「☓☓☓☓☓、来世では、貴方を」


「おはよう、貴方。ご飯出来たよ」
「ん…ありがとう、おはよう」
 
すやすやと無防備な寝顔を暫く眺めてから、私はこの人の肩を揺さぶった。
ゆっくりと眠たげにこの人が私に返事をしたら、私の朝は動き出す。

「今日の朝ごはんも、美味しそうだね」
「そう?ありがとう」

戴きます、と二人して手を合わせて、のんびりとお膳を食事へと運ぶ。

「うん、美味しい」
「それは良かった」

もぐもぐ、と黙って二人で咀嚼をしていると、幽かにあ。と彼が声を漏らした。

どうかした?と問い掛けると、今日はまちへ出るんだ、とゆるりと微笑みこの人は応えた。
「そう、気をつけて」と了承の意を伝えると、彼はこくん、と頷いてまた食事を再開する。

この人が私の同居人。
いや、私がこの人の同居人?

彼はある有名な資産家の息子で、定職にもつかず、ふらふらのんびりとここに幽棲している。
私と一緒に。

いや、定職についていないわけでは無いのかもしれない。
この人が時折、文机の原稿用紙に向かって、何か物を書いているのを見たことがあるから。
生憎と、私は本を読まないので、詳しくは判らない。だがたった一冊。かつて彼が、私の誕生日に一冊本をくれたので、その本は擦り切れるほど読んだ。

かつて彼の周りで、中々に凄惨な刃傷沙汰があった。
理由は、彼を見れば解る。
哀愁を湛えた長いまつげに、切れ長の黒い瞳。
さらりと顔にかかる、きらきらとした黒髪。
困ったような微笑み。
博多人形の様に白い肌。
まるで作り物の様に完璧なその見た目に惹かれない者は居なかった。
それに加えて、彼は今頃にしては珍しく控えめな思考で、ゆったりとした物云いをした。

魔性の女、というひとが居るように、彼は魔性の男、だった。
彼に近づく者は、ほぼ彼に惚れ、彼を求め、自滅していった。
その自滅が、刃傷沙汰や、入水等である。
初めは、彼の家の女中だった。それに加えて近所や学校の女もふたり、さんにんとだんだんだんだん彼に恋焦がれ、そして。

これでは拙い、と判断した彼のお父様が、彼だけで過ごさせることを決めた。本来なら彼一人で生活させるつもりだったらしいが、何分おぼっちゃまだったのでそうもいかず。
それで、彼の幼馴染だった私が…いわばお世話役に選ばれた。


時は明治。モダンが街を支配していた。


私はこの人の妻でも、恋人でもない。だからこそ一緒に此処にいられたわけなのだけれど。
ふい、と視線を彼にやると、気づいた彼はふわり、と微笑う。

「出る時は、云ってね」
「もちろん」

こんな、まるで夫婦ごっこのゆったりした日々がずっと続いて欲しかった。



「もしもし」
ベルが鳴ったので、受話器を取り上げると、良く知る声がした。
「やぁ。今日は、友人のところに、泊まっていくことになったんだ。だから、そのつもりで」

彼が街に行くとこんなこともしょっちゅうだ。

「わかったわ」
目を伏せながらそう云うと、この人は明日の何時には帰るから、とまるで宥めるように続ける。

す、と一葉だけの彼と写った記念写真へと目をやった。

「───ええ。そう。ありがとう、気をつけて。ではまた明日ね、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」

窓の外は雨降りで、もうとっぷりと日は暮れていた。

今晩はあの人に会えないのか、と消沈した。
硝子に映った私は、酷く醜かった。



「ねェ。帰らなくても良いの?」
「ん…別に良いんだよ。だって、あの子は奥さんでも、彼女でも、ないんだからね」

ふふ、と暗がりで若い女が微笑んだ。



夏の日差しが鬱陶しい午前中。今日は神社のお祭りだった。
「ねえ貴方。今日はお祭りでしょう、だから一緒に行きませんか?」
特に用事もないのだ。この人も了承してくれるだろう。とたかを括ってそう誘ったら、彼は、「ごめんね、独りで周りたいや」とぽそりと呟いた。

…そう。まぁ、そんな日もあるよね。

「そっか。じゃあ、私は貴方と離れて回りますから、楽しんできてね」
うん、ありがとう、と静かに礼を云うこの人はやはり綺麗だった。



「ねェ、なんでよ!私は、私が貴方の彼女じゃなかったの!?」
と、夜半の賑わう境内で、叫ぶ女の声がした。物騒だな、とちらりとそちらを見やると数人の女に囲まれた独りの男…いや、あれ、は。

「貴方…?」と思わず声を漏らすと、女達が一気に此方を見る。

「あんたもこの人の女なの!?嫌よそんなの、信じないわ!!」
「ねえ!嘘でしょう、私が、私が貴方の…!」
「違うわよあんたなんかじゃない、私よ!」
「今日は私とお祭り回るっていってたじゃない!嘘つき!!」

と、様々に動転している中、彼は独り不思議そうな面持ちである。

この人は一度だって、彼女がいる、だなんて云わなかった。だからそんなことは…いや、違う、どうしてどうして私が居ながら、あんなに貴方に今迄尽してきて…わたし、は…。

ねえなんとかいってよ!!と肩を揺さぶられた彼は、綺麗な形の眉をひそめ、「僕は、」と呟いた。

あたりは、お祭りの真っ最中だというのに水を打ったように静まり返った。

「ぼくは、君達と恋人同士だと思った事は、無かったよ」

「君も、君も、君も、君も…もちろん、君もだ」と、ゆっくり女達を指差していき、最後に私も指をさされた。

「…そう」

「うん」

てんでばらばらに騒ぎ始める群衆と、女達。
嘘よ!とか、どうして!とか面白いくらいに一様に絶望の面持ちを湛えていた。
それは多分、私もそう。

幽かに、期待していた。何でも受け入れるから、彼もそうしてくれる、と勝手に思っていた。

くるり、と踵を返して、ゆったりと家へと戻った。



夜の車窓に情けないわたしの顔が映った。
私なら、彼と分かり合える。折り合いをつけられる。と何処かで思っていた。
私が彼を独占できると、そう思っていた。
私は、唯の女でしか無かった。

汽笛が煩かった。
遠ざかる街の灯と、神社の提灯がただただ愛おしかった。

汽車が橋に差し掛かった。

からり、と窓を開け破いた本の頁を外へと散らした。
かつて彼に貰った本だった。
ばらばらの頁は、月光に照らされて羽のようにはらりと地上へと舞っていった。それから後はきっと、川の水に流されてぐしゃぐしゃになってしまったんだろうな。

…さようなら。私は、もう、貴方と一緒には居られないの。
できる事なら、貴方を殺して、私だけのものにしたいな。でも、そんな事したらいけないし。

元気でね。

来世では、貴方と会いたくないな。

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