noteでノベルゲーム『薔薇の城』 *3 いつも通りの嘆願
いつも通りの嘆願
「いつも通りよ? 今日も人数が多くて。記録係が大変そうだったわ。ねえ、記録係の人数を増やしてみたらどうかしら?」
「無駄よ」
薔薇姫が唇を尖らせる。
「増やせば増やしただけ、嘆願者が増えるわ。嘆願者が増えたところで、話を聞く私たちは一人きりなのよ? 私たちの労力が増えるだけじゃない」
「それはまあ……そうかもしれないけれど」
「私はね」
私の首筋を、薔薇姫が愛おしそうに撫でる。
「貴女が大好きなのよ。貴女の花弁が汚れるのが嫌。美しく、まばゆく咲く貴女を愛してるの」
「私もよ、薔薇姫。私も貴女を愛して……」
薔薇姫は、やおら私の耳元に囁く。
「知ってるわ」
見るだけでとろけてしまいそうな笑みを浮かべながら、薔薇姫が離れていく。
「もう休むわ。明日は私の番ですもの。おやすみなさい、私の、薔薇姫」
部屋に戻っていく薔薇姫の後ろ姿を見ながら、あの奇妙な、ヒヨドリの御子のことを思い出す。
「外見だって違う。表情が違うんだ。君の笑顔はとても穏やかだ。君の笑顔を見るとね、私は胸があたたかくなる。私は君に、恋をしているんだ」
おかしな男。ただ見ているだけの貴方に、私たちの何が分かるっていうの? 私たちは運命で結ばれているのに。
小さくため息をついて、私は自分の寝室へと向かった。
薔薇姫ではない朝
今日は、私は薔薇姫じゃない。表で白の薔薇姫として振る舞っているのは、薔薇姫。私は休みだ。私が外に出て、白の薔薇姫が二人だと悟られるわけにはいかないから、休みの日に外に出ることはできない。
昨夜は──昨夜の薔薇姫は、本当に美しかった。愛おしい、愛おしい、私の薔薇姫。これまでも、これからも、ずっと一緒。
でも、私は思う。私は時々、薔薇姫の考えていることが分からなくなる。ずっと一緒に過ごしてきたのに。ずっと愛してきたのに。私は、薔薇姫を理解できていない。
薔薇姫は違う。むしろ私を知り尽くしている。私の想いも、私の愚かさも、全部。どうして彼女にはそれができて、私にはそれができないのだろう。
考えていると、ふとヒヨドリの御子の言葉が思い浮かぶ。
「確かにあの娘は君に似ている。外見はね。けれど中身は別物だ」
確かに、そうなのかもしれない。昨日はうまくいった。だから私たちは通じ合っていると感じられた。でも、私が何か失敗を犯す度に、薔薇姫の厳しい叱責が私に飛んでくる。私たちは違う。もし、私が薔薇姫ほど賢明だったら、私は薔薇姫の腹を立てずに済むのだろうか。でも、どれほど二人で一人であろうと願っても、どれだけ私が薔薇姫を愛そうと、同じにはなれない。
同じ?
思い当たって、初めて気付く。私は薔薇姫と同じになりたいの? 私は……
私は、薔薇姫になりたいの?
違う。私は薔薇姫の側で、共に咲きたい。薔薇姫に愛されたい。
でも、私が私である限り薔薇姫を傷付け続けてしまうのだとするなら、私のこの想いはただの身勝手な欲求の押し付けだ。つまりそれは、私の薔薇姫への愛情が、呪いであり、絶望でしかない証左じゃないか。
ベッドの上からぼんやりと窓の外を眺める。今頃、薔薇姫は周辺国の諸王を集めて、国家間の不可侵条約を取り付けるべく議論しているはずだ。薔薇姫は私よりずっと頭が良い。きっと、不可侵条約も問題なく締結されるだろう。
それに比べて、私は。
目を閉じる。
私は、駄目だ。内政も外交も不得手で、人付き合いも上手くいかない。私が咲けば世界の安寧が保たれると言うけれど、私には咲くことしかできない。
本当に世界を支えているのは、世界の一つ一つの命なのに。実際に畑を耕し、ものを作り、子を育て、生きているものたちなのに。世界の調和の象徴、白の薔薇姫? 私にはおこがましい。
悲しい気持ちで目を開くと、カーテン越しにバルコニーに人影が見える。城のバルコニーまで入ってこられるような術はない。一体どうやって?
