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ひとつのあたりまえの話
shibaです。
最近AIをいじるのが楽しくてAI利用料金がヤバイことになって焦っている、デザインもエンジニアリングもする人です。
突然ですが、あたりまえの話をします。
ほめられて嬉しかったです(わーい)。
多分これはあたりまえ。
ほめてもらえること、特に忖度などが感じられず純粋に予想外のタイミングでほめてもらえることは嬉しいことだと思います。
嬉しかった勢いでこの記事を書き始めました。
多分これはあたりまえじゃない。
問題は予想外のタイミングだったことーーほめてもらった内容が僕にとってあたりまえの行動だったことです。
楽をしようとすればできるけど、ちゃんとするのはあたりまえだと思うから、ちょっとだけ手間をかけただけのことです。
問題から浮かんだ疑問は2つ。
どうして嬉しかったんだろう。
どうしてほめてもらえたんだろう。
嬉しかったのは、多分最近人に心からほめてもらえたと感じたことが少なかったからです。
ほめてもらえたのは、僕にとってのあたりまえがその人にとってあたりまえでは無かったからです。
「あたりまえ」はひとりひとりの中にある。
あなたがあたりまえにしていることの全てが僕のあたりまえでは無いでしょう。
僕はあなたが意識していることがらを知らないので、同じことを意識しているはずがありません。
これはあたりまえですか?
ぼくは田舎に住めばあたりまえのように月に一回は職質に受けます。
多分これはあたりまえじゃないです。
ラーメンはおいしいです。
多分あたりまえの割合が高いです。
種類によるかもしれません。
このあと食べに行きます🍜
自分のあたりまえを超えてきてくれることは嬉しいです。
期待を超えてきてくれることは嬉しかったり感動したり感心したり、少なからず自分の学びになります。
では、他人が自分にとってのあたりまえを実行することは嬉しいですか?
他人が自分にとってのあたりまえを実行しないことは嫌ですか?
今回のことを受けていくつか思い出したフレーズがあります。
あたりまえを実行できることはすごいこと
自分が努力して行動していることをしていない人が自分にとって嫌いな人
あたりまえだと思っていることをしてくれないと文句を言うのに、あたりまえだと思っていることをしてくれても何も思わないのはなぜだろう。
と、振り返りました。
ルームシェアをしている僕は、何かしてもらったらとりあえず礼を言おうと心がけています。
でも、余裕がないときはそれどころじゃなく期待していることをしてくれないだけでちょっと不機嫌になることもあります。
例えば数年前、会社で仕事をして帰ってきたら家で仕事をしている同居人が炊いた米を食べ尽くして炊いてくれてなかったときとか。
(根に持ってるわけじゃないですマジで)
流石に僕らしくないことを書きすぎているので、ていうか某曲を思い出してまんまその内容っぽい気がして恥ずかしくなってきたので、さっさと結論を述べます。
自分にとって当たり前のことを他人がしてくれることは凄いことです。
してくれないのか普通です。
他人はその人の当たり前のために行動していて、さらに自分の当たり前にも合わせてくれる。
僕は全然できてません。
あたりまえを実行できることはすごいことなんだなあと思います。
これはあたりまえですか?
僕はあたりまえだと思うようにします。
その方が僕が褒めてもらえるきっかけが増えそうなので。
では。
おまけ
真面目な話、自分にとっての当たり前を疑い、時には否定することがデザインという仕事には個人作業であっても求められます。
僕が「やっぱり」という言葉を使わないのは僕にとってのデザイナーとしての信念です。
でもその言葉を使うことで価値を生み出すデザイナーが存在することも事実だと思っています。
過去に記事に書いたような書いてないような。
今更こんな記事を書いてる僕もまだまだです。
この記事は書き方を間違えると「感謝って大事だよね」みたいな話になりそうですが、そういう記事は苦手だと僕は思うので避けました。
だれかが自分にとっての当たり前を見直したときに思い出してくれればいいなくらいの気持ちで書いてます。
現在進行系で色々な当たり前が変わり続けているからこそ。
では。