挫折経験
お久しぶりの投稿です。
ではでは、長くなりますがよろしくお願いします。
就活をしていた頃のお話。
いままでの自分の経験を振り返り、
人に伝えられるようまとめていく。
その中で戸惑ったのが、「挫折経験」だった。
どんなに振り返ってみても、
挫折だと感じられることがなかった。
言葉にしてみると格好良く見えるが、
自分自身にとっては味気なかった。
確かに、スランプに陥っては、
高い壁にあたっては、
辛い、苦しい、やめたい、と嘆いてきた。
けれど大体が、どうにかこうにか
乗り越えられてきた。
それだけ向き合って努めてきたこともあれば、
当初より多少の変更が必要になっても、
より軟体的に受け身を取ることもできていた。
そして切れたゴールテープを振り返れば、
走っていた時間の苦労など、
メダルに変わっていることが大半であった。
(ここでのメダルは自己⇄自己)
だから、高い壁を乗り越える力があります。という強みと捉えて、就活をなんとか終えた。
しかし、「就活」に囚われていない自分は、「挫折経験」のようなものを発見した。
あの頃は「挫折」というのを、「現在進行形」の生活に見出そうとしていたが、案外とっくに過ぎ去った場所に転がっていたみたいだ。
なーんて、たいそうな事を書いていたら、悪魔が耳元で囁き出したので、路線を変更させていただく😑
そう、悪魔の囁きが正解。
私の場合は「挫折」ではなく「諦め」である。
だから、ずっと味気ないのだ。
これは主観だが、「挫折」というのは全力で向き合った上での「方向転換」だ。
私は、情熱を放棄し、みないようにしているだけなので、挫折ではない。
そのうちの一つが、芸術家になること。
もっとかいつまんでいえば、大きなキャンパスに感性のまま絵を描き、その情熱が魂となって、誰かの感性を揺らがすこと。
そんなことがしてみたかった。
しかし私は絵を描くことができても、描きたいものがなかった。
だから「アーティスト」に向いていないと思った。
私はぬりえの線画を作れる人間ではなくって、
ぬりえの中でどれだけ面白い構成をするか、が得意なのだから。
でもそれに気付けたのは「諦めた」という事実によってもたらされた「今」にある。
そう、当初より多少の変更が必要になっても、軟体的に対応する力には優れていたから。
結果的に、私は自己表現ではない方へ向かったが、誰かの「欲しい」を具現化する方が、ちゃんと向いていたと思う。
要約して私が言いたいのは、
無理に転んでまで、自転車の練習をしなくても、「今なら乗れそう!」というタイミングで挑戦したら、怪我一つせず自転車に乗れる。
ということだ。
嫌いな食べ物もそう。無理に食べさせなくても、食べれるかも!と思った時に食べてみると、ケロッと克服できるのだ。
だから、わざわざ怪我をしなくたって、
転んででも挑戦したい日がくると思う。
そしたら大体がへっちゃらだから。
それが本来見ていた憧れより多少形が違くても、
あなたはあなたのやり方で光になれるって伝えたい。
だからこんな話をしてみた。
ただ大切なのは、目の前のことコツコツと。
私たちに、はてなブロックは用意されていないからね。
たまにいますけど。スーパースター状態で走れる人。
私は違いましたから、それでもみんな十分素晴らしいんだということです。
無責任な話を、長々としてしまいました。
そろそろ簡潔に話せるようになりたいです。
ではではみなさん夏バテには気をつけて!
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