人影は音もなく窓際に滑り寄り、窓をノックした。
「誰?」
人影からの答えはない。
私は用心しながら、そっとカーテン越しにその姿をのぞいてみる。人影は、ヒヨドリの御子だった。
「どうやってここへ?」
「相変わらず、君は奇妙なことを言う」
ヒヨドリの御子は小首を傾げる。
「鳥がバルコニーに来ることが、そんなに不思議かい?」
そうだった。彼は鳥なのだ。
「外に出ないか。今日、君は一日休みなんだろう?」
「どうしてそんなことまで知ってるの?」
「言ったはずだ。ずっと君を見てきた」
周囲をチラリと見回してから、ヒヨドリの御子が続ける。
「今なら大丈夫だ。誰にも気付かれない」
「駄目よ、見付かったら取り返しが付かないわ」
「早く。時間がそうあるわけじゃない」
ヒヨドリの御子は窓を静かに開き、私に背を向けて腰を落とした。
「私の首に掴まるんだ。空に上がれば、誰の目にもとらえることができない。森へ行こう。森の奥なら誰に見付かる心配もない」
「本当に?」
不安げな私に、ヒヨドリの御子は穏やかに答える。
「私を誰だと思っている。鳥たちの王だ。どのみち今日一日部屋で過ごしたところで、君は一人で無為に思い悩むだけなのだろう」
それは……そうだ。
「見て分からないか。この体勢も、そう楽な姿勢ではない」
「分かったわ」
意を決して、私はヒヨドリの御子の首に腕を回す。
「息をとめて」
「えっ?」
「いいから、早く」
言われるままに、私は息をとめる。
一瞬、ヒヨドリの御子の腰が沈んだかと思いきや、とてつもない勢いで上空からの圧力を感じる。垂直に上昇しているのだ。あまりの勢いに思わず目を閉じる。周囲の空気がみるみる冷たくなるのを感じる。細かな水滴や霧が、顔や腕に降り注ぐ。
突然ふわりと勢いが止んだ。上昇が終わったのだ。私はそろそろと目を開く。眼下に城を探したが、見付からなかった。目の下には、一面の雲が広がっていた。
「ここは、雲の上なの?」
「そうだ。雲の上まで見通せる人間はいない」
「そのためにここまで登ってきたの?」
「君が構わないなら、城の周りを悠々と飛んでいくこともできたが」
「ふざけないで、そんな姿を誰かに見られたら……」
言いかけて、呼吸がうまくできないことに気付く。頭や耳の奥に、張り詰めた音がする。
「すまない、君にはここは空気が薄すぎる。すぐに森に降りるよ。もう少しだけ、我慢してもらいたい」
ヒヨドリの御子は滑るように雲から雲を渡り、そして垂直に森へと降りた。
森
降りた先は、森の中心だった。森の入り口周辺と違い、一面に背の高い針葉樹が立ち並んでいる。マツの木だ。足元には細い針のようなマツの葉が、絨毯のように積もっている。一歩歩くたびに、これがマツの葉かと疑いたくなるほどの、フカフカした柔らかな感触が伝わってくる。
「柔らかいだろう?」
「ええ、とてもマツの葉とは思えないわ。舶来の絨毯みたいよ」
「この辺りはずっと昔からマツの葉が降り積もっている。ずっと、ずっと地面の下にね。表面はそうでもないが、下に積もったマツの葉はたくさんの雨水を蓄えている。知っているかい? マツの葉が吸った雨水は、とても甘い味と香りがする」
「飲んだことないわ」
「君はやめた方がいい。あくまで私たち鳥の話だ」
私たちは、枝のないまっすぐなマツの木々を眺めた。
「不思議だわ。どうして枝がないの?」
「枝は自然と枯れ落ちるんだ。こうして密集して生えていると、互いの影で枝には日が当たらなくなる。その結果、日の当たる先端にだけ枝葉が生え、それ以外の枝は枯れ落ちる」
「神秘的ね。まるで神殿の柱のよう」
「神殿だよ」
ヒヨドリの御子が厳かに言う。
「ここは私の神殿だ」
私はヒヨドリの御子の顔を見て、もう一度マツの木々を見上げる。
「本当に……神様なのね」
「無論だ」
居並ぶマツの木々を見ていると、胸の奥が自然に穏やかになっていく。気持ちが落ち着くにつれ、見えているものだけでなく、様々な感覚が研ぎ澄まされていくのが分かる。
