それは、偶然のような必然のような
今日は
「自分でも絶対あり得ないと思うんだけど、そうだったらいいな」
と思っていることを書き残しておくためにPCを開きました。
これを読んでいる皆さんは、身近な人を亡くした経験がありますか?
私は、19歳の時に同い年の従兄弟を病気で亡くしました。
私が信じたいこの話は、大切な従兄弟への感謝と共に綴りたい。
今回は、従兄弟のことを「A」と呼ぶことにします。
従兄弟、にも色々な関係の形があると思いますが、
「A」は私にとって大切な友達であり、幼馴染であり、兄のようでも、弟のようでもある存在でした。
田舎出身なので親戚付き合いが濃く、小さい頃は土日の度にAとA以外の従兄弟と祖父母の家に集まり、近所を探検したり、かくれんぼしたり、秘密基地を作ったり、開けてはいけないと言われていた戸棚を開けてみたり、ごっこ遊びをして遊びました。
住んでいる家は違かったけれど、皆兄弟のような存在でした。
中でもAはみんなの笑いの輪の中心になってくれる人でした。
面白いことをして笑わせてくれたり、何気なしにとった行動が面白かったり。大人からも子供からも愛される存在でした。
対して私の小さい頃は、気分に呑まれやすく、大人には「我儘で難しい子」、というような印象を持たれていたのではないかと思います。
「誰も分かってくれない。」
そんな風に思っていじけている時、いつも決まってAが気づいて迎えに来てくれました。
いつもそうでした。他の従兄弟や大人は放っておく中、「どうしたの?」「みんなのところいこう」と隣に座ってくれました。
大人に「Aの言うことなら聞くから」と言われて仕方なく構ってくれていたのかもしれませんが、私はそのAの優しさに何度も救われていました。
月日が経って、高校生になる頃、Aの病気が発覚しました。
最初は「足が痛い」と言う訴えだったそうです。
病院で診てもらうと、「骨肉腫」と言う病気で、骨の癌のようなものだと聞きました。
そう聞いた時、私は泣き崩れる訳でもなく、目の前が真っ暗になる訳でもなく、ただ、「そうなんだ。」と、思うだけでした。
理解できる範疇を超えていたからです。その病気は治るのか、どのくらい具合が悪いのか、「癌のようなもの」だから癌ではないのではないか、どの方向から考えてもAがいなくなる想像はできませんでした。
「現時点、私がAにできることは何もない、ただ普通に振る舞うことだけである。」
考えた結果、私が出した答えでした。
親戚で集まった時も、皆明るく振る舞いました。病気のことには触れない訳ではなく、ただ、触れつつもシリアスになり過ぎないように、いつもそうだったように、笑いの中心にAを置きました。
高校を卒業し、私は就職、Aは大学へ進学しました。
Aは大学進学した後、一人暮らしも経験して、先輩に連れられてBarに行ったり、色んなことを経験したと聞かせてくれました。
薬の影響で身体は折れてしまいそうなくらい細くなってしまっていたけど
基本的には自宅療養で、必要に応じて検査入院、と聞いていたので、
このまま病気も良くなるかもしれない、一緒に成人式にも出られて、何年後かにはまた従兄弟の誰かの家の庭でBBQでもしながら、「良くなって本当によかったね」なんて笑い合うことができるんじゃないかって、そんな風に思っていました。
Aが入院したと聞き、19歳の夏頃、家族でお見舞いに行きました。
Aはベットに座りながらも身を起こし、元気に振る舞ってくれました。
このまま良くなるよと話して病室を出ました。
しかし、その年の秋、薬の副作用で言葉が思うように出てこなくなってしまう、と聞きました。同時に、もしかしたら、という話も聞きました。
今まで、私が1人で病院に会いに行くのは、Aは嫌がるのではないか、と思っていたし、2人きりになってしまったら何を話したらいいのか分からないから病院に行くのは避けていたのですが、その時は行かなきゃ後悔する、という思いで1人で病院に向かいました。
病室にはAのお母さんとAがいて、先生と看護師さんがいました。
私が部屋に入ると、Aはとても落ち着かない様子で、Aのお母さんに何かを訴えていました。「待って、待って」と言っていたように聞こえました。
私の勝手な想像ですが、弱っている姿を見られたくなかったのではないかと思います。
私は一旦部屋から出て、Aが落ち着くのを待っていると、Aのお母さんがAの車椅子を押しながら部屋から出てきてくれて、病室から出てすぐ近くの見晴らしスペースのような場所に誘ってくれました。
そこはガラス張りの壁になっていました。とても見晴らしが良い場所でした。その日は幸いにも晴れていて優しい陽差しが入り、少し不安や緊張が和らぐような優しい空気が漂っていました。
何を会話したかはもう覚えていません。何気ない会話でした。でもとても大事な時間でした。
別れ際にはAはたくさん「よかった。よかった。よかった。」と繰り返してくれました。
私は、自己満足かもしれませんが、Aが「よかった。」と思ってくれたのであれば、勇気を出して会いに行って良かったと、思っています。
「また家族とみんなで会いに来るね。」
と言って、病院を後にしましたが、Aとした会話はそれが最後になってしまいました。
後から聞いた話では、仕事の都合がどうしてもつかず私以外の家族でAに会いに行った時に、繰り返し私の名前を呼んで探してくれていたようで。
それを聞くと、急に損失感のようなものが心に広がり、居ても立ってもいられないような気持ちになるのですが、向かう先がないのです。
今回のタイトルを「偶然のような必然のような」と付けたのは
このような出来事の3年後の冬に起きた出来事をお話ししたいためなのですが・・・
大分長くなってしまったので、
この辺りで一度区切らせていただき、続きは②として新しくnoteを作ろうかと思います。
ここまで読んでいただき、私の大事な記憶を共有してくださりありがとうございます。
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