マシマシの承認欲求に苛まれていたもののカルディのワインをがぶ飲みしていたら突然悟りを開いた日の備忘録

ここ最近あふれんばかりの承認欲求、自意識過剰、自己嫌悪で気が狂いかけていたものの、カルディで買った辛口ロゼワインを飲んでいたら急に悟りをひらいたので、メモを残した。

人生は泥団子作りにすぎないという(わたし史上における)歴史的発見である。酔いが覚めたあとの私もすんなり受け入れてくれると良いのだけど。むむむ。

ワインは甘口の方が好きということもわかった。むむむ。

以下、怒涛の覚え書き。

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人には美点と汚点が明確に分かれて存在しているわけではなくて、全てがひと続きの球体で、どの角度から見るか、どんな価値観を持った人のフィルターにかかるかによって、美点とも汚点とも評価されうる。

そのため、高評価にしても低評価にしても、「自分のある一部分について、特定のフィルターを通して得られた感想」という限定的なものに過ぎない。私が錯覚しているような絶対的かつ最優先とされる類のものではない。

24歳ともなってしまえば、赤ちゃんでもなくましてや思春期でもなく、粘土のように自分をこねくり回せる時期はとうにすぎており、球体の本質を変えることはできない。

球体の本質について悶々と悩む時間は無駄であり、限られた時間を使ってエネルギーを失うだけの行為である。私が今から我慢強く、他者からの承認を必要とせず、常に冷静沈着である人間になることはできない。できないんだ。できないできない。誰にも変えることはできない。

しかし、球体をみがくことはできるので、本質を変えることはできない事実を頭において、絶対に絶対に忘れないで、追い込むのではなく球体と対話しながら撫でるように磨く。-10を+10にすることはまずできないので、-10を-8くらいにする意識でやってみる。

それは、あくまでも暇つぶしである。100年続く人生は所詮球体をころころ転がすだけの行為であり、どうせ転がすなら泥団子みたく磨いてみたほうが、転がしていて楽しいから、そうするのだ。汚い泥団子を転がしていても、全然面白くない。

私の球体と他人の球体は異なる。
しかし、あくまでも異なるというだけで、優劣は存在しない。土も、加えられた加工も異なる団子どうしを比較しても仕方ない。できることとできないことがあるのだ。

それなのに嫌になるほどよそ見をしてしまうのは、自分の軸がないからだ。自分の軸がないから、いろんなフィルターに引っ張られて、そのすべての判定結果が気になって気が狂いそうになる。

私の軸は、「その時与えられた仕事を一生懸命やること」にする。今決めた。それ以外はできなくてもいい。美容をさぼってもいい、来年はこの仕事やりたくないですと泣いて頼んだこともいい、掃除さぼってもいい、休日充実させられなくてもいい、受けようと思った資格試験の勉強全然進まなくても別にいい。そんなたくさん頑張れないんだから。結果が出なくても自分が満足できるような、ベストを尽くした仕事ができたならいい。

それだけだって100/100でこなせるわけてまはなくて、失敗しながらだけど、私は痛い目見ないと学べないたちだからそれもいい。いいのよ。よくやってる。よくやってるのよあなたは。

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