「とても静かだわ」
「ああ、高くまで空間が広がっているからね。よく耳を傾ければ、色々な場所からの音がここに響いてくるのが分かるさ。森の入り口周辺の音だって、この神殿には響いて、私は聞き取ることができる」
「鳥の……鳴き声かしら」
「聞こえるかい? 君にも聞き取ることもできるだろう。鳥たちは高い声を上げるからね、響きやすい」
うっとりとするような香りが、どこからか漂ってくる。
「何か、甘い香りがするわ」
「素晴らしい」
ヒヨドリの御子が、驚いた素振りを見せる。
「川だ。川の水の香りだよ。この近くに、川が生まれる場所がある」
「川が生まれる場所?」
「どんな川にも始まりの場所がある。水が少しずつ集まって、ある場所から川が始まる。それが川が生まれる場所だ」
「見てみたいわ」
「それはまた今度。人間には少し危険な、足場の悪い場所でね。それより──」
ヒヨドリの御子は静かにマツの葉の上に腰を下ろし、両手を組み、顎をその上に乗せた。
「君は大丈夫なのか」
私は振り返り、尋ねる。
「大丈夫って?」
「昨日のことだ。砂漠の王や大臣にあんな接し方をして、君が平気とは思えない」
「見てたの?」
「見ていたさ。一部始終ね」
だとすると、彼は私が二人を叱責する様も見ていたのだろうか。そう思うと、私は途端に自分が恥ずかしくなった。
「平気よ。悪いのは彼らよ」
「なぜ嘘をつく」
ヒヨドリの御子の目は黒く、その中を伺い知ることはできない。でも、その目が鋭く私を見抜いていることを、私は認めざるを得ない。
「本当は、君はあの二人の願いを叶えたかったんだろう?」
「やめて」
私は目を伏せる。彼の目は黒く、まっすぐすぎて、目を合わせることが難しい。
「あれが薔薇姫を怒らせない、最善の策だったんだもの」
「彼女のためになら、君は誰でも傷付けて良いと思っているのか」
「私に説教するって言うの?」
「すまない」
ヒヨドリの御子が顔を伏せる。
「でも私は、君が、薔薇姫のためにあんな言葉を吐くのがとても辛い」
ヒヨドリの御子は、翼をわずかに開いたり閉じたりを繰り返して、言う。
「君が好きなんだ」
吹き抜けのマツの木々の間を、彼の言葉が通り抜けていく。言葉は互いの幹に反響し合って、教会の鐘のように反復しては遠ざかっていく。
私はヒヨドリの御子の隣に座った。
「ありがとう。貴方は見た目が少し怖いけれど、優しいのね」
「そうでもない。見た目が怖いのは認めるが、決して優しいわけではない。私はヒヨドリだ。皆が育てた農作物を失敬する。君のビスキュイもね」
「ビスキュイなら、いくつでも進呈するわ」
「そうもいかない。我々ヒヨドリは食べ物を独り占めしたがる悪癖があるからね。ある分は全部一匹で食べ尽くしてしまう。君の分がなくなってしまうよ」
「それは困るわ」
思わず私は笑ってしまう。
「休憩時間にお菓子がなくて、紅茶だけなんて嫌」
ヒヨドリの御子の口元が緩む。
「その顔だ」
「え?」
ヒヨドリの御子の翼が小刻みに震え、ゆっくりと開いて、閉じた。
「君のその笑顔が好きなんだ」
彼の黒い目が笑っている。
「どうせ生きるなら、私は苦しくても笑って生きる道を選ぶ。その方が得だと君は思わないか」
「生きることに、損得を考えたことはないわ」
「なら今、考えてみてはどうかな」
「今?」
「今だ」
損をする生き方、得をする生き方? なんだかあさましい気がする。
私は横目でヒヨドリの御子を見る。ヒヨドリの御子は、翼を上に大きく伸ばし、鳥の足をグルグル回しながら、あくびをしている。
鳥だから損得の話になるのだろうか。人間だから善悪や倫理で考えがちなのだろうか。私はぼんやりとそう考えてみる。
「誰だ?!」
突然、ヒヨドリの御子が立ち上がった。その面持ちは、これまでに見たことがないほどに険しい。
「何? 誰かいるの?」
「違う。この付近じゃない。おかしな音がする」
