然、その全てが整っているわけなんてありません。“美しい”ばかりであるはずがありません。私はその最たる例として人間の“矛盾”の話をよく持ち出すのですが、とどのつまり、彼の“全て”が“美しい”わけがない、と申し上げたいのです。“綺麗なもの”だけでできてはいないのです。「細部に宿るは神か悪か」と言われて、仮に全知全能完全無欠を神とするならば彼は間違いなく“悪”であるのです。エデンの園を追放された、愚かしい人間に違いないのです。

 私は、私の語彙をもってして、彼が彼の思想のもとに作り上げた(これは決して彼が己を演じていると言いたいのではなく、彼が磨き上げ、その優しさと頑固さをもってして私たちに見せてくれている姿という意味での)“ステージ上の佐藤新”を表現する言葉として“きれい”を用いています。これは言い換えるとするならば、“愛しい”の最上位互換のようなものです。

 『NINNIN JACK』でその爆発力に気付いた大好きフォロワーたちの言葉に私はまあ腹が立つほどのドヤ顔をしながら「そうだろうそうだろう」といいねを押しているわけですが(うっざ)、ここに至るまでの細かい変化を“好き”というかわいい言葉に似合わぬほどの偏愛をもってして注視しては勝手に喜んでいたので、その密かな優越感も、私はこの先何度も見返す宝箱の中にしまいこんでおくんだろうなあと思います。言ったでしょう、彼はきれいだと。どうしようもなく真面目で不器用で、泥臭くて、頑固で、こんなにもきれいなひと。私はきっとこれからもこの人にしてやられるんだろうなと思うと、とても悔しくて腹立たしくて、どうしようもなく嬉しいんですよね。

おわりに

 案外書けました。怖いので読み返さずにネットの海に放流することにします(最低)誤字脱字があってもスルーしてあげてください。
 ここまでお付き合いくださったド級の物好きの方、尊い人生の時間をこんなものに浪費してくださりありがとうございました。

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