蒼の彼方のフォーリズム - Fly me to your sky - #34
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久しぶりに来た廃バスの部室でフライングスーツに着替える。窓から差し込む月明りで見た感じだと、前と何も変わっていない。でも、今の自分の居場所じゃない、という気分があるから落ち着かない。泥棒に入った家で着替えをしたら、きっとこんな気分。
着替え終えて、外に出る。
晶也はブイの向こう側にある大きな月を見上げていた。
いつも練習している海岸だと人目について、警察とかに怒られるかもしれない。でも、久奈浜の練習場なら街から少し離れてるから見つかることはないだろう。
あたしは月を見上げたまま背筋を伸ばす。続いて両手両足の筋も伸ばす。
気持ちが切迫してる。これから試合が始まるってわけじゃないのに興奮してる。
「最初は軽くだぞ。全力で飛ぶなよ」
そんなこと言われるぐらい前のめりな空気を発散しちゃってるのか……恥ずかしい。
あたしはグラシュを起動させて、フィールドに向かう。
「うひゃ〜。夜に飛ぶのは恐いな〜」
「ちゃんと見てるから心配するな」
「信用してる。んじゃ、アップから背面飛行でいくよ」
あたしは反転して背面飛行になって、フィールドに入っていく。
夜空に浮かぶ月が、いつもより大きく見えた。巨大な一つ目に見つめられているみたいでちょっと恐い。心の奥底まで見られているような気がする。昔の人が月を信仰していた気持ちが実感としてわかる。これは、恐くて拝みたくなるよ。ナムナムナム。
アップを終えて、本格的に背面飛行を始めると、晶也の声が厳しくなってくる。
「まだまだ! もっと鋭くローヨーヨーで降りれるって。びびるな!」
「背中から海に落ちていくみたいで恐いんだってば!」
どのくらいの高さを飛んでるのかわかんないんだから! 周りが暗いせいで平衡感覚が軽く狂ってる。気を抜いたら、上も下も右も左もすぐにわからなくなる自信がある。
「んなこと言ってたらいつまでもできないだろ! 自分からやるって言ったんだから、ちゃんとやれ!」
思いっきり背中を反り、斜めに落下する。晶也は急降下からの急上昇、角度の鋭いローヨーヨーをしろと言ってるのだけど…………やっぱり恐い。
「もっと鋭くだ! これができないようだったら飛んでることにならないぞ」
「好き勝手言って! 昼より口調が厳しくない?」
「昼より厳しくやって欲しい気分だろ?」
「そういう気分ですよ! っと!」
自分で自分を追い込むのには限界がある。どんなに追い詰めたつもりでも、どこかで甘えが出る。特にあたしは、自分に厳しくなれない。それは、砂浜を走らされた時に実感した。体力が残ってるのに、心は限界だってすぐに思う。
「そこからハイヨーヨーだ!」
腹筋に力を入れて、上昇に転じる。
「だから反応が鈍いって! 俺が指示してから一瞬考えてるだろ」
「通常飛行と体の使い方を逆にしなきゃいけないんだから迷う!」
「迷わないように、体に染み込ませてるんだろうが。口答えせずにやれ!」
「晶也の言うことは信じるし、指示どおりやるけど口答えはする!」
何か言ってないと力が出ないし、口答えしないと心が萎えてしまいそうなのだ。
「そこで、シザーズだ! ……遅い! お尻だけくねくねさせても曲がれないぞ!」
「えーい! うるさいうるさいうるさい!」
お尻をくねくねとか言うな! あたしだって必死なんだ、バカ!
「ほら、もう一回シザーズだ! 遅いって! そんなんじゃ乾にも明日香にも負ける。負けたくないんだろ!」
どすん、と心臓に太い針を打ち込まれた気がした。
「負けたくない! 負けたくない! 負けたくない! ここまでやって! こんなことまでして負けたら、どうしたらいいかわかんないもん」
こんな時間に必死に飛んだりしてるのに! 負けたら! あたしは……あたしは!
「だったら歯を食いしばれ!」
「食いしばる!」
「スピード出せ! 加速だ!」
背筋の筋肉に力を入れる。背骨を少しずつ動かし、スピードが乗る角度を探す。
「あたし別に明日香のこと嫌いなわけじゃないから! 好きだから! 乾さんのことだって嫌いなわけじゃない!」
「知ってるよ」
「ただあたしは……。負けたくないだけ! 負けたら……負けたら、全部、失ってしまいそうで恐いから。それだけだから」
負けたくない! ここまでやって負けたら、みんなにどんな顔をすればいいのかわかんない! ここまでやって負けたら、自分に言い訳できない。夏の大会の時みたいな、逃げ道のたくさんある負けじゃない。
どこにも行き場所のない、本当の負けだ。あたしは真剣だ!
「もっと速く!」
食いしばった歯の間から、怒った猫みたいな声が漏れる。
「にぃあああぁぁぁぁあああぁぁぁ!」
酸素を求めて胸が激しく上下している。口はずっと開きっぱなしだ。
「休むな! 行け! 背面のままブイにタッチだ!」
「んにぃぃ! きゃっ!」
伸ばした手じゃなく肩にブイがぶつかった。瞬間、視界が不規則に回転する。目測を誤ってしまったのだ。
こんなに飛んでるのに、まだこんなミスをするなんて!
「休むな! フィールドに戻れ! 休むな、って言っているのが聞こえないのか?」
「はぁはぁはぁはぁはぁ……わかってる!」
何回、息をしても、肺の奥まで空気が入った気がしない。肺の浅い場所だけを使って、呼吸している気がする。
──え?
夜空に霧がかかった。え? え? なんだろう、これ? 疲労が目に来た? 肩を上下させて、肺の底に押し込むように深呼吸すると霧は晴れた。酸素が血に溶けていくのがわかる。そうか……息をしてるから動けるんだ。こんなの実感したことってなかった。
うふふ、だ。あはは、だ。あたしは、ここまで練習したんだ! ここまでやれるあたしがいるだなんて知らなかった。凄いぞ、あたし!
「もう終わりか? 二度とこんな練習させないぞ! もう飛びたくなくなったのか!」
冗談じゃないです! ここまでできるってわかったのに! 終われるわけない! 自分がやると言い出したことだ。やめるだなんて言うのは恥ずかしい。
「もっと飛びたい! 飛べるから! 次はなに!? 早く指示!」
「次は加速だ!」
あたしは歯を食いしばって、ラインに沿って背面飛行。
「んにぃぃぃぃぃぃぃ!」