「おかしな音?」
「静かに」
ヒヨドリの御子に制され、私は音を立てないようにしながら耳を澄ましてみる。でも、私には何も聞こえない。
「城だ」
「えっ?」
「君の城から嫌な音がする」
「城?!」
「黙って!」
再び制されて、慌てて私は口を押さえる。できるだけ音を立てないように、私もゆっくり立ち上がる。
「この音は──燃えている! 君の城が燃えている。今すぐ戻らないと!」
ヒヨドリの御子が背を向け、腰を下げる。
「早く首を!」
私はすかさず首につかまる。すさまじい速さで、ヒヨドリの御子は針葉樹の木々の間をすり抜けていく。
「この際、雲を経由するのは無しだ。一刻も早く君の城に……」
森の木々は針葉樹から広葉樹に変わり、その瞬間に私たちは森を抜けた。
森を抜けた目の前、薔薇の城は、城全体が炎に包まれていた。
「君の、城に……」
「う、嘘よ」
城の周囲で、人々の争う声が聞こえる。言い争っているのではない。互いに手に武器を持ち、人々は殺し合っている。
「一体、何が……」
「なぜ? どうして?!」
薔薇の城の前にある広場には、巨大な投石器が運ばれている。人々が力を合わせて投石器を巻き上げ、掛け声に合わせて皆が手を離す。投石器から放たれた巨大な岩の塊が尖塔にぶつかり、塔が崩れ始めた。
「やめて! あなたたち、何が不満なの!」
燃える城
「落ち着くんだ、まず城に戻らねば」
ヒヨドリの御子が、全速で城の上空へ飛ぶ。
「落ち着くって何がよ! 燃えてるのよ、城が! みんなが城を壊してるのに!」
「みんなって誰だ! 誰がなぜ城に火を放ったのか、誰がなぜ城を壊すのか、それが分かるまで気を確かに持つんだ」
「嫌よ、もう嫌! どうして私がこんな目に遭わなきゃならないの!」
「黙れッ!」
ヒヨドリの御子の翼が、私の頬を打った。
「君は、白の薔薇姫じゃないか!」
ヒヨドリの御子の身体が震えている。
「見て分からないか。私は今、怯えている。怖いんだ。私は鳥だ。こんな所にいたら、あの投石器の石つぶてに巻き込まれたらひとたまりもない。でも私は逃げない。ここは君の城だ。私は命に変えてでも君を守る。だから逃げない!」
上空から見ると、明らかに武装した兵士たちが、城の正門を破壊するべく巨大な木の柱をぶつけている。
「まずい、あの門は長くは保たない」
「諸王だわ!」
「諸王?」
「あの鎧は諸王たちのものよ。今日は周辺国の諸王が集まって、不可侵条約を結ぶための会議を開いていたはず」
「しかし、これは諸王同士のいざこざには見えない」
「そうね、むしろ諸王同士が協力して薔薇の城を破壊している。応戦しているのは薔薇の城の兵士だわ。でもどうして?」
「それは分からない」
そこまで言って、ヒヨドリの御子の顔が蒼白になる。
「不可侵条約の会議が開かれていた場所は?!」
「場所?」
「部屋だ、会議室だ!」
「二階の奥よ。それがどうしたの?」
「白の薔薇姫が危ない! 君じゃない、もう一人の君だ!」
「どういうこと?」
上空から、私たちは城の北側二階へ回り込む。
「諸王の狙いがこの城で、諸王と会議をしていたのなら、真っ先に狙われるのは白の薔薇姫、もう一人の君に決まっている!」
「そんな、嫌よ、私の薔薇姫が!」
「会議室の窓は?」
「左から五つ目よ!」
「窓を割って入る。君は手を私の翼の下へ!」
私は首から手を離し、翼の下、ヒヨドリの御子の胸を後ろから抱き締める。
「目を閉じて!」
そう言いながら、既にヒヨドリの御子は窓に向かって突進していた。私たちがガラスを突き破るその瞬間、ヒヨドリの御子は翼をたたみ、私の腕に柔らかな羽根の感触がした。
会議室
「会議室に、着いたの?」
咄嗟に吐き気を催す。抑えようとしたが、堪え切れずその場に私は何度も吐く。おびただしい血の匂いだ。私は恐る恐る目を開く。
「ぐッ……ゥ!」
