キリスト教全然わからない人間が太宰治・『駆込み訴え』について考える
こんにちは。
今回は太宰治作品「駆込み訴え」について考えてみたのでつらつらと語らせていただきます。
・駆込み訴えとは
太宰治による短編小説。
新約聖書・ユダの裏切りより、イスカリオテのユダによる告発を題材にした作品である。
下記、Wikipedia引用
初出 『中央公論』1940年2月号
単行本 『女の決闘』(河出書房、1940年6月15日)
執筆時期 1939年12月完成
原稿用紙 34枚
作品はこちら↓↓↓
・「私」から見た「あの人」と
「その他」
「私」と名乗る人物による「あの人」への愛が次第に憎しみへと移りゆく様を描いている本作。登場人物の特徴などを軽く纏めていきます。
『私』…あの人へ無償の愛を抱くも、あの人とマリヤという娘との出会いを皮切りに次第に愛が疑念に変わり、憎しみへと変貌を遂げる。あの人以外の人物にはほとんど関心を持たず、それどころか軽蔑の念を抱いている。ペシミスト傾向。
『あの人』…神の子と崇められる美しい人。良くも悪くも平等。
救世主のように振る舞うが、声を荒らげたり主人公を見せしめのように責めたてることも。 本心は不明。
それぞれの視点
「私」から見た他者
など辛辣な内容ばかりなのに対して、
私から見たあの人
と、終始愛情と憧憬が溢れるような表現をしています。この対比がまた、作品を引き立てる魅力だと思います。
・作品終盤での豹変、最後に名乗った理由についての考察
告発後、初めは金銭の受け取りを拒否し憤怒する「私」ですがすぐさま、自分は商人だったと言い受け取り、「あの人」への復讐に心を燃やします。
このことについて、はじめは単に嫉妬心から思い立った復讐だったがその嫉妬心を他者に悟られることを恐れ、「金銭が目的で訴えた」という風に装ったのだと個人的に考察しています。また、金銭のやりとりをする前に登場するピイチクピイチク騒ぎ立てている小鳥は「私」自身の「あの人」への、愛や憧憬が小鳥の声となり「私」に対して警鐘を鳴らしていたのだと思います。
作中最後に名を名乗る表現についてですが、これは最高に粋な倒置法だと思っていて、
最後に名を名乗ることで読者に強い印象を与えるだけではなく、「あの人」=イエス・キリストに弟子であるユダが一矢報いたと爪痕を残すような表現 だからです。
ただの告発なら匿名でも問題ないはずなのに、それでも名乗ったのは
どんな形であろうと、たった1度だけであろうとキリストに自分だけを見て欲しかったから。
憎しみでも憐憫でも良いから、見返りが欲しかったんですね。なんとも人間らしくて個人的には好きです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
私はキリストと同じと言われるINFJを自認していますが、ユダの気持ちに強く共感してしまいます。下記は私のツイートですが、ユダの本心はこうであったのではないでしょうか。
まとまらない文章ですが、このnoteをきっかけに駆込み訴えやイスカリオテのユダに興味を持っていただけたら嬉しいです。
追記:こちらのお方のnoteが大変面白かったので共有します。
最後までお読みいただきありがとうございました🫶🏻