匂いだけで散々吐いたはずの私の胃から、どうにもならないほどの吐瀉物がザブザブと溢れかえる。もはや吐いているのではない。胃から放たれた吐瀉物が流れ出る。私の意思などお構いなしに吐瀉物が溢れ、息をすることができない。
「グォァアッ、カ……ハッ」
胃がひとりでに脈動し、その度に消火栓から水が噴き出すように吐瀉物が飛び出す。嘔吐と嘔吐の間に息を吸おうとするが、胃液と喉の粘膜がこびり付いて泡立ち、邪魔をする。
「大丈夫か」
ヒヨドリの御子が背中を翼でさすってくれる。
「全部吐いた方がいい。その方が楽だ」
「ゴフェエァ、アアっ……ッハ、ッェアッ」
「さすがにこれは酷い」
ヒヨドリの御子は平然と室内を見渡しているが、私には恐ろしくて振り返ることができない。会議室では、会議に参加した諸王が、椅子に座ったまま殺されている。
「ただ殺したのではない。顔面を殴り潰した上、腹を割いて臓物を引きずり出したな」
「うッ、グ……貴方、これを、平気で見ていられるの」
「平気なものか」
私は諸王の死体は視界に入れずに、横目でヒヨドリの御子の様子を伺う。
ヒヨドリの御子の翼には無数のガラス片が突き刺さり、今も血が溢れ出ている。
「貴方、翼が!」
「問題ない、想定内だ。君こそ大丈夫か。翼で覆ったつもりだったが」
「私は大丈夫。でも駄目よ、こんなに血が出てるわ」
「良くあることだ。それより」
ヒヨドリの御子は、会議室を見渡す。
「白の薔薇姫はどこだ」
「まさか……」
「少なくともここにはいない。ここにあるのは人間の男の死体だけだ。もし、城のどこかに逃げ隠れるとしたら、場所に心当たりは?」
「分からない。逃げたり、隠れられる場所……」
「──ッ」
ヒヨドリの御子が、突然ガクリと膝をつく。
「しっかりして!」
「これは、参ったな。思ったより、血が──」
「待って、今、刺さったガラスを抜くから」
「やめろ!」
私は翼に刺さったガラス片を一つ抜いた。途端に、抜いた傷口から噴水のように血が噴き出る。慌てて私は傷口を手で押さえるが、噴き出る血の流れを止めることができない。私の手いっぱいに、あたたかなヒヨドリの御子の赤い血が流れていく。
「やめろと言った」
「ごめんなさい」
「刺し傷は、状況にもよるが、抜いてはいけない。失血死につながる」
「ごめんなさい」
「いいんだ、私は許す。君を、許す」
「私……」
「許すと言っている。失敗しない生き物はいない。その全てに目くじらを立てても何も生まない。あらゆる生き物は、相互に許し合って生きるものだ。まして」
ヒヨドリの御子は、翼を丸めながら立ち上がる。
「神である私が人間を許さずに、誰が許すと言うんだ」
そう言って、ヒヨドリの御子は私に力なく微笑む。
「寒いの?」
「少し、な。血が足りないせいだ」
「あなたの手当てをしないと」
「君と、白の薔薇姫の安全が優先だ。諸王の狙いは恐らく君たちだ。私ならいつでも飛んで逃げられる」
勇気を出して、私は諸王の死体の数と、服に付いた紋章を確認する。
「全員だわ。会議に出席した諸王、全員が殺されている」
「……」
ヒヨドリの御子は、急に考え込み始めた。
「どうしたの?」
「いや」
問題ない、という風に頭を少し傾げてから、ヒヨドリの御子が言う。
「私の考えすぎだろう。とにかく、白の薔薇姫を……」
言いかけたところで、ヒヨドリの御子の、翼と鳥の足がダラリと下に垂れ下がった。
「大丈夫?」
ヒヨドリの御子は何も答えない。虚脱したかのように、ぼんやりと窓の外を見ている。
「ねえ」
ヒヨドリの御子の口が、ゆっくりと開いていく。何を見ているんだろう。私も振り返り、窓の外を見る。
城の先、森の入り口に諸王の兵士たちが集い、何かをしているようだ。
「何を……しているのかしら」
答えはすぐに分かった。巨大な篝火が焚かれ、篝火が次々に森に投げ込まれていく。森を焼いているのだ。
「森が」
かすれるような声でヒヨドリの御子が言う。森の入り口に放たれた火は瞬く間に広がり、森周辺の広葉樹が一気に火柱を上げ始める。
「森が焼かれている! 私の森が!」
広葉樹は今や新たな火種に変わり、その内側、針葉樹林を少しずつ蝕み始めた。
「もう、駄目だ」
ヒヨドリの御子の言葉には、ただ絶望だけがあった。
「終わりだ。あの勢いの炎を止める術はない」
ゆっくりとうつむき、ヒヨドリの御子の黒い目から涙がこぼれた。
「泣いている場合じゃないわ、しっかりして!」
私はヒヨドリの御子の肩を掴み、強く揺さぶる。
「死ぬんだ。私たちは死ぬんだ」
「莫迦ッ!」
私はヒヨドリの御子の頬を張り倒す。
「貴方、鳥たちの王なんでしょう!」
私にぶたれたヒヨドリの御子が、呆然としている。
「さっき貴方が私に言ったことよ。私は白の薔薇姫。この城の主。だからこの城を最後まで守り抜くわ。でも、貴方は森の主でしょう。鳥たちの王なんでしょう。何を一人で死を受け入れてるの! まだ生きてる命が、あの森に取り残されてるじゃない! ヒヨドリの御子!」
私の語調に、ヒヨドリの御子は身をすくませる。
「貴方は、今すぐ森に帰るの。そして、森に生きている動物たちを、少しでも安全な場所へ逃がしなさい」
「しかし、君はどうする」
「ヒヨドリの御子、それは愚問よ。私は白の薔薇姫。この城を守ります」
私は毅然と言い放つ。
「だが、諸王との兵力差は歴然だ。火の手もここまで回っている。守り抜くことは無理だ」
「誰も迎え撃つとは言ってないわ。城の者たちと落ち延びて、生き延びてみせる」
「でも、私は、私はもし君の身に何かあったら──」
私はヒヨドリの御子を抱き締める。
「その時は、貴方に助けを呼ぶ。約束する。貴方、耳が良いんでしょう? 必ず助けに来て」
「薔薇、姫……」
ヒヨドリの御子の傷だらけの翼が、そっと私を包む。羽根なのか、流れる血のあたたかさなのか、それは分からない。でもそのあたたかさを、私は愛おしいと思う。
私たちはゆっくりと離れる。
「お互い、時間に余裕がない身よ」
「ああ、そうらしい」
「一匹でもたくさん、鳥たちを逃がしてあげて」
「鳥だけじゃない。大仕事だ」
「それはお互い様よ」
私は城の中へ進もうとする。
「薔薇姫!」
「何?」
「その、白の薔薇姫、君じゃない方の薔薇姫だが」
「ええ」
「……」
ヒヨドリの御子は、逡巡しているようだった。
「いや、すまない。君が本当に危ないと思った時、必ず私の名を呼ぶんだ。いいね?」
「いいわ、約束する」
ヒヨドリの御子は少し宙に浮かび、そのまま会議室の窓から森に消えた。
改めて会議室に居並ぶ諸王の死体を見る。こんな死体の一つや二つで吐いている場合じゃない。私は、城の者たちを、薔薇姫を、救わなければならないのだ。
生きてこそ
二階の会議室を出て一階に降りると、大広間に城仕えしている者たちが集まっていた。私はすぐさま状況を確認する。
「ここにいるのは?」
「皆、戦えぬ者たちです。戦える者は、中庭で迎撃すると申しておりました」
「誰か、中庭に行って迎撃を中止するよう伝えなさい」
「では、降伏するのでございますか?」
不安気に尋ねる給仕に、穏やかに伝える。
「いいえ、降伏はいたしません。私たちはこれより城を放棄し、逃げ延びます」
「城を、棄てるのでございますか」
「ええ、皆、辛い思いをさせてごめんなさい。ともあれ、諸王との兵力差は歴然です。また、私たちが逃げ込めないように、先ほど森に火が放たれました。降伏しても、穏やかな結果にはならないでしょう」
皆がすすり泣く声が聞こえて、胸が痛む。
「誰か、なぜ諸王が私たちを攻撃し始めたのか、分かる者はいますか?」
「それが、誰にも分からないのです」
侍従長が言う。
「突然、城の外でワッと声が上がり、今はこの有り様で」
「そうですか……」
中庭で応戦するつもりだった兵士たちも、次々に大広間に集まってくる。
「おお、薔薇姫様、ご無事で何よりでございました。お姿が見えず、肝を冷やしましたぞ」
「ああ、騎士団長。心配をかけました。しかし、なぜ、諸王は私たちを?」
「私どもにも分かりませぬ。城外にいた兵士たちは、皆、突然襲われたようで、応戦する間もなく全滅とのこと」
「おかしいわ。仮に不可侵条約の会議が決裂して交戦に入ったとしても、あまりに反応が早すぎる」
「ええ、しかも巨大な投石器がこんな短時間に準備できるはずがありません」
これでは、まるで最初から……
「ともかく、時間がありません。周囲を包囲され、森に逃げることもできぬ以上、逃げ道は一つしかありません」
「と申しますと?」
騎士団長の問いに、私は答える。
「この城の地下には、今は使われていない、かつて水路だった道があります。諸王がこの存在を知らなければ、そのまま隣町の地下まで逃げることができるわ」
「諸王が、その水路の存在を知っている可能性は」
「無くてもあると考えるべきね。待ち伏せがある前提で準備しましょう。幸い、水路は狭く、通路戦闘になるわ。狭ければ兵力差で押し切ることは難しい。長槍を持つ者を前に、要らない武器は棄てて。少しでも身軽にするのよ」
兵士たちが互いの装備を交換し合い、近距離用の武器を棄てる。戦えぬ者たちは動きやすい服に着替え、運べるだけの水と食料、医療品を背負う。幸い、まだ正門は破られていない。
「では、皆静かに。調理室の下、貯蔵庫の奥に地下水路への扉があるわ」
城の者たちを連れて、貯蔵庫へ向かう。貯蔵庫の奥、氷室の鉄格子の先に、地下水路への扉がある。
「長槍兵から中へ。急いで」
まずは兵士が地下水路に入り安全を確認して、その後に戦えない者たちが続いた。全員が地下水路に入り、陣形を整える。
「姫様」
侍従長が耳打ちしてくる。
「どうしたの?」
「薔薇姫様のお姿が見えません」
ためらっている時間はない。正門が破られれば、例え地下水路に逃げ込んでも、背後から追われることになる。
「あなた方は先に行きなさい。私は城に残り、薔薇姫を探します」
「とんでもございません、諸王の狙いは間違いなく姫様なのですよ!」
「だからこそです」
侍従長を見据えて、私は言葉を続ける。
「ここで薔薇姫が殺されてしまえば、この世に薔薇姫はいなくなってしまいます。世の中の者たちは、白の薔薇姫が一人だと信じています。私たちのどちらかが死んだ時、もう一人の私は社会的に死ぬのです」
「しかし!」
遠く、正門に丸太が打ち付けられる音が響く。
「侍従長、私は貴方に命じます。必ず皆を隣町へ」
「姫様!」
「生きてこそ、です」
「できません!」
「私のわがままを、どうか許して」
私は一人、氷室に戻り、扉を閉め、鉄格子の鍵をかける。これで仮に正門が突破されて兵士が地下水路の扉を見付けたとしても、次は鉄格子を破らなければならない。時間稼ぎにはなるだろう。
そのまま貯蔵庫から調理室へ戻り、調理室にある井戸──深さ30メートル──に、鉄格子の鍵を投げ捨てる。これで鍵も手に入れることはできない。皆は生き延びられるだろう。
不思議な心持ちだ。恐怖を感じない。できる限りのことをやったのだ。私は小さな勝利を手に入れた。あとは……
あとは、薔薇姫を救う。それだけだ。
聖堂
調理室まで来た道を引き返しながら、私は薔薇姫がいる場所を考えていた。
少なくとも、火が燃え盛っている場所は除外していい。崩れた尖塔も考える必要がない。残るは城の本館だが、会議室から大広間に移動した時にも人の気配を感じなかった。見ていないとすれば、聖堂くらいだ。
薔薇の城の北東から東向きに、小さな聖堂が建てられている。町には大きな大聖堂があるが、城内で暮らす私たちのために、ささやかな聖堂が設けられた。私は聖堂に向かって走り、扉を開ける。
聖堂の中央に祀られた母子像の前に、薔薇姫がひざまずき、祈りを捧げていた。その背にはクロスボウを背負い、傍らには血がこびり付いた剣と巨大なハンマーが転がっている。
薔薇姫がゆっくりと立ち上がる。
「どこに行ってたの? 探したのよ」
薔薇姫は振り向こうとしない。
「何があったの? 不可侵条約はどうなったの?」
「不可侵条約?」
薔薇姫が嗤う。
「条約は締結されたわ、条件付きで」
「条件?」
「批准国同士は相互に不可侵とする。ただし」
ゆっくりと薔薇姫が振り返る。
「本条約をもって白の薔薇姫を廃するものとする」
薔薇姫の口が歪む。
「棄てられたのよ、私たち。お払い箱ってこと。ご丁寧にあらかじめ諸王同士で連携して、城の外に兵士たちを潜ませていたわ。条約を締結した瞬間から薔薇の城への攻撃を開始。会議室にいた諸王16人は、白の薔薇姫を始末する、って寸法よ」
「そんな、どうして」
「理由なんて知らないわ。とにかく、私たちはこの世界に必要とされなくなったの。生きてるとむしろ邪魔なのよ」
「あまりにも身勝手だわ、私たちを散々使い倒しておいて!」
「ええ、本当にその通りね。私もそう思うわ。珍しいわよね、私たちの意見が一致するなんて」
「でも薔薇姫、貴女、じゃあ諸王に襲われたの?」
「ええそうよ、16人で一斉に抜いてきたわ」
嗤いながら薔薇姫は膝を曲げ、足元の、血がこびり付いた剣を手にする。
「そんな、一体どうやって……」
「決まってるじゃない」
薔薇姫が再び立ち上がる。
「殺したのよ。この剣と、このハンマーでね」
私は会議室での惨状を思い出し、寒気を覚える。
「でも、でも、会議室の諸王の遺体は椅子に座っていたわ」
「ああ、見たのね?」
薔薇姫がクスクスと笑い声を上げる。
「殺したあと、一人一人元の位置に座らせてあげたの」
「貴女一人で16人もの諸王を、どうやって?」
「貴女ってつくづく莫迦ね。あんなに大きなテーブルがあって、17脚もの椅子があるのよ? ただでさえ狭い室内戦闘にこれだけの障害物があれば、人数はむしろハンデにしかならないわ」
そう言って、薔薇姫は剣に付いた血を舐める。
「同時にまともに攻撃を繰り出せるのはせいぜい3人か4人。私が一撃も受けずに致命傷を与え続ければ、相手は次々に倒れていく。そうなれば私の勝ちは確定。たった一人の小娘相手に16人で向かっているのに、仲間が次々に倒れていけば恐怖が生まれる。恐怖すればするほど、人間は仕留めやすいわ。恐怖が戦闘においてハンデにしかならないことくらい、貴女にだって分かるでしょう?」
薔薇姫は楽しそうに嗤う。
「だからって、あんな殺し方!」
「貴女、何言ってるの? 私を殺そうとしたのは奴らよ。私にどんな殺し方をされようが、自業自得だわ。そもそも」
薔薇姫が手に持った剣を私に向ける。
「殺されそうになったのは、貴女じゃないじゃない?」
先ほどまでの笑みは、もはやない。
「白の薔薇姫の掟は消えたわ」
そしてゆっくりと睨み付ける。
「薄々気付いていたでしょう? 私が愛してるのは私だけだって。私が貴女を愛していたのは、貴女が私だったから。ただそれだけよ。でも掟が消えた今、もう、貴女は私じゃない。だから貴女を愛する理由も、もうないの」
薔薇姫は憐れむように言う。
「この世に白の薔薇をまとうにふさわしいのは私だけ。私以外の白い薔薇は、邪魔なの」
「私は」
歯を食いしばるように私は言う。
「私は、貴女を恐れたりしない」
「あら、そう? 手ぶらで? 随分余裕ね。諸王16人がかりで傷一つ付けられなかったのよ、私は」
「それが何だって言うの。私には──神様の加護があるんだから」
「アッハハハ! 笑わせるわ!」
おかしくてたまらないという風に笑ったあと、薔薇姫の剣先がゆらりと揺れる。
「お別れよ。この世に白の薔薇は私一人でいいの。貴女は、そうね、赤い薔薇に変えてあげる!」
再び薔薇姫の剣先が揺れるや、瞬時に引き、鋭い突きが繰り出される。
「私は、赤い薔薇になんかならない! 私は──」
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